Day15 なみなみ

 室温に触れただけで表面が曇るほど冷えたグラスに、ビールがなみなみと注がれた。沼津の地ビールだ。


 娘の向日葵といい父親の広樹といい、この一家は地元のおいしいものに詳しい。椿とて実家周辺のおもたせになるものには精通しているつもりだが、沼津に来てからはどこに何があるかわからない。単に出歩く機会が少ないからだと思いたい。こういうのは贈答しているうちに知識が蓄積されるものだから、アンテナを高くしていればきっといつかはマスターするに違いない──と思う反面やはりここぞという時におもたせになるものが浮かばないというのはたいへん不安だ。


 義父は隣に座って同じくグラスを片手に待っていた妻である義母のグラスにもビールを注いだ。義母がこの上なく幸せそうな顔で「ありがとう」と言った。


「では、いただきましょう」


 グラスを掲げる。


「二番茶の出荷を祝して! 乾杯!」


 季節は確実に移ろっている。冷房の効いた茶屋で接客をしている椿は少し鈍感だが、畑に出て農作業をしている義父は空気の変化に敏感で、やはりプロはプロだと思い知らされるのであった。


「いやー、うまい」


 ビールを一杯飲み干し、口角を手の甲で軽く拭う。


「労働の後のアルコールってなんでこんなにうまいんだ。しかもバカ暑い外で働いてきた後だと余計に冷えたビールの喉越し最高」


 そこまで言っているのを聞くとうらやましくなる。

 つい、こんな言葉を漏らした。


「僕も飲みたいな、ビール」


 家族一同の視線が自分に集中した。


「お義父さんがそこまで言わはるんやったら、よっぽどおいしいんやろうな」


 すかさず向日葵がたしなめてきた。


「だめです。椿くんアルコール苦手でしょ。肝臓にアルコール分解酵素がないです。だめ」

「でもちょっと口をつけるくらいならええやろ」

「ひとのもの欲しがるなんて椿くんらしからぬ下品ですよ」


 そう言われると言葉に詰まる。


 自分は飲兵衛の義父は平気で「いいじゃんいいじゃん」と言い出した。


「ひまちゃんの目を盗んで今度二人でお酒飲み行こうぜ。車は代行使えばなんとかなるっしょ」


 嬉しい誘いに目を輝かせた。酒を飲めるというのも嬉しいが、舅殿にこうして目をかけてもらえるというのも嬉しい。むしろそちらのほうがもっと嬉しいかもしれない。一家の長である義父に気に入ってもらえれば将来は安泰だ。


 ところがその次の時彼はこんなことを付け足した。


「ただし労働はしてもらわないとな」

「え?」

「酒は労働の後のご褒美って古代から決まってんのよ。椿にも茶畑で過酷な労働に従事してもらわなければなあ?」


 普段の彼からは想像もつかない邪悪な笑みだ。


「畑の仕事は茶摘みだけじゃねえんだわ。このシーズンは毎日雑草との戦いだ。お前も一緒に戦ってくれるよな? え? 婿殿」


 椿はごくりと唾を飲み込んだ。




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