Day12 すいか
妻の祖母が大事にしている家庭菜園で、これでもかという量のトマトが穫れた。誰一人としてトマト嫌いのいない池谷家だったが、さすがにこの量のトマトを短期間に食べ切れるとは思えなかった。
やむを得ない。近所や親戚に配り歩くしかあるまい。
そういうわけで、本日の椿はトマトと他キュウリやオクラなどを持って池谷家のお決まりのルートを歩かされていた。
こういう時はいつも椿が行かされる。
重い荷物を持って歩いているとみじめな気持ちになる。しかし婿に来た立場で序列最下位だから仕方がない。それに普段の自分は自宅の茶屋の店番に甘んじていて実質ニートだ。暑いしだるいしたまらないが、文句を言える身分ではない。
それに悪いことばかりでもない。行く先々で茶を出され、褒めちぎられ、かえって土産を持たされることもあるので、時々ちょっと気分がいい。
時刻はそろそろ午後五時、ようやく日が傾いてきた。今日は風もあってそれほど灼熱というほどでもない。京都生まれ京都育ちの椿からすると沼津の夏は過ごしやすい。それでも暑いものは暑いけれど、報道される京都の最高気温を見るとこんなに違うものかと愕然とする。これは大正天皇も別邸をお作りになるというものだ。
妻の祖母の言いつけどおり交通量の多いバス通りを避ける。田んぼの畦道を舗装したような何もない平らな道路をふらふら歩く。
民家の前を通過しようとした時だ。
ふと、ブロック塀の下に何か棒状のものが立っているのが目に留まった。
近づいて見てみる。水道のように見える。しかし蛇口はない。細いパイプの中からこんこんと水が流れ続けており、田んぼの脇の水路に注いでいた。清らかな透明の水で変な臭いや色はない。
水が落ちるその下を見つめる。
たらいに入った大きな大きな丸いすいかが、水浴びをしている。
「食べるか?」
不意に声をかけられた。
はっと顔を上げると、白いランニングシャツに幅広のつばの帽子をかぶった老人が立っていた。
「持ってってもいいぞ。どうせおれとばあさんの二人で食べんだ、いつも食い切れなくて困ってんだからな」
「いや、そういうわけにはいきません」
どうやらこのすいかをここに置いた人物のようだ。たぶん目の前の家の主だ。
「ここで冷やしてるんですか?」
「そうだ。水道だと水道代がかかるら。これならタダだからよ」
「これ、水道やないんですか?」
「湧水さ」
椿は得心した。
「富士山の雪解け水がずーっと地盤の下を流れてくるのが家の地下から湧くもんでこっちに流してるさ」
なるほど、ここでは鉄パイプを通じて出しているのであまり風流でないが、原理としては貴船神社の聖なる泉と一緒なのである。
老人が上半身を起こして遠く西日のほうを見る。
「ここらは昔沼地だったさ。今でもほら、浮島、平沼、井出、水に関わる地名が残ってるら。それをここ百年ぐらいで干拓して人間が住むようになっただよ。だから今では、何つうの、液状化? 地震が来るとなかなか厳しいだよね」
「そうやったんですね」
「まあ池谷さんちは
なんとはなしに違和感がある。何かおかしな話だっただろうか。
きょとんとした目で老人を見つめていたら、彼は弱った歯茎にまだ揃っている前歯を見せてにっと笑った。
「あんたあれだら。ひまちゃんが京都から綺麗なお婿さんもらってきたっていう」
違和感の正体がわかって、かあっと頬が熱くなった。
「僕、そんなに目立つでしょうか」
「どうだろうね。おれはカンタと同級生だからひまちゃんの動向が気になっちまうのかもね。ああ、カンタというのは、
すいかのそばにしゃがみ込み、たらいの上のすいかをころころと回す。
「沼津の街が空襲が何にもなくなっちまった後一緒に小学校に通ったさ。そんな仲だったもんで、内孫で愛嬌のあるひまちゃんが可愛い可愛いってって連れて歩くのをよく見てたです」
冷や汗をかいた。池谷ファミリーネットワークが案外広い。今のところ剥き出しの敵意に晒されたことはないので、池谷一族の徳の高さを思い知る。その末席に連なる自分が面汚しにならないよう祈る他ない。
「おれはそこの
「おおきにありがとうございます」
「どれ、すいか入る袋探してくる。そこで待ってな」
山秋老人が立ち上がり、家の中に入っていった。椿は、せっかくトマトを配り終えたのに荷物がむしろ増えたことを感じて、ちょっと泣きたくなった。
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