4-3 約束
神社へ向かうには二つの道があって、公園からすぐに行く方法があった。
しかしその道は、人が通ることのできるようなものではなく、ただ少し、草が薄いところがあって、かつてそれが道だったのだと辛うじてわかるくらいだった。
仕方なく、瑞穂たちは一度公園を下る選択をする。
それから神社に登り、はじめにある鳥居をくぐった。そこまでにだいたい三十分もの時間を要す。
長くて緩やかな階段を進む。
二段飛ばしなんかできそうもないほど、一段が大きい。
階段は木々の覆われており、焼き尽くすような太陽は届かない。暑さを象徴するセミの鳴き声は聞こえるけれど、半袖のシャツから伸びる腕や、汗の残る額は涼しさを感じる。
その違いに違和感を覚えながら、階段を進む。
途中にある「御水屋」と呼ばれる場所で、水で手や口を清めてから、また階段を進む。その頃には汗は引いていて、体温は適度な温度になる。
緩やかな階段は、身体が弱く、体力のない瑞穂にとって優しいものだった。足に程よい疲れを感じてきたころ、ようやく神社の本殿が姿を現した。
そこは夜であれば、光さえ届かないような場所。
本殿の脇に一本の立派な大木が生えており、それの周囲に大量のご神木が並んでいる。その枝は陽光を通さないように、いくつも重なっている。
本殿は、神社と言われてイメージするようなものよりは少し大きい。
しかし目を見張るほど大きいわけでもない。一回り大きい、といったところだ。赤の塗装は剥げ落ち、それが木の素材で作られていることを存分に示していた。
茉莉と瑞穂以外、他に誰かいる様子はない。
やんちゃな小学生なんかがこの辺りを秘密基地にしていると想像していたから、少し拍子抜けだった。
「初めて来たんですか?」
「ああ。こんなところ、普通来ないだろ?」
「子供の頃はみんな、こういうところで遊ぶものじゃないんですか?」
小学時代は、誰かとまともに遊んだ記憶なんて存在しないのだから仕方がない。あるのはいじめの記憶だ。
「悪かったな」
「いえ」と茉莉は言う。
「多分、わたしも小学生なら、瑞穂さん側でしたよ」
「いじめられてたのか?」
「いえ、それは知りませんけど」
その言葉から、そういえば茉莉は記憶が欠けているのだと思い出す。
今まで話していて、そんなことに気づかせない素振ばかりだった。
茉莉の振る舞いはまるで記憶があるかのようだった。
「でも、何となく、そういう気がしたんです。だって、スマホを持ってなくて、空とか自然を見ることが好きな女子高生って、そういないでしょう? きっと小学生の頃も、そんなだったと思いますから」
「確かに。普通でないだけで、いじめられることってよくあるからな」
茉莉はえぇと頷く。
「でもよかったです」
「何がだ?」
「わたしが普通でなくて」
瑞穂がどうしてだと訊く前に、口を封じるように、そして少しだけ甘えるように言った。
「だって瑞穂さんと会えなかったじゃないですか」
そんなことを言う茉莉に瑞穂は驚き、恥ずかしがる。
顔に血が昇っていくのがよくわかった。
それを誤魔化すように瑞穂は言う。
「別に俺じゃなくても、話し相手だったら誰でもよかったんじゃないか?」
「まぁ、そうかもしれませんね。でも瑞穂さんは、わたしにとっての都合のいい人でしたから」
「そういうものなのか」
と少し気取るように言って、瑞穂は照れを誤魔化した。
それから本殿の前に立つ。
手入れがされて、比較的綺麗に保たれている鈴。そして蜘蛛の巣の張ったお賽銭箱がミスマッチのように見えて、なんだか遺跡を発見したような気分になる。
「お金、ありますか?」
そういえば茉莉は財布を持ち歩いていないことを思い出す。
瑞穂は無言で財布を開き、小銭を取り出す。彼女にはお世話になったから、別れた後も何か縁があるようにと、きちんと五円玉を渡す。
「ありがとうございます」
瑞穂はどの小銭を入れようか迷って、どうせもうすぐ死ぬことになるのだからと、財布の小銭入れをひっくり返して全て入れた。
箱の中から、大量の金属音がする。
「思い切りがいいですね」
「もう使わないようにっていう心がけだ」
そんな冗談ともとれる言葉に「それは素晴らしいですね」と茉莉は微笑む。
それから鈴を鳴らす。瑞穂が鳴らして、茉莉が鳴らす。
二回礼をし、二回手を鳴らし、それからまた礼をする。
きっと「成人式で佐中ひなたに出会えますように」と祈ればよかったのだろうけど、特に何も祈らなかった。ただその通りの所作をしただけだった。
一連の流れを終えて、神社を後にしようとすると、茉莉が瑞穂を呼び止めた。
「一回百円のおみくじ、ありますよ」
ノートパソコンくらい大きさの木箱を指差した。
「やりましょうよ、これ」
「懐かしいな」
瑞穂は以前、ここではないどこかでおみくじを引いた記憶を思い出す。
「引くか」と瑞穂は言った。
財布を取り出して、百円を探す。
けれどさきほど、全て賽銭箱に入れてしまったことを思い出す。仕方がないので、千円札を一枚入れる。
かさりと乾いた音がした。金属音はしない。
「神様も儲けて大喜びですね」
「してるといいけどな」
そして茉莉と瑞穂は、それぞれ一枚ずつおみくじを手に取った。
まず茉莉から開ける。
「見てください。吉です」そう言って瑞穂に見せびらかす。
「おぉ、まずまずだな」
それから茉莉は、おみくじの内容にざっと目を通す。
「瑞穂さん、わたし『恋愛。思いあがるな』だそうです。わたしの恋愛運だけ、なんかひどくないですか?」
瑞穂にもう一度見せびらかす。
他の項目はそれなりに柔らかな言葉で濁しているのに、確かに恋愛だけは辛辣なように思える。それだけ見込みがない、ということだろうか。
「まぁそういうこともあるんでしょうね」
と言ってしゅんとしてしまう。
「それで、瑞穂さんはどうでしたか?」
そう言われてからおみくじの封を剥がす。
おみくじを取り出してすぐに、「大」の文字が目に入った。
「あ、大吉だ」
「ふぅん、いいですね」
少し不服そうに、視線を向こうにやって言う。
瑞穂は書かれた内容を見る。
まずはさっき茉莉が酷いことを書かれていた恋愛。そこには『誠意を尽くせ』と書かれていた。しかし、まずそもそもの話、瑞穂には誠意を尽くす相手なんていないのだけれど。
その他、健康や学問、商売、病気、縁談など、それぞれ大吉らしい、明るい未来を示唆する内容が書かれていた。
しかしその中に一つだけ、凶なのではないかと思ってしまうほど、正反対のことが書かれていたものがあった。
それはまるで、コンクリートの上に落ちている大金のように異質で、しかしどこか、それが大吉だからか妙な説得力を感じる。
そうしてそれは曖昧に濁すことなく、はっきりと告げている。
待ち人、永遠に来たらず
「なんだこれ?」
その内容に戸惑いを隠せないでいると、茉莉が身を乗り出しておみくじを覗き込んだ。
「本当に大吉なんですか、これ。ひどいですね」
いたずらっ子のような笑みを浮かべて言う。
「俺の待ち人は永遠に来ないんだろ?」
「じゃあ結局瑞穂さんは成人式で、佐中さんには会えないということになりますね」
「おみくじによればな」と、付言する。
成人式にはひなたは来ないのだろうか。
自分だけが成人式に出て、ひなたは来ない。瑞穂は、かつていじめられた奴らの傍で、あるいはその中で、ただ黙って時間が過ぎるのを待ち続ける。
彼ら彼女らの幸せの雰囲気に耐え切れなくなって、きっと顔も上げられないだろう。
それは随分と簡単に予測可能な、最悪の未来だ。
そしておみくじがそう言っている。
そうなるのだろうか。
そうなってしまうのだろうか。
いいや、これはただのおみくじだ。
約束をしたのだ。立派になって、成人式で再会をする、と。
ひなたのことだから約束を守って来てくれるに違いない。もし瑞穂と同じく約束を果たせていないとしても、過去の彼女の人望の厚さから見るに、成人式に来ない方の確率の方が小さい。
こんな紙切れ一枚。
誰にでも当てはまるようなことを書いた紙を信じるよりも、現実的な出来事から考えられる妄想の方が、まだ信ぴょう性がある。
すると内容を見て同情したのか、茉莉が慰めの言葉をくれた。
ねぇ、瑞穂さん、と茉莉は言う。
「知ってますか? おみくじって、正直者の人にしか、効果を発揮しないって」
「へぇそうなのか。それは知らなかった。でも俺は正直者だぞ?」
「それは……困りましたね」と、茉莉は笑う。
「でもまぁ、所詮おみくじですし、どうにかなるでしょう」
そう言う茉莉の言葉は、随分と歯切れが悪く聞こえた。
瑞穂はそのおみくじを、財布の中にしまう。
「あ、待ってください。わたし、木におみくじ結んでくるんで」
「俺も結ぼうかな」
「ダメですよ。大吉なんですから。大吉は神様の言葉ですから、しっかりと受け止めてください。そうすれば少しくらい、変えてくれるかもしれませんよ」
「分かったよ」と渋々言う。
茉莉はその辺にある木の枝に、吉のおみくじを結んだ。
そして早足で瑞穂のところへと戻ってくる。
「さぁ、行きましょ」
「あぁ」
ここは木陰だから太陽は届かない。
木の隙間を縫うように、ほんの少しだけ差し込む陽光は、まだまだ白い。
しかし空気は湿り気を帯び、これから夕方にかけて雨雲が訪れることを示していた。田舎に住んでいる人は、特にこの町に住んでいる人は、どうしてか天気の変わり目に敏感なのだ。
「これからどうするんだ?」
「雨、降りそうですよね」
「あぁ、だから俺は返ろうと思ってたけど」
言葉を続ける前に茉莉は「じゃあわたしも帰ります」と言った。
本当に当然のことなのだけれど、ふと、茉莉も家に帰るんだな、と思った。
人間として社会に暮らしているのだから、家がなきゃおかしいのだけれど、茉莉に関しては公園とイメージが結びついていて、どうしても家で過ごしている姿が想像できない。
だって神社と茉莉の組み合わせですら、塩素洗剤の「混ぜるな危険」のように、相容れない。
「失礼なことを考えているような気がしたんですけど、気のせいですか?」
唐突に茉莉は、目を細めて言う。
「いや?」
そう言った自分の声は、実に白々しく聞こえる。
「そんなことはない。どうしてそう思ったんだ?」
「特にはっきりした理由はありませんけど。なんだか人を馬鹿にするような顔をしていたような気がしたものですから」
「へ、へぇ」
少し声が上ずったけれど、茉莉は気づいていないようだった。
「……まぁ、わたしだって、そりゃあ家くらいありますからね」
「…………」
どうやら瑞穂の思っていたことは、すべて筒抜けのようだった。
茉莉は小さく微笑んだ。瑞穂はそれを見て、まったくおかしなことだけれど、彼女は楽しそうだなと思う。
*
やがて雨はぽつぽつと降りだす。
傘なんて持っているはずもないから、二人の衣服には小さな水滴がいくつもできていく。
ほんの少しだけ、火照る身体を冷やしていく。
町は灰色だった。雨が地面の色を濃くしていく。
風も吹き出し、整えられた瑞穂の髪を崩し、長く伸びた茉莉の髪を大きく乱した。
「風、強いですね」
「あぁ」
そんな風に、取るに足らない会話ばかりを重ねていく。
少し歩いたところで茉莉が足を止めた。
「なんだ。何かあったか?」
「来てみてください」
そう言われて、瑞穂は茉莉の元へと向かう。
住宅の窓に一枚のポスターが貼られていた。
それは祭りの開催を知らせるものだった。
ポスターによれば、成人式の次の日、八月十七日に祭りが開かれるらしい。普通の人にしてみれば成人式で帰省して、祭りにも参加できるのだから、一石二鳥だろう。
「祭り、いいですよね」
「……茉莉は行きたいのか?」
「……まぁ、はい」消え入りそうな声で言う。
「そんな恥ずかしがる必要もないだろ。別に一日くらい、公園にいない日もあったっていいんじゃないか?」
「そうですね」
いつものように、しかし声の調子を少しだけ上げて言った。
成人式の後、自殺をするにしたって、そんなに急ぐものではない。
残り十五年を一気に終わらせさえすれば、夏の終わりにこの命が消えてさえいれば、それでいいのだから。
「なら行こうか。明後日だな。待ち合わせは公園でいいか?」
その返事を想定していなかったようで、茉莉は驚いたような顔を作り、それから三歳児のように、嬉しそうに笑った。
「はい、ありがとうございます」
そうして二人はまた、並んで歩きだした。
その背中と距離感は、さながら花火大会帰りのカップルのようでもあった。
瑞穂はすれ違った夫婦を見て、自分たちもきっとそんな風に見えているのだろうな、と思う。
しかし自分の心の中に、茉莉に対するそういった気持ちが無いのは事実であるから、いつものように平然として歩いていく。
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