Day31 夏祭り
沼津駅から半径一キロ圏内が歩行者天国になった。近隣のコインパーキングはすぐ満車になってしまうので、池谷家一同は朝から家を出て昼食も夕食も屋台飯とすることにした。年に一度の夏祭りだ、これくらいの暴食は許されたいものである。
今日の向日葵は念願かなっての浴衣姿だ。黒地にいくつものひまわりの花が咲く浴衣にピンクの半幅帯、ピンクの小花柄の鼻緒の草履をはいた。この日のために小物を揃え、祖母の指南を受けながら着付けを練習した。子供の頃と変わらぬ調子で家族全員に可愛い可愛いと誉めそやされ、向日葵は自分がこの家で大事に育てられたことを思うのだった。
椿も浴衣姿だ。彼の場合七月に入ってから日夜問わずずっと浴衣姿なのだが、今日はよそゆきの厚くてしっかりした生地の藍色の浴衣に金糸を織り込まれた──ひょっとしてこれも金襴か──檜皮色の生絹の角帯だ。
ごった返す人混み、立っているだけで汗をかくほど高い気温、空はようやく暗くなり、屋台から漂う鉄板の香りが食欲を刺激する。
椿がきょろきょろしている。立ち止まったら人波に溺れてしまうだろう。危ない。向日葵は手を伸ばして彼の手首をつかんだ。
「早く早く! 花火上がっちゃう!」
強く引っ張って前に進もうとしたところ、椿が手首をひねった。手がはずれた。
「椿くん?」
立ち止まって椿のほうを振り返ろうとした。
次の時、手首ではなく、手を、椿の手が握り締めた。
「置いてかんといて」
椿が向日葵のすぐ後ろを歩く。ぴったりと寄り添う。はぐれないように。離れないように。何者にも引き裂かれないように。
「観覧席戻ろ。花火、川床で見ような」
実態はただ狩野川の河原にビニールシートを敷いただけの空間で京都の川床ほどの風情はないのだが、自分たち家族だけの特別な場所だ。
「うん!」
小走りで動き始めた。
途中で花火が上がってしまった。夜空を彩る白と朱色の光が大きな音を立てて弾け飛んだ。間に合わなかった。さんさん通りからでは手前の建物が邪魔で下半分しか見えない。それでも人々は喜んで歓声を上げている。
「早く戻ろうね。椿くんに全部見せてあげるからね」
立ち止まることなく横目で見た。自分たちには観覧席がある。こんなところで止まっている場合ではない。
「もっとゆっくりでもええんちゃう?」
椿が笑った。
「来年も再来年もあるんやから。毎年見れるもんやから、そこまで焦って走らんでも」
向日葵の胸の奥が熱くなったのは何も熱中症のせいではあるまい。
「そうだね。来年も再来年もあるしね」
二人はしっかり手をつないだまま、周囲の人の流れを乱さない程度の歩幅で歩き始めた。
日本の夏。あと何十回か繰り返される、幸せな夏。
太平洋は今日も晴れ ~灼熱の空の下咲き誇れ向日葵の花~ 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid
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