Day18 群青
「あーっ! 雨上がったじゃー!」
運転席の向日葵が心底悔しそうな声を上げた。
「これなら海水浴できたのにー!」
「ほんまやなあ、残念やったなあ」
言葉では同調するようなことを言っておいたが、椿の心の口からは舌が出ていた。本音では海に入りたくなかったからだ。
沼津には何ヵ所か海水浴場がある。それらが一斉に海開きをしたのがつい一昨日の話だ。夏女の向日葵は張り切って海水浴を計画したが、冗談ではない。
海水が体につくのも嫌、砂が海につくのも嫌、日光の下に晒されるのも嫌、椿は海水浴のすべてにネガティブなイメージを持っていた。
それを、普段なら尊重してくれる向日葵が、何事も経験だから、嫌なら一回でやめていいから最初の一度だけ、と押し通そうとした。
確かにこれまでの人生で一度も海に浸かったことがない。食べず嫌いならぬやらず嫌いだ。向日葵が好きなことを頭ごなしに嫌がるのも失礼か。
そういうわけでしぶしぶ水着とラッシュガードを買った椿だったが、幸運なことに、海水浴予定日の当日の朝になって結構な雨が降ったのである。
泣く泣く泳ぐのを諦めた向日葵に寄り添うふりをして、せめて海を眺めるだけのデートを、と提案した。我ながら悪い男だ。
こうしてたどり着いた千本浜海水浴場には雨をものともしなかったのか数え切れないほどのグループがいた。寒くないのだろうか。雨が上がったのでこれから気温は上がると思うが、椿からしたら正気の沙汰ではない。
車を駐車場にとめ、二人で防波堤を上がる。濡れたコンクリートの上では腰を下ろす気になれない。砂浜などなおさらだ。
「晴れてきた……」
向日葵が恨めしそうな声で呟いた。さすがの椿もいよいよ胸が痛んできた。
「また来ような。今いつもやったら梅雨明けするかどうかの頃やし例年どおりでもほんまに梅雨明けてそうな頃来たらええやん」
「今の台詞録音すればよかった。言質」
「……そこまでせんでも男に二言はあらへんのです」
彼女には何もかもお見通しなのだ。
「海、綺麗だねえ」
目が遠く海のほうを見ている。椿もそちらのほうを見やる。
彼女の言うとおり、海はこの上なく綺麗だった。一番奥の沖は深く濃い群青、手前に来るにつれて明るくなり、浅瀬では三角形の波が立っては崩れ、透明な水が海岸を潤している。雲から降りた天使の梯子は神々しく海面を照らしていた。
「をとめとて 空のあはれを 見ゆるかな あらはれわたる 雲の通ひ路」
「ちょっとディスられ感がある」
「そんなことあらへん、無邪気なひいさんへの愛やで」
何はともあれ向日葵に和歌を解する感性が芽生えたなら結構な話だ。
「せめて足だけでも浸かろ」
そう言って向日葵が防波堤の階段を降りていった。それくらいなら、と思い椿も後ろについていった。
波に足を取られた椿が海の中にひっくり返って全身ずぶ濡れになるのはこの十数分後の話である。
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