待ち人、永遠に来たらず

目爛コリー

1-1 最不幸宣言

 普通でいられないのは、普通を強要する社会のせいだ。

 俺たちが当たり前に生きていけないのは、普通を強要する社会のせいだ。


「運命」なんてそのように、みんなが思うより遥かにずっと、

 残酷なのだ――


 *



 身体の弱かったらしい母親の動く姿を、瑞穂みずほは見たことがなかった。

 毎日見る母親は仏壇に背を向けて、動くことはない。長く伸びた髪をなびかせ、柔らかな笑顔のまま、瑞穂が立てた線香の煙越しに壁を見つめている。決して目が合うことはない。


 父親から、朝食前と晩御飯前には仏壇に線香をあげるように言われていたから、その通りにはしていたけれど、毎日たった数秒しか見ることのない一枚の写真が、自分の母親だなんて言われても、まるで他人のようにしか思えなかった。

 遠い先祖だと言われたほうが説得力はあるような気がする。


 でもそれが習慣になっていたから、違和感を覚えながらも毎日続けていた。言うまでもなく、そこには弔う気持ちなんて一切なかった。


 残された父親と、まだ三歳になったばかりの少年の瑞穂。

 二人で暮らすこの家は、田舎町に建っており、誰が見てもお金持ちの家だと分かるくらいには外観が綺麗に整えられ、いい意味でも悪い意味でも、田舎らしい自然に溢れた景観を乱していた。


 父親がよくできた社会人だった。

 収入は同世代の数倍以上稼いでいた。だからこんな家を建てるくらい容易な事だったらしい。

 当時、瑞穂はそれが大人の当たり前だと思っていたけれど、大学生になった今、それがどれだけ凄いことかがよくわかる。

 働くことは、それだけで大変な事なのだ。お金を稼ぐことは大変な事なのだ。


 その頃の瑞穂は、親が一人であることが普通だと思っていたし、「親」と言われれば父親のことを指すものだと思っていたし、父親の言うことができなければ、頬にビンタを食らうことが普通だと思っていた。

 ことあるごとに殴られたり、蹴られたりした。「どうしてそんなこともできないのか?」それはよく聞いた言葉だ。


 咳き込んで動けなくなったときも、息苦しくてどうしようもなかった時も、どうせ嘘なんだろうと言いたげな冷たい視線を浴びせて、それから乱雑な介抱を受けた。それも今にして思えば立派な暴力の一つだ。


 でもそれらは痛いだけで、苦しいだけで、自分が悪いのだと言い聞かせて痛みに耐えた。買い物に出かけた時に見かける年の近い子供たちもきっと、瑞穂と同じように殴られたり、蹴られたりしているのだろうし、父親だって、そんな風に教育されてきたのだろうし。


 本当のことを言えば、細かいことは覚えていない。記憶だから脚色も入っているだろうし、ひょっとすると記憶違いもあるかもしれない。けれど間違いなく言えるのは、子供の頃の瑞穂は、それが当たり前だと思っていたこと。


 でも、家族という狭い社会に、たった二人で閉じ込められていたのだから、それは仕方がないともいえる。本当に仕方なかったのだ。



 *


 

 それからいくつか歳をとった。

 秋になって、五歳になった。

 それと同時に、瑞穂は――余命宣告を受けた。



 *

 


 医師から言われたのは、母親同様、瑞穂も身体が弱いということだった。

 そして「死ぬ」といった直接的な表現を避けて告げられた未来は、他の人よりも長くは続かないということだった。


 五歳の誕生日。瑞穂は皮膚に炎症を起こし、発熱をした。これまでにない高熱だった。幼い瑞穂を、身動きができないほどの息苦しさと、四十度近い高熱が襲い、視界をぼやけさせた。


 いつもは見て見ぬふりをする父親も、今回は病院へ連れていってくれた。それだけ誰が見てもまずい状況にあったということだろう。


 はじめに小さな病院に行き、それから大きな病院へ救急車で搬送された。そこで田舎の病院ではできない精密な検査を行ったらしかった。


 検査には少なくとも一日以上は必要で、そのため、瑞穂は数日間、入院することとなった。


 入院が決まった頃には熱もある程度下がり、息苦しさの山場は超えていた。


 病室には他に数人の患者がいたけれど、それを感じさせないほどの寂しさを感じたのを覚えている。

 昔から父親のことはあまり好きでなく、そのため家も好きではなかったけれど、この時だけは、病院で一人ぼっちでいるより、早く帰りたいと思った。


 それから次の日、平日であるのにも関わらず、わざわざ仕事を休んで病院へ来てくれた父親と共に、精密検査の結果を訊いた。


 医師に促されて、小児科の問診室に連れていかれる。


 部屋の中には児童向けアニメのポスターがいくつも貼り付けられており、デスクにはモニターが三枚設置されている。

 記憶のある限り、初めて訪れた病院らしい病院に、瑞穂は興奮した。しかし騒ぐと父親に怒られるので、喜ぶのは心の中だけにしておく。


 昨日、病院に連れていかれた時は熱にうなされていたから、病室に入った記憶が曖昧な状態でしかなかったのだ。


 室内にいたのは若い医師だった。

 医師は、瑞穂と父親が椅子に腰かけるのを確認してから、ゆるやかに視線をモニターに移した。室内は静寂に包まれており、外で行きかう車の音が聞こえる。


 医師はじっとモニターを見て、瑞穂たちの方を見ようとしない。

 ややあって、医師はこちらを向いた。チェアの軋む音が、やけに大きく聞こえた。一度下を向いて、それから顔を上げた。

 まるで時間を稼ぐように。


 「五歳になったばかりなんですね」


 医師は貼り付けたような笑顔で言った。時間をかけて紡いだ言葉は、なんてことない日常の話だった。


 ええ、と父親は頷く。「昨日、誕生日だったんですよ」家で瑞穂と話す態度と変えることなく言う。


 「そうなんですね」


 それから少し、検査の結果とは全く関係ない話が続いたけれど、その話は全て瑞穂に関してだった。


 それから医師は、さて、と切り替えるように椅子に座りなおして、何やらパソコンを弄り始めた。モニターに一枚のテキストが映し出され、そこには瑞穂の体重だったり、身長だったり、昨日確認したであろう症状などがまとめられていた。


 小さく息を吐く。


 「それで、精密検査の結果なのですが――」

 医師は神妙な面持ちで語りだす。

 

 




 病名は覚えていない。

 どんな病気だったかも、どのような原因で発病したかも、それがどんな影響を及ぼすのさえ覚えていない。医師の話は子供には難しすぎたためだろう。


 けれどたった一つだけ、分かり易いことがあって、瑞穂は、それだけを確かに覚えていた。生涯忘れることなく、それが瑞穂のアイデンティティになった。


 ――長くても、三十五歳くらいには死ぬらしい。


 余命宣告と聞いて、当時の瑞穂はきっと何も考えなかったに違いない。

 もしくは何も考えることができなかったか。だって考えていたならば、大学生の今、こんな風になっていないからだ。


 それが二、三年後の話ならば、たとえ子供だとしても死を間近に思えたのだろう。でもずっと先の話、三十年も先の話なんて、五歳の頃にされたってよく分からないに決まっている。


 だから幼い瑞穂は、単純にこう理解した。

『人よりも長くは生きられない』と。

 それはずっとずっと先の、余命宣告だった。

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