5-1 思い出の中で、永遠に。永遠に
家の前をトラックが通った。
音と振動が伝わり、瑞穂は目を覚ます。
昨日の出来事も相まって、あまり心地のいい目覚め方ではない。
今日は茉莉との約束の日――祭りに出かける日だ。
けれど瑞穂は面倒に思った。一昨日の自分は、どうして約束なんて取り付けてしまったんだろう、と。
時間は特に指定していなかった。
しかし思い返してみると、茉莉は夜の祭りを想像しているらしかったから、夜に行くのだろう。
公園に早く行って、いつものように緩やかに時間が過ぎるのを待って、それから祭りに行く。きっとそんな感じだ。
スマホで時間を確認する。
少しだけ早く目が覚めたらしかったけれど、二度寝をする気にはならない。支度をするために、リビングへ向かう。
朝食は面倒だから食べないことにした。
歯を磨いて、顔を洗って、組み合わせなんか考えずに適当に服を着る。スマホと財布と、ショルダーバッグを持って、公園に行こうとした、その時だった。
「――待て、瑞穂」
思わず身体を跳ねさせた。
廊下の奥の方から、父親が顔を出した。影でうまく表情が見えない。
瑞穂はその声の調子に、覚えがあった。普段とは違うそれは、父親が人を叱るときに発せられる声だ。
つまりそれは――
「昨日、成人式に参加しなかったのか?」
「え、いや。した、けど……」
言葉が詰まる。
「聞いたんだよ。お前が来なかったってな」
違う、俺はちゃんと出た。成人式には出たんだよ。瑞穂はそう言いたかった。けれど身体に恐怖が染み付いていて、口がうまく動いてくれない。
もしかすると彼は二次会のことを言っているのだろうか。誰かの親を経由して入手した二次会の写真に、瑞穂が映っていなかったのかもしれない。
もしそうだとしたら、理不尽が過ぎる。
いじめられた相手の中に飛び込ませる親がどこにいるのだろう。
知らなかったでは絶対に済まされない。こんなどうしようなく嫌な人間でも、彼は瑞穂の親なのだから。
昔は父親の暴力だって、当たり前だと思っていた。だから耐えられた。耐えるという感覚すらなかった。
しかし成長していくにつれて、この家庭は普通ではないと知った。それと同時に、暴力を苦痛に思い始めた。
今では父親は恐怖そのものでしかない。
「出ろって言ったよな?」
そう言いながら父親は詰め寄ってくる。
一歩、一歩、着実に近づいてくる。
瑞穂は身動きを取ることができない。迫ってくる父親を、ただ恐れながら見つめることしかできない。
次に何が起きるかは分かっている。
殴られるのだ。
それから蹴られる。
それからまた、瑞穂の態度が悪ければ殴られる。
そして蹴られる。
素直に嫌だと思った。逃げたいと思った。一年半以上も暴力に触れていなかったから、暴力がなおの事恐ろしいものに見えてしまう。
でも結局のところ、それは殴られるだけだ。
昔のように耐えてしまえば、それで問題ない。
瑞穂は歯を食いしばって、耐えることを決める。
……本当にそれでいいのだろうか?
心も奥からそう聞こえる。
暴力は嫌なもの、ダメなもの。それは知らなかった、社会の「当たり前」ではないか。いつまでも知らないままの子供ではない。こんな暴力の子供ではいたくない。彼の息子でありたくない。
なら、大人のようになるべきではないか。
そう思う。
父親は無言で拳を作った。そして瑞穂に向けて殴りかかる。
まるでしつけだと言わんばかりの表情で。
瑞穂はそれを、両手の手のひらで抑えつけた。
衝撃が伝わる。
ペチンと大きな音がして、瑞穂の手のひらをじんと痺れさせる。
体力もなく、身体の弱い瑞穂は、衝撃で後ずさりをする。
けれど玄関の段差から足を踏み外し、顔の方から勢いよく転んでしまう。
手をついて衝撃を緩和する。
痺れた両手は、さらにズキズキと痛んだ。
瑞穂は膝に手をついて立ち上がる。
身体は痛むけれど、その痛みは打撲に近いもので、重症ではないらしかった。
目の前にいる父親は動揺していた。
瑞穂が反抗的な態度をとったことが、今までなかったからだろう。
そんな父親に目掛けて言う。
「俺はいつまでも、何も知らないままの子供じゃないんだよ……!」
半ば吐き捨て台詞のようなものだった。
そう言ってすぐに靴を履き、玄関を出る。
玄関の戸を力強く締める。
瑞穂は決して、父親の方は振り返ろうとはしなかった。二度顔も見たくない、そう思った。心の底からそう思った。
*
残された父親は、誰も居なくなった玄関を見て唖然とする。感情的になっていたけれど、スイッチを切り替えたように、すぐに冷静さを取り戻す。
そして、自らのとった行動の愚かさを反省した。
「ばか野郎。そうじゃないだろ」
それを聞き届ける人間はいない。自分一人を除いて。
父親はリビングへと向かう。そして仏壇の前に立った。
「どうしたらいいんだろうな……」
その悩みを聞き届ける人間は、どこにもいない。
母親の写真は、父親の感情の起伏に関わらず、常に笑顔であり続ける。
父親は母親に線香をあげ、りんと呼ばれる仏具を二回鳴らした。
そして手を合わせる。
「なぁ、美鈴。どうしたらいいと思う?」
父親は、彼女が生きていたなら、こんなことにはならなかったはずだと考えてしまう。タラレバを言ってもどうしようもないことくらい、自分でも分かっている。けれどそうせずにはいられない。
「美鈴。俺は自分の手が、足が憎いよ。可能なら切り落としたい」
自らの右手首を強く掴む。
「暴力は俺が一番嫌いなものだったはずなのにな……」
どうしてこうなってしまったのだろう。
父親は、かつての自分を思い出す。
あの頃は、暴力をふるう大人にだけはなりたくないと思っていたはずなのに。
彼もまた、暴力で育った人間だった。
加えてそれが異常だとは思っていなかった。普通の家の、普通の教育だと思っていた。
現代のように通信機器があるわけでもなく、一般の家庭でも、しつけとしての暴力はある程度見られたから、それが異常だということには気づかなかったのだ。
それが異常だと気づいたのは、小学三年の時。
家庭内暴力による子供の死亡の例が、テレビで取り上げられていたからだ。
それを見て、まるで自分のことを言われているような気がした。
今の瑞穂と何ら変わらない。そうして暴力を嫌悪していたはずなのに、気づけば生まれてきた子供に暴力をふるっていた。
――暴力の再生産、ともいえる。
子供に暴力をふるう愚かさを、暴力によってしつける愚かさを、子供を恐怖で染める愚かさを、よく知っていたはずなのに。最も理解してあげられるのは自分だってはずなのに。
どうしてこうしてしまうのだろう。
不幸なことに、子供に対しての教育として、知っているのは暴力しかなかった。
何も知らない。暴力はいけないことだとは知っているけれど、それしか知らない。だから瑞穂にそうしてしまう。
頭ではちゃんと理屈まで分かっている。
けれど理解することと、それを実際に実行してみることでは大きく違う。
父親は母親が死んで、瑞穂が誕生してからおよそ二十年間、暴力をふるい続けた。
そうして今日も暴力をふるってしまった。
昨日、成人式も終わり、いよいよ瑞穂が家に滞在する目的が無くなった。そう遠くないうちに、明日にでも帰ってしまうだろう。
自分が瑞穂に嫌われていることくらい、理解している。
用もないはずの瑞穂が毎日にように出かけているのは、つまりそういうことなのだろう。
けれどほんの少しでいいから、仲直りをしたい。
今日、瑞穂が帰って来た時のために何か買ってきておこう。父親はそう決めて、少し遠くのショッピングセンターまで向かうことにした。
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