Day11 緑陰
かつて沼津市西部に
正面の丘を登ると小さな社しかない神社がある。この
神社の周りを桜の木が取り囲んでいる。春は一面薄紅色で美しかった。盛夏の今はすべて葉桜になっていて、見上げると緑の濃淡でできた絨毯が空に広がっている。日光のほとんどを遮り、ちらちらと落ちる木漏れ日は優しい。
日傘をたたみ、ベンチに腰を下ろした。
椿はこの場所が好きだった。ここに引っ越してきた直後に初めて妻の向日葵が案内してくれた地元の史跡だからだ。
あの頃椿は実家の相続問題で心身ともに疲弊し気力も体力も失っていた。もともと蒲柳の質の上に気鬱が酷く臥せっていたのを、向日葵が無理のない範囲でと言いながら少しずつ連れ出し、家の周りをゆっくり散歩させてくれたものだ。椿はこれこそが本物の愛だと確信し実家を捨て妻の家に入ることを決めた。婚姻届に判を捺した途端肩の荷が降りて息がしやすくなった。
向日葵は興国寺城趾を何もないからつまらないだろうと言っていた。日本史が好きな椿にはもっと整備された寺社や謂れのある文物を見せるべきだと思っているらしい。しかしそんなものは地元に戻ればいくらでも見られる。今は坂東武者の勇壮な戦絵巻を見られる城跡のほうがおもしろい。椿とて男児に生まれたからには戦記に血湧き肉躍るというものだ。
東海道を巡る武士たちの血で血を洗う歴史、朝廷にはない大合戦、謀略に誅殺、泥土に塗れて地を這う武者たちの無念──
それらを知らずに、あるいは知ってもなお、もしくは知っているからこそ、美しく枝葉を広げる草花。
さんざめく木漏れ日。
不意に浴衣のふところの中でスマホが震えた。見ると、向日葵からメッセージが届いていた。
『会社でフィナンシェもらったよ! 持って帰るから間食しないでね』
椿は「はいはい」と笑った。
野辺に散る つはもの思ふ 夏の影 濡れにし袖を 知らぬ妻かな。
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