これからは
傍らで身じろぎする気配を感じ、千尋は目を覚ました。隣を見上げると、青年が一糸まとわぬ姿で上体を起こしている。路久だ。瞬きもせず遠く窓の外に目をやっている。強い瞳は、かつてあの静かな夜の世界で見せたものと似ていた。
明るくなった部屋で、彼の白い首筋から鎖骨の輪郭や胸板、腕や腹まではっきりと見える。引き締まった身体にはいくつか薄く傷痕や痣があり、彼の生きてきたこれまでの時間を控えめに教えてくれるようだった。
見ていると産毛を撫でられたように肌が粟立つ。腰の辺りがぞくり疼いた。昨日は部屋に入るなり抱き合って、彼の身体をこれほどしっかり見ることができなかったのだ。
――手を貸してください。
昨日千尋を見つけるや否や駆け寄ってきた路久。それだけでも意外だったのが、次にはこの手を取り額を押し当てたのだ。以前、千尋がそうしたように。それだけでわかった。それが何より彼の思いを現していた。
好きで好きで、大好きで、その気持ちは身体に収まりきらないほど大きくて、相手に少しでも触れなければ平静でいられないくらいだということ。本当はそれだけでも足りなくて、力いっぱい抱きしめたいと思っていること。
彼も自分と同じ気持ちなら、何を躊躇う必要があるだろう。
意外にも固くしっかりとした彼の手が自分の身体をもどかしく這い、優しく中心を擦り上げた感触を思い出す。どちらかと言えば内向的な彼が、あれほど感情や性欲を身体で豊かに示したことは今までになく、千尋は舞い上がってしまった。それにすっかり煽られて、千尋は彼の全てを食べ尽くしてしまった。彼を部屋に引っ張り込んで抱きしめたのも、口づけも、彼の口をこじ開けて舌を絡めたのも、パーカーの中に手を入れまくり上げたのも、彼を自分の身体へ導いたのも、先に手を出したのはすべて千尋だ。相手は恋すらしたことがない、成人したばかりの学生である。この年にもなって、手が早いという話ではない。
でも、と心の中で反論する。
路久の方も、経験がないわりに怯えることもなく、むしろ積極的に千尋を求めてきた。意外だった。時折千尋の方が翻弄されることもあったくらい。初めてだったからこそ、なのだろうか。自分の経験に照らしてもその辺りはよくわからない。初体験、というものは千尋にとって当時の相手と同様それほど心激しいものではなかった。
いいかな。許されるかな。
キスの合間に千尋の名を呼びながら腰を突き上げる彼の身体と声のすべてを思い返すと頬が熱くなる。下半身がしびれて力が入らなくなる。寝返りを打ち、深呼吸をしてその衝動を追い出した。
気配に気づいたか、路久がこちらを振り向く。
「おはようございます」
目を細めて微笑む。茶色の瞳が今は透き通るように明るい。昨夜は艶やかな黒色だった。
「おはよう」
挨拶を返すと、彼が屈み込んでくる。目を閉じて、優しい口づけを受け入れた。どうもキスは彼のお気に入りとなったらしい。両腕を彼の首に回し、二人でしばらく昨夜からの余韻を味わう。
「あっ」
思い出したように路久が身体を離す。
「千尋さん、その、昨日は……ごめんなさい」
「なに」
「あの……」言い淀む彼の顔が、火がついたように赤くなった。「……すみません。何か、気持ちのコントロールできなくて、おれ、えと、そういう経験もないし、千尋さん、その、えっと、大丈夫だったかなって」
恥ずかしそうに目を伏せ、一生懸命言葉を選んでいる姿は普段の彼そのものだった。昨夜との落差がおかしくて、微笑む。
彼の性格上、きっとそう言って謝ってくるだろうと予想していた。千尋は首を振り、路久を抱き寄せる。滑らかな肌の感触を確かめるように脇腹から背中を撫でると、ふ、と路久が吐息をもらした。
「謝るのはおれの方だよ。ごめんね。びっくりしたよね、いきなり。本当はそういうの、ちゃんと段階踏んでからって思ってたんだけど、うれしくてもう、脱いじゃったら止められなかったっていうか」
「いや、おれは……」
今度は路久が首を振る。さらさらとした彼の髪が頬をくすぐる。
「路久ちゃんも意外にノリノリだったし」とからかってやると、すみません、と彼の身体が脱力する。
「ごめんごめん。でも、おかげで俺今すっごく幸せ」
力いっぱい抱きしめると、路久も抱き返してくる。
「あの、おれも、幸せです。今までないくらい」
二人で笑い合い、またキスを交わす。
「身体、大丈夫ですか」
「うん。平気」
起き上がり千尋の身体を見下ろした路久は、真っ赤な顔のまま固まった。色々と思い出すことがあったらしい。主に千尋の左肩にある歯形が原因だろう。彼が何か言う前にと千尋は路久の頬に唇を寄せる。そのまま耳元で白状した。
「気にしないで。俺、こういうの好きだから」
「!」
口をぱくぱく開けて何も言えなくなった路久がかわいらしく思えて、千尋はくすくす笑った。頭を撫でてやる。
「今日はバイトだよね。何時から?」
「えと、八時からです」
「じゃあそろそろ起きないとね」
昨日は路久が帰ってきたら一緒に食事に行こうと思っていたので、冷蔵庫の中はあてにならない。できれば空腹の彼に少しでも何か食べさせてやりたかったのだけれど。
衣服を整える彼の姿を眺めていると、じわじわと身体中に喜びが満ちてくる。と同時に思い出す光景があった。
路久に散歩に連れて行ってもらった夜のこと。初めての経験でへとへとになった千尋の前で彼はゴーグルや手袋、ランヤードの装備を外していた。今と違い、少し固い表情で。二人での散歩はあれが最初で最後になってしまった。
――おれが思うに、たぶんこの力は、千尋さんを助けるために備わったものだったんです。
――この力はおれに千尋さんをくれたんだ。
彼がそう言ってくれたことがうれしかったけれど、思い返すと胸がちくりと痛んだ。あの力がどれほど路久にとって大切なものかはよく知っている。
――来年、就活だろ。色んな仕事が考えられる。サーカス団のパフォーマーとか、陸上の高飛び競技なら間違いなく世界一だ。さっき動画で見たトランポリン競技だってそうだし、街を駆けるパルクールのプロにもなれる。あとは高所作業とか、救急隊なら誰も届かない高層ビル上での救助とか。今思いつくだけでもこんなにある。誰も真似できないすごい能力を持ってんだ。それを生かした仕事もいいと思うよ。
裕也の言葉を思い出す。自分と引き換えに彼がそれを失ったというなら、この先、千尋は全力で路久を幸せにするのだ。
また、今は路久もそれで納得しているとしても、いつか後悔することがあるかもしれない。千尋のことを疎ましく思う日が来ないとも限らない。そのときは、何より彼の望みに従うことだ。お前なんかいらないと言われたら身を引くことだ。
それらの覚悟を今、決めよう。
誰よりも何よりも千尋が大切だと言ってくれた、命の恩人――まだ若く純粋なこの青年のために。
心の中で密かに決意を固める。それが彼の人生を狂わせた、とまではもう言わないけれど、その方向性を大きく変えてしまった千尋が示せる唯一の誠意だ。
「千尋さんは今夜、うちにいますか」
着替えをすっかり済ませた路久は気軽な口調で訊く。
「ううん、今日飲み会なんだ。本当はそんなの行かないで路久ちゃんとご飯食べたいんだけど」
今夜は単なる宴会ではなかった。友人が新しく開く店のプレオープンに招待されている。友人知人が集まるだけで、そうかしこまったイベントではないけれど、開店祝いは渡さなくてはならない。
「なら大丈夫です。気にしないでください。父の写真、見てもらいたいなって思っただけなんで。どうせおれ明日もバイトだし」
「あ、待ってそれ見たい! じゃあ終わってからでもいい? すぐ帰るから」
路久ははにかみながらくすっと笑い、頷いた。
夜八時、千尋は店へ出かけた。おしゃれな商業ビルの三階で、他にも居酒屋やダイニングカフェなどがいくつか入っており、二階には小さな美容クリニック、一階はアパレルショップのようだ。友人が今度オープンするのはバー。いくつかの祝いの花に囲まれたドアを入ると、黒を基調としたシックな内装の店内が広がった。
先に入っていた知り合いに声をかけ、カウンターの向こうにいる友人に祝いの言葉と共にプレゼントを渡す。集まっているのは主に千尋の大学時代のサークル仲間から広がった縁で、裕也や綾たちとはまったく関わりがない。世間的に性的指向が少数派の人たちだ。乾杯の後、適当な席についた。
「千尋、久しぶりね。新しい仕事はどう?」
「まあまあかな。人も悪くないし、とりあえず続けられそう」
「よかったじゃない」
「へー。じゃ、男の方はどうなんだよ」
「またすぐそういうこと訊くんだから」
「そういうそっちはどうなの」
「彼氏どころか出会いすらねえよ」
「あんた高望みしすぎなのよ。もっと身近なところに目を向けなさいって」
「なに、お前俺のこと好きなの」
「ばっかじゃない。だれがあんたなんか」
笑いが弾ける。気兼ねなく恋愛についても冗談が言える数少ない場だ。二時間ほどそうやって色々なテーブルを周り友人知人と話していたが、不意に電話がかかってきた。路久からだ。慌てて店を出るが、切れてしまった。
どうしたのだろう。千尋に予定があるときに彼が電話をかけてきたことはこれまで一度もない。少々不思議だった。
掛け直そうと携帯電話を操作していると、声がかかった。
「あの」
「はい」
振り向く。若い男が立っていた。千尋の後を追って店を出てきたらしい。軽く笑顔を見せた後、外廊下の手すりに肘をつく千尋の隣に並んだ。
「初めまして。あのマスターと知り合いなんすか」
「うん。大学時代の友達」
千尋は携帯電話を相手の目に見えるように持っているが、頓着していないらしい。
「……君は?」
質問を投げるとうれしそうな顔で回答が返ってくる。
「俺あいつから声かけられて来たんすよ」
彼が教えてくれた人物の名前には覚えがなかった。それから三言四言交わし、間に三人ほど入った知り合いだと判明した。
それでようやく千尋はおざなりだった視線を改める。恐らくまだ大学生といったところ、歳は路久とそう変わらないだろう。服装は大人っぽくそれなりに上質なものを身につけているし、整えられた髪型も、さりげないアクセサリーも悪くない。けれど完璧過ぎて隙がない。普段からなのか今日だけ特別なのかわからないけれど、千尋の目には彼が少々背伸びしているように見えた。今朝見た路久の、個性のないジーンズとパーカー姿が隣に浮かび上がる。
「でも来てよかった。こんなかわいい人に会えるなんて」
背伸びした服装とは裏腹に淀みなく出てくる彼の言葉がくすぐったい。思わず笑ってしまった。「えっ、なになに?」と相手は戸惑いを笑顔で覆いながら尋ねてくる。
「君いくつ?」笑いが収まらないうちに問う。
「二一っす」
「そうなんだ。俺の彼氏と一緒」
とっておきの笑顔でそう言ってやる。
一瞬相手が固まった隙に、携帯電話をひらりと目の前に掲げてみせる。
「ちょっと電話かかってて。ごめんね」
そのまま通話ボタンを押し、振り返らず歩き去る。エレベーターホールにたどり着いたところで振り返ると、彼の姿は店の中に消えていた。苦笑する。まさか路久と同い年の子に「かわいい」と言われるとは。
俺ってそんなに子供っぽいかなあ。路久ちゃんも初めて会ったときは二、三歳上くらいって思ってたみたいだし。
考えているうちに電話はつながった。
『あっ千尋さん、飲み会中にすみません』
声が明るく弾んでいる。ほとんど笑いをこらえるような調子だ。それで生まれつつあった不安は消えた。それでも疑問は残る。
「ううん。どうしたの」
『今どこにいますか』
「えっと」唐突な言葉に面食らう。簡単な現在地を伝えると、路久はわかりました、と短く答える。
『そこ、屋上は上がれますか』
「わかんない。でもたぶん難しいと思う」
でもどうして、と言いかけてはっとする。
『じゃあ二〇分後に最上階まで上がってもらえますか。おれ降りるんで』
「――路久ちゃん」
『はい』
もう彼の声が笑い混じりだ。
千尋は逸る気持ちを抑えて一旦店に戻り、入口近くのカウンターで時間を潰した。さっきのように話しかけられないよう、友人であるマスターを捕まえて相手をしてもらう。
きっかり一八分後、そっと店を出てエレベーターに飛び乗り、最上階の七階へ急ぐ。外廊下に人はいない。テナントは何の店かわからなかった。居酒屋か、ダイニングバーか、いずれにしてもまだオープン前らしい。看板にビニールがかかっているのだ。入口は重厚な扉で中の気配も物音も通さないので人がいないか確証は持てないけれど……。夜の街に目を凝らしながらさらに五分ほど待った。
そのとき。音もなく上から人影が下りてきて、外廊下の手すりに着地した。全身黒色の姿。ゴーグルを外すと、見慣れた彼の顔が現れる。
「路久ちゃん!」
「はい」
千尋は慌てて駆け寄った。降り立った彼に飛びつく。夜気にさらされしっとりとした身体。間違いなく、飛んできたのだ。
「どういうこと」
「何か、戻ってました。力が」
「うそ……」信じられない思いで、千尋は路久を見つめた。彼は無垢な目を輝かせ、子供のようにはしゃいで報告した。
「今朝起きたとき、何か不思議な心地がして。なんていうか……身体中の細胞がぷちぷち目覚めるみたいな。身体が軽くなったんです。変だなってバイト中ずっと思ってて。どうしても気になったんで家に帰って試しに飛んでみたら、」
頭のてっぺんを撫でてみせる。「天井に頭思いっきりぶつけちゃって」
目が熱くなった。みるみる涙が張り詰めて、視界がぼやける。
「ごめんなさい。昨日千尋さんを泣かせちゃったから、少しでも早く伝えたくて電話しちゃいました」路久は千尋の背中に手を回し、もう片方の手で頭を撫でながらささやいた。「でも、また泣かせちゃいましたね」
「そんなのどうでもいいよ。路久ちゃんの力が戻ったなら、俺、それだけで」
「本当に千尋さんは優しい。おれ以上におれの力のことを思ってくれる」
自分が路久にとってどういう存在かなど、千尋にはわからない。けれどこの力だけは路久の元になければならないことがわかっていた。どうしても千尋が路久に与えられないもの。何をアドバイスしても、年長ぶってなだめても代えられないもの。それが戻ってきた。
「めちゃくちゃうれしいです。これでまた、千尋さんと散歩に行ける」
そんな些細な願いが一番に彼の口から出てくるとは。そんなことはどうでもいいのに。もっともっと重要なこと――この先、彼は何にでもなれる。何でも望んだものに。裕也が示した将来は、幻にはならなかった。
「本当に、よかった」
涙に濡れた顔を路久の肩に押しつけた。彼は「ありがとうございます」と律儀に礼を言った。
「でも、どうしてだろ」
涙が収まったあと、当然の疑問に千尋は首を傾げた。
「おれも色々考えたんですけど、わからないです」
力が消えた原因もわからず、戻った理由もわからない。今日力が戻ったというなら、その原因は昨日にあったのか。昨日、あったこととは。
「もしかして、昨日のあれのせい?」
「……どうなんでしょう」
路久がぱっと顔を赤く染める。どうやら彼もそのことは考えたらしい。
「実家に行くまでは身体じゃなくて心の問題かもしれないってちょっと推測してた程度なんで、何とも」
「でももういい。戻ったんなら」
千尋はポケットから家の鍵を取り出して路久に差し出した。
「俺の部屋で待ってて。終わったらすぐ帰るから」
「あ、いえ。だったら終わる時間わかりますか。おれ、それまで散歩してくるんで」路久は受け取らず、身軽に手すりへ飛び乗る。今にも飛び出したいといった様子だ。
「えっと、あと一時間くらいかな。でも時間わかる? 路久ちゃん今ケータイも時計も持ってないでしょ」
「大丈夫です。ここから一時間で戻ってこれるルート、いくつかありますから」
久しぶりに見る彼の表情に、千尋は釘付けになった。野性的で強い光を秘めた瞳。少し得意気な笑み。確かな自信に裏打ちされた言葉は、違えることはない。普段控えめな彼の中に潜む、もう一つの姿。
路久だけが操れる力は以前千尋を救った。そして、これからは――
「じゃあ、待ってる」
そう応じて千尋は伸び上がり、手すりに腰掛ける彼に手を伸ばす。路久は千尋の身体を両手でしっかりと抱きとめ、そっと口づけた。
(終)
夜の庭のシープ 道半駒子 @comma05
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