Day10 くらげ

「くらげいいひんかった!」


 三津みとシーパラダイスの順路の終わり、天井からイッカクの角が吊るされている廊下の途中で、椿が駄々をこね始めた。


「えっ、みとシーにはいないよ」

「知ったはったんか」

「うん。みとシーは海の哺乳類の王国だからインスタ映えする水槽ないよ」


 正確にはペンギンなど海鳥もいるが、ウリはイルカやアシカのショーである。椿も先ほどまでトレーナーを背に乗せて動き回るイルカを喜んで見ていたというのにいまさら何を言い出すのか。


「くらげさんいはらへん」


 立ち止まってぶすっとした顔をしている。まるで五歳児だ。世間は午後のティータイムの時間だからだろう、幼児は眠くてご機嫌ななめなのだ。


「くらげさんいはらへん、って。京都人丸出しの椿くん語だね」


 指摘されて気づいたらしい、椿がはっとした顔で言い直す。


「いやな……おりません……おられない……?」

「無理して標準語にしなくてもよろしい」

「僕だいぶ静岡弁になったとおもてんけど」

「そうだったのか、気づいてあげられなくてごめんね」


 手をつないで引っ張る。通りすぎる親子連れに見守られながらスロープ状の廊下をゆっくりのぼっていく。地上階に出るとそこはエントランス兼お土産ョップだ。


「そうかそうか、椿くんはくらげが見たかったんだね。水族館ならどこでもいいのかと思ってたよ」


 今回のデートは椿が水族館に行きたいと言い出したので企画したものだった。企画した、と言っても車で片道数十分の距離なので、今朝ゆっくり起きて家事をしてからの発案だったが時間にはまだゆとりがある。


 事の発端は椿が優待割引券を持って帰ってきたことだった。どうやら最近近所にできたカフェの店頭で配っていたらしい。水族館、という言葉に惹かれて持ってきたそうだが、三津シーパラダイスが具体的にはどんなところかは知らなかったようだ。


 沼津市には水族館が三ヶ所ある。かつてはアシカやアザラシを繁殖させている三津シーパラダイスが一番有名だったが、ここ数年で深海に特化した展示をおこなっている沼津港深海水族館も全国的に知られるようになった。


 くらげが見たいなら後者に行くべきだった。浅い海にいるイメージのくらげが展示されているかと思うと確信は持てないが、エモい水槽はたくさんある。椿が見たいのはそういう水槽だったのだろう。


 ことデートというものにおいてヒアリングは大切だ。双方の要望のすり合わせが満足度を上げるカギである。互いに思い込みだけで行動するとこういうミスマッチが起こる。向日葵と椿の鰹節より硬い愛がその程度で壊れることはないが、積み重なっていくといつか我慢の限界が来るかもしれない。


 つないだ手を引っ張る。


「椿くんもう疲れちゃった? おうち帰りたい?」

「そういうわけやないけど」

「じゃ、今から深海水族館のほうも行こう」


 椿が無邪気な笑みを浮かべた。彼がこういう顔をできる世界が自分たちの生きる世界だ。


「水族館はしご!」

「やったー!」


 建物から出た。イルカのショーを見ている時には座っているだけで汗が噴き出したものだが、今はほんの少しだけ太陽が優しくなっている。次の水族館は冷凍シーラカンスを保存できるほど空調が効いているはずだし、今日はもう熱中症の心配はない。



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