8-2 不幸宣言
今日もいじめられているところを、昨日と同じところで、全く同じようにいじめられていたMを、全く同じように助けた。
三人の少年少女は、同じようにしらけたことに腹を立てて公園から出ていった。昨日の反省はしていないようだった。
茉莉はMに、親がする子供への言い聞かせのように言った。
「ダメですよ。嫌なことははっきりと言わなくちゃ」
Mは黙ったまま、茉莉の顔を見つめる。少し不安になる。
「嫌、ですよね?」
少しして、Mが口を開いた。
「嫌だったけど……。それが普通だと思ってた。でも」
そして視線を上げる。
「違うんだね」
Mは茉莉の言葉をようやく理解したようで、不思議そうな表情を解いた。
そして小さく微笑んだ。
茉莉はやはり彼は自分に近い人間であると確信する。
それが当たり前でないことに気が付かない。Mはそれをようやく理解し始めたのだ。いじめは普通ではない、と。
普通でないことは、我慢の理由にはならない。
彼は頭がいいようで、今の自分の他の状況が、当たり前でない可能性を検討する。そして彼は言った。
「ねぇ、教えて。茉莉の知ってること、知らないこと。知りたい」
茉莉は頼られたことが初めてで舞い上がり、「うん」と元気よく返した。
そしてゆっくりできる場所として、彼のお気に入りの公園に連れていかれる。
*
目的の公園に到着してすぐに「ここは自殺の名所なんだ」とMは言った。
死ねない茉莉にとって、ここにいることが何だか皮肉のように思えてくる。
山の中腹にある場所だった。
ここからは岩船の町とどこまでも続く海が見渡せる。港が栄えている様子が見えた。漁船が出入りして、釣人の姿も見えた。
風が吹いて、潮の香りを運んでくる。
「ここ、すごいでしょ?」
「ええ」
圧巻の景色の前に、茉莉はそう言うことしかできなかった。「言葉を失う」とは、まさにこのようなことを言うのだろうと思った。
「凄いです」
機械のように同じ言えない自分が、なんだか笑える。
「僕のお気に入りなんだ。いいでしょ?」
「すごくいいところですね」
茉莉は見渡しながら言う。
「どこまでも見渡せて、すごく落ち着きます」
自殺の名所でなければ、子供たちの遊び場にも適していそうだった。
「誰にも言わないでね」
Mは口に人差し指を当てて言った。
今まで見たことのなかった微笑みだった。
きっと今の姿が彼本来のものなのだろう。
「あいつらが来ちゃわないように」
彼の言うあいつらとは、彼をいじめていた三人組の事だろう。
いじめられていることを普通に思っていても、どうしてもここだけは知られたくなかったのだと推測できる。
彼にとってそれだけここは大切な場所なのだ。
景色を楽しんでいると、Mが肩を叩いた。
「それでさ、教えてよ」
「はい。あそこで話しましょうか」
ベンチを指差して言う。
「ずっと立ってるのも疲れるでしょうし」
「そうだね」
それから二人は日が暮れる前まで語りつくした。
無知な茉莉が実際にこの目で見て、肌で感じたことを全て。
それはおおよそ、Mの知らないことだった。Mは外の世界を知ってしまった。
そうしてMは憧れを抱くことになる。
「凄いんだね。外って」
太陽が沈みかけて空が朱色になった頃、Mは独り言のようにぽつりと言った。
「僕、何にも知らなかったんだな」
茉莉は何と言えばいいか分からず、そのまま黙っていた。
「ねぇ、茉莉」
「どうしましたか?」
沈みゆく太陽を見ながら訊き返す。
「僕、中学を卒業したら、この町を出るよ」
「それは……そうですか」
優しく彼の言葉を受け止める。
「僕はこの町で産まれて、この町で育って、この町の子と結婚して、この町で子供や家族を設けて、この町で死んでいくんだ。そう思っていた。けどさ――それじゃああいつらと何も変わらないじゃないか……!」
静かに怒りを含ませて言う。
Mは立ち上がった。そして茉莉の前に立って、目を見つめる。けれど夕陽が背にあるため逆光になり、うまく顔が見えない。
「決めた。僕はあいつらにやり返す。少しでいい。やり返すんだ。殴られて、蹴られるのが普通じゃないって知っちゃったから。あいつらをほんの少しでいいから見返して、僕はこの町を一人で出る。お父様が止めたって、僕は気にしない」
それは覚悟の目だった。その目に、茉莉はひどく心を打たれる。
たった数時間で人間はこれほどまでに変われるのか、そう思った。
茉莉は立ち上がって、正面にいるMの手を取った。ぎゅっと握る。
「やろう。わたしも手伝います」
その行為がどんなものであれ、茉莉は手伝うことを決めただろう。その意思に心を打たれたのだから。たとえMの覚悟が犯罪に繋がるのだとしても、手を貸していたかもしれない。
「ありがとう」
Mが微笑んでそう言った時、夕陽が完全に沈みきって、Mの顔はほとんど見えなくなった。空は紫色で、肌を撫でるような風が吹いた。
どこか不吉な予感がした。
Mはその空を見上げると、思い出したように「あ」と言った。
「どうしたんですか?」
「もう帰らなくちゃ」と空を指差して言う。
「送って行きましょうか? 遅いことですし」
「ううん、大丈夫。一人の方が怒られない」
「そうですか」
「じゃあね」
「ではまた」
そのようにして二人は別れる。
茉莉はお金をあまり持っておらず、さらにこの町に宿らしいものを見つけることができなかった。昨日と同じように野宿をするしかなかった。
昨日は港近くの小屋で眠ったのだけれど、今日眠る場所としては、ここのベンチが丁度よさそうだった。
結局、茉莉は朝までこの公園にいた。
*
Mは学校に行っているから、昼間は会うことができない。
町を見て回るのも飽きたが来て、茉莉は一日中その公園から景色を眺めていた。
ただ退屈な景色を見ていただけならば、それこそ町を回ることと同じように飽きてしまっていただろう。しかしどうしてか公園から町の景色を眺める事だけは、飽きがこない。なぜだろうと疑問に思う。
そしてふと、自分はここの景色が好きなんだなと思った。
海から吹く風が運んでくる潮の香りが、田んぼの中に突然現れるようなこの町が、世界の果てまで続いているような青い海が、それらをここから見ること、その全てが好きなのだ。
そうしてみていると、Mの声がした。その方を見る。
「おはよう」
Mの言葉に、茉莉は「今は朝じゃないですよ」と言った。
「確かにそうだね」と少し恥ずかしそうに笑う。
「夕方に人に会うことなんてあんまりなかったから」
そう言われてようやく夕方になったと気づく。
Mが学校から帰ってくる時間なのだ。時計がないためにはっきりとは分からないけれど、最低でも時刻は午後四時を回っているだろう。
「時間がないね。さ、話し合おうよ」
「分かりました」
そんな風にしてⅯと茉莉は話し合う。
どうやったら彼らにやり返しができるかについてだ。
雨の日も風が強い日だってこの公園に来て、一日二時間ほど作戦を練った。
たまにⅯの顔に痣ができていたり、お金が奪われていたりしていたから、あの三人組にいじめられているのだなと理解できた。
出会いを重ねるうちに、茉莉は心に一つの感情を抱いていたのだが、茉莉はその感情について詳しく知らないから、ただの違和感として受け止める。
そうして二週間ほどが経ち、完成したやり返し計画は、少しだけ複雑なものだった。
ただ暴力的にやり返すのはやり返す意味がない。
そしてどうやってⅯ一人が三人を相手にするのか。全くもって勝てるビジョンが見えない。
そもそも、暴力を暴力で返すのは現実的ではないのだ。
そういうわけで、少し見方を変えてみる。
彼ら彼女らに、名誉的に仕返しをするのだ。
過程を抜きにして分かりやすく言えば、彼らの晴れ舞台を台無しにしてやるのだ――それもできるだけ直前に。逃げられないように。
避けようのないように。
これが成功しても、きっとⅯへのいじめは止むことはないだろう。
考えるまでもなく、いじめはこれで以上に苛烈なものとなる。
それでもⅯがやり返したいと思ったのは、それが普通ではないと知ってしまったからだ。
変えようのない環境に、少しくらいは逆らいたいのだ。
たとえ自分がどれだけ無力だとしても、全くのゼロではないことを証明したいのだ。
いじめに対するほんの少しの対抗のつもりだった。
味方なら隣にいる――茉莉がいる。大丈夫。Ⅿはそう考える。
そして日は過ぎていき、やがてⅯの学校の体育祭の日になった。
*
Ⅿと茉莉が計画したのは、保護者や全校生徒が集まる体育祭で、彼ら彼女らのスキャンダルを匿名で発表することだ。
もちろんスキャンダルの内容は真っ赤な嘘であるが、それが嘘なのかは本人以外知らないし、「それは間違っている」と主張したところで、信じてくれる人がどれだけいるかも分からない。
加えて普段から彼ら彼女らは横柄な態度を取っていたから、よく思っていない人もいるだろう。そういう人に向けて、捏造のスキャンダルは最も有効だ。
そして明朝、まだ誰も登校していない頃、Ⅿはやり遂げた。
学校の壁に根も葉もない噂を書いた。
それも尊厳を傷つけるような、あるいは彼ら彼女らの見方が百八十度変わってしまうような噂を。
それ自体を茉莉が見届けることはなかったが、しかし夕方になって、Ⅿが公園まで報告してきてくれたことで成功を知る。
「うまくいってよかったですね」
隣に座るⅯに茉莉はそう言った。二人の顔は沈みゆく夕陽に照らされて、まるで恥ずかしがり屋のように赤く見える。
「本当によかったよ」
自分の胸を撫でながら言った。
「それにしても楽しかったなぁ」
「どんなだったんですか?」
「それはもううまくいったよ! 自分でも驚くほどだった」
茉莉は深く訊こうとしたけれど、Ⅿの笑みの裏にはひどい疲れが見えたから、あまり負担を掛けないように、言葉を直前で飲み込む。
代わりに別の言葉を渡す。
「お疲れ様です」
「茉莉も。ありがとうね」
「わたしですか?」
「そうだよ」
どうにもぴんと来ないという顔をしていると、Ⅿが言葉を続けた。
「だって茉莉がいなきゃ僕はいじめられてたままだったんだ。それもいじめが当たり前だと思い続けて。そして岩船以外の世界を知ったんだ。おかげで僕は夢ができたんだよ」
そう言って笑う。
「茉莉のおかげでね」
「そうですか」と茉莉は微笑んだ。
「そう思ってくれたのなら、わたしも嬉しいです」
そうして少しの間、二人で黙って太陽が沈んでいく様を見ていた。
「そういえばさっき言ってた『夢ができた』って何ですか?」
「それはね……」
Ⅿはまるで酔っぱらいのようにふわふわとした声で言う。
Ⅿは眠たいんだな、と気づく。
意識も曖昧なのだろう。目がとろんとしている。
「僕はこの町から出たいんだ。外の世界を知りたいんだ。だからね……」
そこまで言って、Ⅿの声は途切れる。眠ってしまったようだった。あるいは聞こえないほど小さく言ったか。
「……全く、ちゃんと言ってくださいよ」
茉莉は笑う。
太陽は沈んで、Ⅿの顔ははっきりと見えなくなる。ふと、Ⅿは帰らなくていいのだろうかと思った。
しかしいつもだったら夕暮れには帰り始めるので、今日は親の許可を得ているに違いない。もしそうでなくても、体育祭の日くらい自由にしたっていいではないか。
もし怒られるのなら、茉莉もついていって謝ろうと思った。
やがて完全な闇が二人を包む。
頭上には一つとして雲はなく、埋め尽くすような星々がどこまでも続いていた。まるで昼間の海を空にそのまま貼り付けたようだった。
「綺麗……。こんなに雲がないの、始めてですかね」
独り言をぽつりと漏らす。隣に人がいるのに、せっかくのこの景色を共有できないことは寂しいな、と思う。
茉莉は立ち上がって、横になって眠るⅯのもとへと向かった。
「目、覚ましてくださいよ」
笑って言う。
けれど起きる気配はない。
それどころか、心地のよさそうな寝息が聞こえてくる。
「そうなんですね」と一人呟いた。
Ⅿの頬に触れ、眠っていることを確認する。そして唇に唇をそっと重ねる。
それは初めてだった。それはⅯがいいな、と思ったのだ。
その行為の意味するところを、茉莉はちゃんと知っている。
相当疲れていたのだろう。Ⅿは結局、朝まで目を覚まさなかった。
*
しかしその成功は――最大の失敗だった。
そんなことはないのだろうけれど、わたしは生まれる前から、この結末を知っていたような気がした。そんな気がした。
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