4-4 約束
悪夢による目覚めは実に最悪で、夢なら早く記憶から消えてほしいと願った。
背中を寝汗でぐっしょりと濡らし、脳裏に恐怖がこびりついている。
目覚めたばかりなのに、まるで一日の終わりのような酷い疲労感だった。不吉な予兆のようにも思える。
カーテンを開けば、空は灰色だった。
昨日の夕方から降り始めた雨は、日を跨いで、今の今まで降り続いていた。
おかげで地面には水たまりがいくつもできていて、遠くの方からは時折雷が聞こえる。
夏の雨の日らしい雨だった。
もっとも、夏らしい晴れの日にはそぐわない雨ではあるけれど。
それから朝食をとるために、一階に向かう。
リビングに入ったところで、父親と遭遇した。
「瑞穂。成人式には出るんだろうな?」
強い口調で言った。
「分かってるよ」
「なら、いいんだ」
それ以上の会話はない。
節目の儀式や儀礼とかを大切にする父親は、事あるごとに今のように言ってくる。滅多にすることのない会話の内、多分、それが半分くらいを占めている。
そこに世間一般に見るような父親と息子のイメージ像は、全くもって存在していない。困ったことに瑞穂は、これはおかしいとは思いつつも、明確にどこがおかしいのか、大学生になるまで分からなかった。
大学という広い社会に出て、初めて分かったのだ。
閉鎖された田舎町で、閉鎖された家庭の中育っていたのなら、気づくことすらできなかったかもしれない。
今の瑞穂なら分かる。彼が異常なのだ。
そして彼に育てられた自分もまた、普通ではないのだと。
でも今更どうにかなるものでもないし、仮にどうにかなるとしても、瑞穂は死ぬのだから別に気に留めることでもない。
自分はそういう人間だ。
もう仕方がないのだ。
瑞穂はそう受け止めている。
*
今日は成人式だった。
家から出る前、父親に再び「成人式に行けよ」と念を押される。
あまりにもしつこいものだから言い返してやりたくなるけれど、そうしてしまったら、きっと昔のように拳だったり足だったりが飛んでくるに違いない。
瑞穂の脳裏には、暴力と父親はイコールで結びついているから、父親が近づいてきただけで思わず身体をすくめてしまうことだってあるし、いつ怒りだすか分からないから、些細な動きに気を配っていなければならない。
それが当たり前ではないのだと知るのも、大学に入ってからだった。
高校までは、普通ではないことは知っていたものの、ある程度はそういう家庭もあるのかな、と思っていたのだ。
そんな風に、小学校時代に受けていたいじめは普通でないと知ったのも、中学受験で彼らから離れてからだ。
奴らは勉強ができた瑞穂を疎んでいた。驕っていた瑞穂の態度が気に障って、いじめた。
そんな彼らと、今、瑞穂は顔を合わせようとしている。
正直言って、成人式に行くのは気が乗らない。
そんな奴らの顔なんて見たくないし、そうでなくても、幸せそうな奴らの顔なんて見たくもない。
だから成人式にいる人間のほとんどの顔を見たくないのだ。
けれどそこに、五百人ほど来るだろう人間たちの中の一人に、佐中ひなたがいるかもしれない――絶対に来るだろうから、こうして瑞穂は成人式へと向かっている。
雨は相変わらず降っていた。
心なしか、朝よりも雨脚は強まっている気がする。
向こうの空までずっと灰色で、成人式が終わった頃にはきっと、雨が降っていることだろう。
雷の光が見えた。
一拍子おいて、地鳴りのような音が響く。
それが一分に一度くらい、定期的に発生する。
その雷は瑞穂の心を、まるで今の空模様のように不安定にさせた。
それらは、先の未来がよくないものであると暗示しているようにも感じる。
そして具体的に、暗示ではなく明確に、成人式に佐中ひなたがいないと言っているようにも感じる。
*
会場には余裕を持って三十分前に到着した。
しかし既に人は満杯のようだった。
スーツを着ている人が大半だったが、ちらほら、羽織袴を着ている人間が見える。スーツの中に羽織袴の人間が混じっていると浮いて見えそうだが、しかしここが成人式という場であるためか、全くの違和感を覚えさせない。
ホールはまだ開場していないから、ロビーには人々が溢れかえっていた。
満員電車のようにぎゅうぎゅう詰め、とまではいかないものの、身動きが大きく制限されるほどには人が詰まっている。
彼ら彼女らは、きっとかつての学園時代の思い出に花を咲かせていることだろう。もしくは仲間と別れてから起こった出来事について語り合っているか。
どれも瑞穂には存在しないものだ。
ふと、端で一人スマホを弄っている女性に目がいく。
彼女はひなたとは似ても似つかない。瑞穂はそんな彼女に親近感が湧いた。
彼女も一人なのだ。彼女もまた、瑞穂と同じように成人式参加することを強制されたのだろうか。そんな風に思う。
人が溢れかえる分には何も問題はないのだけれど、いざこうして楽しそうな、幸せそうな光景を見せつけられると、いかに自分が不幸な人間かを実感させられる。
しかしそんな風に、思い出話に花を咲かせるためにここに来たのではない。
佐中ひなたを探すために、そして出会うためにここに来たのだ。
瑞穂は人ごみの中に、自ら紛れにいった。
ひなたはきっと、この中にいる。
*
結局、ひなたは見つからないまま、成人式は始まった。
市長のお祝いの言葉と、誰かも知らない来賓の方のスピーチと、ここ出身で活躍しているらしい国会議員の言葉があり、その後、小さなお祝いの品を貰って、式自体は終わった。本番はここからだ。
式が終わった後、開場前のようにロビーには人がごった返す。
その中からひなたを探すのだ。
そうして気合を入れて探してみたものの、ひなたがいる気配はない。
結局、三十分ほど探しても見つからなかった。
それでも諦めないで探していると、小学校単位での招集が始まった。
瑞穂はひなたが来ているかもしれないと考え、そこに向かう。しかしひなたらしき人影は見当たらない。よく見てみると、来ていないのはひなただけだった。
瑞穂はクラスが三十七人で構成されていたのを覚えていた。
今ここにいるのは、自分含めて三十六人。ここにいない一人が佐中ひなたなのは間違いない。
話したことのない彼だって、一度も口を開いたところを見たことがない彼女だって、この場にはいた。
彼らは、この場に誰がいて誰がいないのかは把握しておらず、ただ何となく集まっているのだろう。だからみんなに愛されていたはずのひなたがいなくても、あたかもいるかのように、あるいは元からそんな人物は存在しなかったように、事は進んでいく。
一応、瑞穂はそこに混ざって写真を撮った。しかしひなたがいない。加えて、周囲の幸福の空気に囲まれて、息苦しくて仕方がなかった。
けれど瑞穂は何とか耐えて、ひなたを探し回る。
しかし見当たらない。
探しても、探しても、見当たらない。
どこにも見当たらない。
瑞穂は、この後に控えている小学校ごとに集まる二次会を諦めて、成人式を先に出ることにした。そしてホールを出る。
成人式に来る前まで降り注いでいた雨はすっかり晴れており、空の隙間を縫うように、光が差し込んでいた。
遠くの空には青空も見える。
神々しささえ覚えるほどの空だった。
一日ぶりに見えた晴れ間だった。
実に皮肉に見える。
まるでひなたと出会えたかのように幻想的な風景が、目の前に広がっているのだから。
数人、それらしい人物は見かけても、それらは全てひなたではなかった。全くの別人だった。
瑞穂は落胆する。こんなことなら、来なきゃよかった、と。
漫画や小説では、最後の最後、去り際に大切な人と再会するエピソードが多い。しかし現実は、そううまくはいかない。
現実なんて所詮そんなものだろう。
ホールの敷地を出るまで淡い期待を抱き続けていた。
けれどそれも虚しく、瑞穂に声を掛ける人間なんて誰一人としていなかった。
結局、いつになっても――佐中ひなたは瑞穂の前に顔を表さなかった。
瑞穂の勘が、昨日引いたおみくじが、奇しくも的中してしまった
待ち人は、永遠に来なかった。
*
「早かったな」
家に帰ってリビングに入ると、父親が声をかけた。
「うん」
瑞穂は父親に、素っ気なくそう返す。
「成人式はそんな早く終わるんだったっけか?」
この後にある集まりのことを言っているのだろう。もしくは、友人と語らえとか。しかし瑞穂にそんなことができるはずがない。
集まる人も語らう相手もいなければ、それは成立しない。
瑞穂には絶対にできないことだ。
瑞穂は「そうだよ」と冷たく言う。
「ふぅん。そういうものか。まぁ、ちゃんとやることをしたならいいんだ」
瑞穂は返事をせずに、自室へと向かう。地面に残った雨が跳ねて、濡れてしまったスーツが虚しく思える。
何のために買ったのだろう。
ひなたとは会えなかった。
しかし万が一、瑞穂が成人式で見逃していたり、入れ違いになっていたり、早く帰ってしまったために出会えなかったとしたら。
そんな風に考え始めるときりがない。
でも、ほんの少しでも可能性があるのだから、そう考えずにはいられない。
いじめた相手に連絡をするのは癪だけれど、もしかすると連絡先を知っているかもしれない。勇気を出して聞いてみるのも、一つの手段だ。
そんな風に考えた上で、けれども瑞穂は何もしなかった。
ただ自室で、時が過ぎるのを待った。
待つことしかできなかった。
どうしようもない虚無感に襲われたのだ。
夕食も摂らずに、水分さえまともに摂らずに、ベッドに横になる。
それはきっと、ひなたに出会えなかったからに違いない。
ふと、ひなたと会って、自分は何をするつもりなのだろうと思った。
会って話したいのか?
顔が見たいのか?
自分の記憶の中の人間ではないと確かめたいのか?
それとも単なる恋心か?
会いたい気持ちは確かだ。しかしどうして会いたいのだろう。
そこに希望を抱いていたのは確かだ。しかし分からない。
考えれば考えるほど、堂々巡りになって、やがて瑞穂は考えることをやめた。
自分には分かりっこない。
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