4-1 約束
「――きろ。おい、瑞穂。起きろ」
何者かに布団を剥ぎとられ、違和感を覚えて身体を横に転がす。
曖昧な意識の中、これは夢ではないと、頭の中の自分が告げる。
閉じようとする瞼に、強引に力を入れる。動きたがらない身体をベッドから無理矢理起こす。
「起きたか」
聞きたくない父親の声で目覚めてしまう。
「今日は墓参りに行くぞ。早く支度しろ」
それだけ言うと、父親はすぐに踵を返した。そして部屋を出る直前に、足を止めて言う。
「下で待ってるからな」
瑞穂は「うん」とだけ言う。
寝起きのため、声は掠れていた。
唐突に入れられた予定だったけれど、瑞穂はそれに何も文句を言うことはない。
父親は、そういった儀礼的なものを重視する人間だ。瑞穂は強引にでも連れていかれるだろうし、何より瑞穂に拒否なんてできるはずかない。
たとえ拒否権があったとしても、頭の中に潜む父親像が拒否することを拒否するのだ。
駄々をこねて、墓参りに行くのを嫌がれば、昔のように暴力を振るわれるに違いない。
本当は今日も公園に行くつもりだったのにな、と思いながらも、仕方がないと、瑞穂は立ち上がり、墓参りの準備を始める。
*
自宅から徒歩十五分ほどのところにある寺に向かう。
そこに至るまでに、一切の会話は起きなかった。
爽やかに吹き過ぎる風、共鳴するように鳴くセミの声、火傷をしてしまうほどの熱を持った地面、額を濡らす汗、垂れる汗、潤いを求める喉奥。
その間、瑞穂はそれらの夏の声に、耳を澄ませながら歩いた。
隣には大嫌いな父親がいたけれど、そうしている間は、そこに父親がいないように思えた。父親には夏の色は似合わない。
そうして寺に辿り着き、裏の墓地へと向かう。
何年振りかに訪れた墓は、思いの外清潔に保たれていた。
父親は置いてあったスナック菓子を手に取り、持ってきたプラ袋に入れる。それで瑞穂は、父親が定期的に墓を掃除しに来ているのだと知る。
それから父親は、花を新たなものに取り換えた。
そしてお供え物を置こうとする。
「墓、掃除しなくていいのか?」
墓地特有の静けさに馴染むように、少しだけ声を抑えて訊いた。
「あぁ、大丈夫だ」
父親は声色を変えずにそう言う。
恐らく、近い間に訪れていたのだろう。
瑞穂は返事を返さない。
それからお供え物を並べ、線香をあげる。
父親と共に手を合わせるが、弔うべき母親の顔は思い浮かばない。
いつもの要領で、数秒経ったから目を開ける。横を向くと、父親はまだ目を瞑り、手を合わせていた。
一体何を考えているのだろう。何を想っているのだろう。
父親がどんなことを考えているかなんて、瑞穂が理解できるはずがない。
だって記憶のある限り、一度たりとも彼のことを好意的に思ったことがないのだから。
父親は瑞穂が目を開けてから、二十秒ほどずっと合掌を続けていた。
*
瑞穂は今日も公園を訪れていた。
それはもはや、日課になりつつあるともいえる。
日課と言っても、ただベンチに座って岩船の自然を感じ、空と海を眺めながら、ふいに茉莉と取り留めのない会話をして、時間が過ぎるのを待つだけなのだけれど。
太陽がちょうど真上に来た頃、茉莉は思いついたように口を開いた。
「そういえば、成人式って明日でしたっけ?」
「いいや、明後日のはずだが」
「そうでしたっけ。すみません」
この市では、冬に成人式を行わない。
成人の日がある季節は大学生のテスト期間であり、土地の関係上、大雪が予想されるため、夏に成人式が開かれるようになったという。
瑞穂にとって、成人式が夏に開かれることは当たり前だったが、大学生になり社会を知り、全国的に見てそれが当たり前でないと知った。
普通、成人式は冬に行われるのだ。
「でもいいんですか? そんなので」
「何がだ?」
「服だったり、髪だったりですよ」
「あー」と、間延びしたような声を出した。
「いや、服は流石にこれでは出ないぞ」
「そうですよね」と、茉莉は笑う。
「だいたいはスーツで出るんだ。羽織袴のやつもいるらしいが」
瑞穂は自らの髪を、手櫛で整えた。
「確かに随分と伸びたなぁ」
後ろ髪は首元まで伸びて、分けられた前髪を真っ直ぐにしてみれば、口元まで伸びていた。
「いつから切ってないっけな」
思い出してみたが、最後に散髪をした記憶があるのは大学一年の春休みが開ける前。
つまり四か月以上、この髪を放置していたことになる。
「確かにこれは少しまずいな」
「えぇ、結構まずいです」
結構かと内心で傷つく。
「髪切りに行っておいた方がいいんじゃないですか? 約束、あるんでしょう?」
約束――つまり、佐中ひまりとの約束。
成人式で立派になって再会すること。
「いいや、約束はしたけどさ。それはもう果たせそうにないんだよな」
「え、そうなんですか」
「今の俺は、あの頃約束したような立派な人間ではないし、なんだったら自殺を考えてるどうしようもない奴だ。単純に、俺とひなたじゃ釣り合わないんだよな……」
茉莉は黙っていた。それから一拍おいて、瑞穂に問う。
「――瑞穂さんは、その、佐中さんのことが好きなんですか?」
瑞穂は何かに気づいたように顔を上げた。
そして数秒、茉莉の表情を見る。
「分からない……。分からないけど、多分、好きなんだと思う。そうじゃなきゃ、こんな約束、覚えてるはずがないだろ?」
自分を置き去りにしたように、空っぽに笑う。
「分かりませんよ。ただ覚えているだけかもしれませんし、そんな約束自体、実は瑞穂さんの想像で、存在していないかもしれませんよ」
そんな風に茉莉は笑って、冗談めかして言ってみせた。
「けどまぁ、そうとは限らないってことも、あるとは思いますけどね。わたしは」
「そうか」
他人思いの茉莉らしい前向きな答えだなと思う。
「まぁそういうことにしておくよ」
そう言って瑞穂はベンチから立ち上がった。
「どこ行くんですか?」
茉莉の言葉に、瑞穂は足を止める。
「言われた通り。髪切りに行くかなと思って」
「そうですか。なら、一ついいことを教えてあげますよ」
「いいこと?」
「はい。髪切ってもらう時に、『夏らしくお願いします』って言ってみてください。きっとうまくいきますよ」
「へぇ、そういうものなのか。よく知ってるな」
「この間読んだ本に書いてありましたから」
「本を読むなんて、いい心がけだな」
「そうでしょう?」
そう胸を張る茉莉を適当にいなし、公園を後にする。
茉莉は以前、読書好きだなんて言っていただろうか。
もしかすると、話が合うかもしれないな、と思った。瑞穂は時間を潰すために、よく本を読んでいたのだ。
*
岩船の隣町。村上は少しばかり栄えている。
そこにある一度も行った事のない、西洋を思わせる美容室で、瑞穂は感心していた。
まずどのように髪を切るかを訊かれた時、言われたとおりに「夏らしくお願いします」と言ってみた。きっと短く切られるのだろう。
実のところ、瑞穂は髪をすいてくれさえすれば、髪型なんて二の次三の次だった。「お任せでお願いします」と「夏らしくお願いします」。口を動かす数はそう変わらない。
お任せにして、後から何度も訊かれるよりは、そっちの方がずっといい。そう考えて髪型を夏らしくしてみることにする。
特に頓着はないのだ。
そうしてみた出来栄えを見て、瑞穂は驚くこととなった。
鏡に映った自分はまるで自分でないように思える。
髪型に関しては詳しく分からないけれど、簡単に言えば少し長めのセンターパートヘア。長かった髪をそのまま生かした、個性的で、それでいて現代的でもある髪型だ。
「どうでしょうか?」首元に手鏡をあてながら、男性の美容師は訊いた。
「凄くいいです」
「本当ですか。よかったです」と、彼は慣れたように微笑む。
それから肩の髪を掃われ、ワックスを付けてもらう。
施術が終わり、カウンターで五千円を払う。
店を後にしようとすると、その美容師は、慣れたように声を掛けた。
「またお越しくださいませ」
去り際、瑞穂は会釈をしてから、店を出た。
それから通りをしばらく歩いてみて、ふいに一軒家の窓を見る。
そこには、いつの間にか朱色なっていた空と、数時間前とは変わった自分が映し出されていた。
その姿はそう悪くはないと思える。
もう二度と訪れることはないだろうけれど、仮にこの数日間の内に、何か心変わりをして、夏の終わりに自殺をしなかったとして。何かの巡り合わせで岩船に帰ってくることがあったのなら、またここを利用しようと思った。
そんなことは絶対にありえなのだけれど。
*
それから徒歩四十分ほどかけて、自宅に戻る。
頭上にある朱色の空は、徐々に黒を帯びていく。昼間と変わらず自由に鳴くセミと、どこかの草むらからびぃびぃと声を上げ続けるケラの虫。
それがどこまでも続いていく。
先程から電柱に、いくつもポスターが貼られていた。
どうやら二日後、村上で大規模な祭りが催されるらしい。国の無形文化遺産に登録されたと、ポスターには大々的に書かれている。
瑞穂はそんなものに行くつもりなんてないから、流し読みをして、すぐに過ぎ去る。
視界も暗くなり、空が紫になった頃、どこからか煙臭さを感じた。
視界の右に明るさを見つけ、そちらを見ると、草むらで楽しげに花火をする子供たちが目に入った。
よく見えないが、聞こえる声からして、親子のようだった。
進む足を緩め、その声に耳を傾けながら歩く。
その楽しそうな会話を聞いて、なるほど、これが本来の親子の在り方なのだろうな。そんな風に思う。
けれど瑞穂は、それだけは絶対に手に入れることができない。
手に入れる環境を持ち合わせていなかったし、仮に手に入れてしまっては、瑞穂の中の「瑞穂」が崩れ去ってしまう。その光景は幸福だ。不幸でなくてはならない。
だから、この世界にはそんなものもあるのだな、とまるで見ないふりをした。
そしてその足をいつもの早さに戻す。
瑞穂が彼らの元を通り過ぎてすぐに、口笛に似た、聞き馴れた打ち上げ花火の音がした。
ほどなくして、破裂音がする。
家庭用の物であるため、空に咲いた花は小さい。
けれど、少人数で見るには十分だ。
一番の歓声が上がる。子供たちははしゃぎ、母親らしき女性も「すごーい」と、空を見上げながら言う。
瑞穂にはその音だけが耳に届く。
花火の光、立ち込めた煙、焦げた紙の匂いと火薬の匂いが、風に乗って瑞穂の方へと流れていく。
それらを背中で感じる。
夏だな――と、瑞穂は思う。
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