Day6 筆
ダイニングテーブルで椿が何か作業をしているので手元を覗き込んでみた。書き物のようだ。ノートに万年筆で何かを書き綴っている。びっくりするほど美しい、少し神経質な楷書体の字だ。
人が書き物をしているところを勝手に読むのは不作法だ。向日葵は目を逸らしつつ尋ねた。
「何書いてるの?」
椿が手を止め、顔を上げて答えた。
「日記」
「そんなの書いてたっけ?」
「ううん、今日から。生活が落ち着いてきたから、そろそろ新しいルーティンを作ってリズムを整えようと思って」
丁寧な暮らしだ。向日葵にはない発想である。
「すごいねえ。わたし小学校の夏休みの日記ですら苦痛で苦痛でたまんなかったから、大人になった今自主的にやろうとは思えないわ」
「ええんちゃう? うちはそういう家系やったし、僕にはなんや使命感みたいなものがあるから」
「家系か」
向日葵は、つきり、と胸の奥に刺さるものを感じた。
しかし、椿は静かな声とのほほんとした笑顔で続ける。
「ひいさん、言うてくれはったやん。実家のこと百パー忘れんでもええんやで、って」
そうだ。確かに言った。いくら椿のためだと言ってもすべてを捨てさせるわけにはいかない。
椿のためだからという建前を振りかざして何かを強要してはいけない。選ぶのは椿自身で、向日葵がすべきはそれとなく勧めること、そして椿の最終決定を尊重することだ。
本音を言えば、向日葵は椿に実家のすべてを忘れさせたかった。重々しい因習、冷たい雰囲気、不器用な椿を責め立てる親兄弟、それらすべてのものを捨て去ってこの新天地でのびのび暮らしてほしい。
しかし椿はそれで二十二年間京都で生きてきた。それらをすべて否定することはアイデンティティを否定することだと思う。
向日葵は恵まれた境遇にある。両親に信頼され、兄に守られ、祖母に甘やかされて育った。特別裕福でもなく、先祖代々農民の家系で受け継ぐ財産といったら茶畑くらいだが、向日葵はそれに満足して生きてきた。だからむごい仕打ちを受けてきた椿をここに受け入れたわけだが、時々、それは傲慢なことだったのではないかと不安になることがある。
「日記はたしなみやで。何でも書き残さなあかん。うちは先祖代々そうやってきた」
だが椿はその先祖伝来の重要文化財レベルの古文書の日記をすべて実家に置いてきたわけである。
そこで、彼は向日葵が沈黙していることに気づいたらしい。長いまつげをぱちぱちさせた後、にっこり笑顔を作って言った。
「ええやん。
向日葵は椿を後ろから抱き締めた。
椿が万年筆のキャップを閉めた。その金色のリングにはアルファベットが彫られていた。T.K──ツバキ・クジョウか。この万年筆を贈った椿の親は椿が実家の跡取りとしてその氏を継ぐことに何の疑問も持っていなかったことの証拠だ。
ちなみに、この万年筆は椿が大学に入った時に父親から入学祝いとして贈られたものらしい。螺鈿の椿の花があしらわれた美しい軸の万年筆、なんと五十万円の特注品だそうである。椿は普段使いしているが、向日葵は恐ろしくて触れない。
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