8-2 不幸宣言

 今日もいじめられているところを、昨日と同じところで、全く同じようにいじめられていたMを、全く同じように助けた。

 三人の少年少女は、同じようにしらけたことに腹を立てて公園から出ていった。昨日の反省はしていないようだった。


 茉莉はMに、親がする子供への言い聞かせのように言った。

 「ダメですよ。嫌なことははっきりと言わなくちゃ」

 Mは黙ったまま、茉莉の顔を見つめる。少し不安になる。

 「嫌、ですよね?」


 少しして、Mが口を開いた。


 「嫌だったけど……。それが普通だと思ってた。でも」

 そして視線を上げる。

 「違うんだね」


 Mは茉莉の言葉をようやく理解したようで、不思議そうな表情を解いた。

 そして小さく微笑んだ。


 茉莉はやはり彼は自分に近い人間であると確信する。

 それが当たり前でないことに気が付かない。Mはそれをようやく理解し始めたのだ。いじめは普通ではない、と。

 普通でないことは、我慢の理由にはならない。


 彼は頭がいいようで、今の自分の他の状況が、当たり前でない可能性を検討する。そして彼は言った。


 「ねぇ、教えて。茉莉の知ってること、知らないこと。知りたい」

 茉莉は頼られたことが初めてで舞い上がり、「うん」と元気よく返した。


 そしてゆっくりできる場所として、彼のお気に入りの公園に連れていかれる。





 目的の公園に到着してすぐに「ここは自殺の名所なんだ」とMは言った。

 死ねない茉莉にとって、ここにいることが何だか皮肉のように思えてくる。


 山の中腹にある場所だった。

 ここからは岩船の町とどこまでも続く海が見渡せる。港が栄えている様子が見えた。漁船が出入りして、釣人の姿も見えた。

 風が吹いて、潮の香りを運んでくる。


 「ここ、すごいでしょ?」

 「ええ」


 圧巻の景色の前に、茉莉はそう言うことしかできなかった。「言葉を失う」とは、まさにこのようなことを言うのだろうと思った。


 「凄いです」

 機械のように同じ言えない自分が、なんだか笑える。

 「僕のお気に入りなんだ。いいでしょ?」

 「すごくいいところですね」

 茉莉は見渡しながら言う。

 「どこまでも見渡せて、すごく落ち着きます」


 自殺の名所でなければ、子供たちの遊び場にも適していそうだった。


 「誰にも言わないでね」


 Mは口に人差し指を当てて言った。

 今まで見たことのなかった微笑みだった。

 きっと今の姿が彼本来のものなのだろう。


「あいつらが来ちゃわないように」


 彼の言うあいつらとは、彼をいじめていた三人組の事だろう。

 いじめられていることを普通に思っていても、どうしてもここだけは知られたくなかったのだと推測できる。

 彼にとってそれだけここは大切な場所なのだ。


 景色を楽しんでいると、Mが肩を叩いた。

 

 「それでさ、教えてよ」

 「はい。あそこで話しましょうか」

 ベンチを指差して言う。

 「ずっと立ってるのも疲れるでしょうし」

 「そうだね」


 それから二人は日が暮れる前まで語りつくした。

 無知な茉莉が実際にこの目で見て、肌で感じたことを全て。


 それはおおよそ、Mの知らないことだった。Mは外の世界を知ってしまった。

 そうしてMは憧れを抱くことになる。


 「凄いんだね。外って」


 太陽が沈みかけて空が朱色になった頃、Mは独り言のようにぽつりと言った。


 「僕、何にも知らなかったんだな」


 茉莉は何と言えばいいか分からず、そのまま黙っていた。

 「ねぇ、茉莉」

 「どうしましたか?」


 沈みゆく太陽を見ながら訊き返す。

 「僕、中学を卒業したら、この町を出るよ」

 「それは……そうですか」

 優しく彼の言葉を受け止める。


 「僕はこの町で産まれて、この町で育って、この町の子と結婚して、この町で子供や家族を設けて、この町で死んでいくんだ。そう思っていた。けどさ――それじゃああいつらと何も変わらないじゃないか……!」


 静かに怒りを含ませて言う。

 Mは立ち上がった。そして茉莉の前に立って、目を見つめる。けれど夕陽が背にあるため逆光になり、うまく顔が見えない。


「決めた。僕はあいつらにやり返す。少しでいい。やり返すんだ。殴られて、蹴られるのが普通じゃないって知っちゃったから。あいつらをほんの少しでいいから見返して、僕はこの町を一人で出る。お父様が止めたって、僕は気にしない」


 それは覚悟の目だった。その目に、茉莉はひどく心を打たれる。

 たった数時間で人間はこれほどまでに変われるのか、そう思った。


 茉莉は立ち上がって、正面にいるMの手を取った。ぎゅっと握る。


 「やろう。わたしも手伝います」


 その行為がどんなものであれ、茉莉は手伝うことを決めただろう。その意思に心を打たれたのだから。たとえMの覚悟が犯罪に繋がるのだとしても、手を貸していたかもしれない。


 「ありがとう」


 Mが微笑んでそう言った時、夕陽が完全に沈みきって、Mの顔はほとんど見えなくなった。空は紫色で、肌を撫でるような風が吹いた。

 どこか不吉な予感がした。

 Mはその空を見上げると、思い出したように「あ」と言った。


 「どうしたんですか?」

 「もう帰らなくちゃ」と空を指差して言う。


 「送って行きましょうか? 遅いことですし」

 「ううん、大丈夫。一人の方が怒られない」

 「そうですか」

 「じゃあね」

 「ではまた」


 そのようにして二人は別れる。


 茉莉はお金をあまり持っておらず、さらにこの町に宿らしいものを見つけることができなかった。昨日と同じように野宿をするしかなかった。

 昨日は港近くの小屋で眠ったのだけれど、今日眠る場所としては、ここのベンチが丁度よさそうだった。


 結局、茉莉は朝までこの公園にいた。





 Mは学校に行っているから、昼間は会うことができない。

 町を見て回るのも飽きたが来て、茉莉は一日中その公園から景色を眺めていた。


 ただ退屈な景色を見ていただけならば、それこそ町を回ることと同じように飽きてしまっていただろう。しかしどうしてか公園から町の景色を眺める事だけは、飽きがこない。なぜだろうと疑問に思う。


 そしてふと、自分はここの景色が好きなんだなと思った。


 海から吹く風が運んでくる潮の香りが、田んぼの中に突然現れるようなこの町が、世界の果てまで続いているような青い海が、それらをここから見ること、その全てが好きなのだ。


 そうしてみていると、Mの声がした。その方を見る。


 「おはよう」

 Mの言葉に、茉莉は「今は朝じゃないですよ」と言った。

 「確かにそうだね」と少し恥ずかしそうに笑う。

 「夕方に人に会うことなんてあんまりなかったから」


 そう言われてようやく夕方になったと気づく。

 Mが学校から帰ってくる時間なのだ。時計がないためにはっきりとは分からないけれど、最低でも時刻は午後四時を回っているだろう。


 「時間がないね。さ、話し合おうよ」

 「分かりました」


 そんな風にしてⅯと茉莉は話し合う。

 どうやったら彼らにやり返しができるかについてだ。


 雨の日も風が強い日だってこの公園に来て、一日二時間ほど作戦を練った。


 たまにⅯの顔に痣ができていたり、お金が奪われていたりしていたから、あの三人組にいじめられているのだなと理解できた。


 出会いを重ねるうちに、茉莉は心に一つの感情を抱いていたのだが、茉莉はその感情について詳しく知らないから、ただの違和感として受け止める。


 そうして二週間ほどが経ち、完成したやり返し計画は、少しだけ複雑なものだった。


 ただ暴力的にやり返すのはやり返す意味がない。

 そしてどうやってⅯ一人が三人を相手にするのか。全くもって勝てるビジョンが見えない。

 そもそも、暴力を暴力で返すのは現実的ではないのだ。


 そういうわけで、少し見方を変えてみる。

 彼ら彼女らに、名誉的に仕返しをするのだ。


 過程を抜きにして分かりやすく言えば、彼らの晴れ舞台を台無しにしてやるのだ――それもできるだけ直前に。逃げられないように。

 避けようのないように。


 これが成功しても、きっとⅯへのいじめは止むことはないだろう。

 考えるまでもなく、いじめはこれで以上に苛烈なものとなる。

 それでもⅯがやり返したいと思ったのは、それが普通ではないと知ってしまったからだ。

 変えようのない環境に、少しくらいは逆らいたいのだ。


 たとえ自分がどれだけ無力だとしても、全くのゼロではないことを証明したいのだ。

 いじめに対するほんの少しの対抗のつもりだった。


 味方なら隣にいる――茉莉がいる。大丈夫。Ⅿはそう考える。


 そして日は過ぎていき、やがてⅯの学校の体育祭の日になった。





 Ⅿと茉莉が計画したのは、保護者や全校生徒が集まる体育祭で、彼ら彼女らのスキャンダルを匿名で発表することだ。


 もちろんスキャンダルの内容は真っ赤な嘘であるが、それが嘘なのかは本人以外知らないし、「それは間違っている」と主張したところで、信じてくれる人がどれだけいるかも分からない。


 加えて普段から彼ら彼女らは横柄な態度を取っていたから、よく思っていない人もいるだろう。そういう人に向けて、捏造のスキャンダルは最も有効だ。


 そして明朝、まだ誰も登校していない頃、Ⅿはやり遂げた。


 学校の壁に根も葉もない噂を書いた。

 それも尊厳を傷つけるような、あるいは彼ら彼女らの見方が百八十度変わってしまうような噂を。


 それ自体を茉莉が見届けることはなかったが、しかし夕方になって、Ⅿが公園まで報告してきてくれたことで成功を知る。


 「うまくいってよかったですね」


 隣に座るⅯに茉莉はそう言った。二人の顔は沈みゆく夕陽に照らされて、まるで恥ずかしがり屋のように赤く見える。


 「本当によかったよ」

 自分の胸を撫でながら言った。

 「それにしても楽しかったなぁ」

 「どんなだったんですか?」

 「それはもううまくいったよ! 自分でも驚くほどだった」


 茉莉は深く訊こうとしたけれど、Ⅿの笑みの裏にはひどい疲れが見えたから、あまり負担を掛けないように、言葉を直前で飲み込む。

 代わりに別の言葉を渡す。


 「お疲れ様です」

 「茉莉も。ありがとうね」

 「わたしですか?」

 「そうだよ」


 どうにもぴんと来ないという顔をしていると、Ⅿが言葉を続けた。


 「だって茉莉がいなきゃ僕はいじめられてたままだったんだ。それもいじめが当たり前だと思い続けて。そして岩船以外の世界を知ったんだ。おかげで僕は夢ができたんだよ」


 そう言って笑う。

 「茉莉のおかげでね」


 「そうですか」と茉莉は微笑んだ。

 「そう思ってくれたのなら、わたしも嬉しいです」


 そうして少しの間、二人で黙って太陽が沈んでいく様を見ていた。


 「そういえばさっき言ってた『夢ができた』って何ですか?」

 「それはね……」


 Ⅿはまるで酔っぱらいのようにふわふわとした声で言う。

 Ⅿは眠たいんだな、と気づく。

 意識も曖昧なのだろう。目がとろんとしている。


「僕はこの町から出たいんだ。外の世界を知りたいんだ。だからね……」


 そこまで言って、Ⅿの声は途切れる。眠ってしまったようだった。あるいは聞こえないほど小さく言ったか。


 「……全く、ちゃんと言ってくださいよ」

 茉莉は笑う。


 太陽は沈んで、Ⅿの顔ははっきりと見えなくなる。ふと、Ⅿは帰らなくていいのだろうかと思った。

 しかしいつもだったら夕暮れには帰り始めるので、今日は親の許可を得ているに違いない。もしそうでなくても、体育祭の日くらい自由にしたっていいではないか。

 もし怒られるのなら、茉莉もついていって謝ろうと思った。


 やがて完全な闇が二人を包む。

 頭上には一つとして雲はなく、埋め尽くすような星々がどこまでも続いていた。まるで昼間の海を空にそのまま貼り付けたようだった。


 「綺麗……。こんなに雲がないの、始めてですかね」


 独り言をぽつりと漏らす。隣に人がいるのに、せっかくのこの景色を共有できないことは寂しいな、と思う。


 茉莉は立ち上がって、横になって眠るⅯのもとへと向かった。

 「目、覚ましてくださいよ」

 笑って言う。


 けれど起きる気配はない。

 それどころか、心地のよさそうな寝息が聞こえてくる。


 「そうなんですね」と一人呟いた。

 Ⅿの頬に触れ、眠っていることを確認する。そして唇に唇をそっと重ねる。

 それは初めてだった。それはⅯがいいな、と思ったのだ。

 その行為の意味するところを、茉莉はちゃんと知っている。


 相当疲れていたのだろう。Ⅿは結局、朝まで目を覚まさなかった。





 しかしその成功は――最大の失敗だった。


 そんなことはないのだろうけれど、わたしは生まれる前から、この結末を知っていたような気がした。そんな気がした。

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