Day14 幽暗
お湯をいただいている身で文句をいうのは筋違いだとわかっていても、母屋で風呂の順番待ちをしているといろいろ不満が出てくる。実家にいる時は父の次、父亡き後は自分が一番風呂だったのに、とか。着替えもすべて支度してくれる人がいたのに、とか。シャンプーやコンディショナーのボトルを置きっぱなしにすることは許されない。掃除の当番も回ってくる。
とりわけ向日葵の入浴中が退屈だ。
学生時代は自由だった。向日葵の下宿先である学生向けワンルームアパートに居座っていたのだが、すべてが自己責任でひとにお伺いを立てる必要はなかったし、ユニットバスで全身にシャワーを浴びながら向日葵と睦み合う時間は何にも替え難い時間だった。
とはいえ冷静に振り返ると、今の家の広くて清潔なバスタブに比べたら狭い上に先住者の怠慢でついた傷や汚れのあるユニットバスでよく耐えられたものだとも思う。すべて愛と若さが為せる技だったに違いない。
また一緒に風呂に入りたい。しかし母屋で戯れられるほど恥知らずではない。離れにも浴室があるがいまさら風呂だけ離れに戻りますというのは障りがある。さすがの椿も入浴時は全裸だ。向日葵と裸で風呂に入る件について向日葵の親に何と説明しようか、否、できるはずもない。
こういう時、自分に力があったら、と思う。自分の実家の人間をすべて家から追放する力だ。家の人間を一新して向日葵ただ一人だけを置くことができたらこれほど楽なことはなかっただろう。だがそうするためには自分はあまりにも弱く儚く無力な男であった。
日が暮れて気温が下がってきた。エアコンの風が好きではない椿はやっと外気温が人間の生存できる温度になったのを感じて縁側に出た。腰を下ろし、ぼんやり空を見上げる。
七月は日が長い。夏至を過ぎてひと月も経たぬ夕暮れは明るい。時刻は夜七時を回ったところだというのに、ようやく訪れた黄昏時、太陽は山の端に沈んだばかりで西の空は黄金色、群れ成す雲は朱色に染まり、透き通る薄紫、天頂には夜の
月は真ん丸だった。ひょっとしたら満月かもしれない。しかし主張の弱い月だ。空が明る過ぎて存在感がない。
自分はあの月のような人間だと、椿は思う。空が明るければ明るいほど埋没していく。向日葵という太陽が存在しなければ輝くことができない。夜の闇を望む、日向を歩けない生き物だ。
「椿くん」
我に返って振り向くと、パジャマにしているハーフパンツにTシャツという出立ちの向日葵が立っていた。
彼女がいるだけで救われた気持ちになる。弱くて情けない、恥ずかしい自分を、彼女は見守ってくれる。
「お風呂空いたよ。入って」
椿は一回立ち上がってからふたたび月のほうを見た。
「
向日葵が「ふうん?」と鼻を鳴らすように声を漏らす。
「ここはまだ椿くんにとってよその土地かな?」
すぐに首を横に振って否定した。
「夏の京都はこんなに爽やかな空気にならんわ。それに考えるべき些末なことが多すぎて大きなものに思いを馳せることはできひんかった。違いを比べてああでもないこうでもないと言うてられるんがほんまの自由や」
そう、すべては異郷に出られたからこその夢まぼろし、実家を離れなかったら実家のいいところも悪いところも意識しなかっただろうから、これはこれでいいのである。
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