Day9 団扇

 あまりにも暑い。今年はラニーニャ現象で気温が上がりやすいと聞いていたが、仕事で沼津市内を飛び回る向日葵は帰宅する頃には毎日汗だくだ。


 家族には申し訳ないが、家についてすぐシャワーを浴びた。頭から爪先までしっかりと汗を流させてもらった。その分夕飯の支度はおサボりだ。


 どこかで埋め合わせしないと、と思いながら扇風機の前で涼む。カリスマ主婦の母がエアコンと扇風機を両方同時に使うと冷風の循環が良くなり涼感も得られるし節電にもなるという情報をどこからか得てきたので、池谷家の居間では羽が回るタイプの古き良き扇風機が稼働している。


 不意に横からもそよ風が吹いてきた。顔を向けると、得意げな顔をした父が団扇で向日葵をあおいでいた。


「ひーまーちゃんっ」


 少年のような笑顔を浮かべている。彼の背後に犬のしっぽが見える、褒めてもらえるのを待って大きく振っているあれだ。


「見て見て」


 団扇を差し出してきた。その団扇を受け取った。


 向日葵は目をまんまるにした。


 黒い夜空にいくつもの大きな花火が上がっている写真が使われた団扇だった。


 中央部に白抜きで文字が書かれている。


 『沼津夏まつり狩野川かのがわ花火大会』。


 今年版、つまり今月末開催版用の広告だ。


「どこで貰ってきたの?」


 父がにんまりと目を細める。


「きらめっせにチケット買いに行っちゃった」


 きらめっせとは沼津駅北口にあるイベントホール施設プラザヴェルデの展示場のことだ。今そこの窓口で販売されているチケットとはいったい何のチケットなのか、向日葵もよく知っている。


「ひょっとして、とれたの? 観覧席」

「おう!」

「うわー! お父さん大好きー!」


 二十代にもなって絡まるように抱き締め合う父と娘を見た椿が、「仲がよろしおすな」と呟いた。


「よっぽど嬉しいんやな、納涼床で見る花火」


 納涼床、という言い方が京都人らしい。


 ここでいう観覧席とは、花火大会の日に狩野川沿いに設けられる、座って花火を鑑賞できる特別スペースのことである。料金は六千円からだが、これが協賛金という扱いになり、打ち上げ花火の支援金になる。打ち上げられた後誰からの提供で上がった花火なのか購入主の名前を大々的に読み上げられる。我が家の場合は父が腐っても農園主なので製茶企業としての屋号の香爽園こうそうえんの名を呼ばせるに違いない。


「嬉しいよ! これでゆっくり花火を見られるんだよ! 観覧席じゃなきゃ人の多さで圧死しちゃうよ!」


 向日葵は熱弁した。


「狩野川に御成橋おなりばし永代橋えいたいばしってあるら? その間で花火を上げるんだけど、毎年祇園祭かよってぐらいすごい人になるから」


 祇園祭にたとえられると規模を想像できるのか、椿は真面目な顔をした。


「橋、一方通行で立ち止まるの禁止になるし、ゆっくり花火を見上げてる場合じゃなくなるさ」

「ほう」

「でも今年は観覧席で見れるー! 最初から最後まで見ることができるー! おっきくてまあるい花火を見れるー!」


 おおはしゃぎの娘に、父が満足げに頷く。


「楽しみだな、花火大会」

「うん!」

「椿は沼津で初めて見る花火大会なんだから、一番いい席で楽しませてやらないとな」


 急に名前を出されて、不意をつかれた椿が一度大きく目を見開いた。そして照れたのかうつむき、笑いを噛み殺している微妙な表情で呟いた。


「楽しみにしています」




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