夜の庭のシープ
道半駒子
散歩
今日もいつものように、二四時ちょうどに
ゴーグル、ジップアップブルゾンに指なしグローブ、ワークパンツ、靴下、スニーカーまで全身黒で統一するのは当然のことだ。この晴れた夜空をふと見上げたくなる人間は必ずいる。万が一自分の姿を見られても、見間違いかと思わせなければならない。確かに見えたと思っても、人間だとは気づかれないようにしなければならない。
だから飛ぶときは、できるだけ身体を丸める。
路久の跳躍力は、普通の人間のそれを大きく上回っている。
そもそも跳躍力が優れている、と言えるのかどうかもわからない。重力が働いていないかと思えるほど、彼は軽々と宙を飛び、普通の人間であれば足の骨が砕けるであろう高さからも難なく着地することができる。生まれつきの不思議な力。
「お前は空を泳ぐことができるんだなあ」
路久の父親はそんな風に表現した。五歳の頃、当時両親と三人で住んでいたアパートの二階から、路久は隣の民家の屋根に飛んだ。まるでふんわりと投げたボールの軌跡を辿るようだったという。それが彼の能力が初めて発現したときだった。母親は悲鳴を上げた後気を失って倒れ、父親は彼をこっぴどく叱った。それからだ。普通の人と同じように、飛ぶ力を抑える訓練を始めたのは。
二一歳となった今では、意識していれば日常生活にはまったく問題はない。それでも、身体は飛びたいと疼くのだ。だから毎夜、こうして夜の街を徘徊……ないし泳ぐ、飛ぶ。このときの開放感は、他の何にも代えがたい。彼にとって最高に心地良いものだった。
姿を見られないように散歩には複数のルートを使い分けている。たいていはネオンの裏側や早い時間に明かりが消えるオフィスビルの周辺を選んで作ったルートだ。大学進学を機に一人暮らしを始めてすぐ、この街の夜の様子を丹念に見て回ったものだった。
ふと、彼の目が見慣れないものをとらえた。
進路より少し逸れた場所、ビルの非常階段に、人影が見えたのだ。逆光のため輪郭しかわからないけれど、そもそも飲食店のテラスやビアガーデンならともかく、深夜、この辺りのビルの非常階段に人影が見えるのは珍しい。
まさか。
嫌な予感がした。以前似たような人影を見たことがあった。手すりを握りしめ、取り憑かれたように数十メートル下を見つめ続ける姿。
あっと思った次の瞬間には、人影は手すりからずり落ちるようにして、宙に身を躍らせた。
――まずい。
路久は手近な建物の壁を力いっぱい蹴って真下へ飛んだ。落下する人影を捕まえようと手を伸ばす。眼下は夜の繁華街だ。街灯や並び立つショッピングビルの照明、車のライト、路面店の明かりやイルミネーションの渦。まるであふれる光の中に飛び込んでいくような錯覚に囚われる。その光を受けて黒く浮かび上がる人影は男性のようだった。路久は心の中で舌打ちした。
助けられるか。
以前はタワーマンションの最上階で、地面に落ちるまである程度時間の猶予があったし、相手は女性で体重も軽かった。だからなんとか落ちる途中で捕まえ、失神してしまった彼女を元のベランダに寝かせることができた。
けれど今回は五階建ての雑居ビル、しかも相手は男だ。時間がない上体重も路久と同じくらいあるはずだ。さらに下には大勢の人が行き来している。無事受け止められたとしても、通行人を下敷きにしてしまったら目も当てられない。
空気が頬を押しのける。数十分の一秒の間に思考を走らせる。断片的なイメージの明滅だ。男は丈の長いカーディガンを着ている。あれを掴んで引き寄せ、街灯向かってやや左手、老舗宝石店のエントランスの屋根を踏み台にして飛ぶ。一旦傍の街灯を足場にし、その後向かいの建物の壁をとらえることができれば、二回の跳躍で屋上まで上がることができるだろう。その後のことは、成功してから考える。
――間に合え!
指先が空気以外のものに触れたと感じた瞬間に、思いきり力を込めて掴み引き寄せる。抱えた身体はやはり重い。バランスを崩さないよう、慎重に着地しなければならない。唇を舐める。
数十秒後、イメージ通りの進路を辿り、路久は無事屋上にたどり着くことができた。地上からあふれる光がどこかから反射してきているのだろう、辺りは微かに明るい。男の身体を下ろすと、汗がどっとふきだしてきた。思わずゴーグルを外してへたり込む。流石に身体が重い。心臓がうるさく暴れて、指先の血管までがどくどくと脈拍を伝えてくる。危なかった。心から息をつく。
助けた男は路久の傍で、苦しげに口を押さえている。
「大丈夫、ですか」
息が整わないまま声をかける。相手はのろのろと上半身を起こした。男を見て路久ははっとした。その顔に見覚えがあったのだ。大学ではない。アルバイト先でもない。よく行くコンビニの店員でもない。どこだ、どこかで……。
思考は途中で中断された。男が胃の中のものを吐き出してしまったからだ。――路久の膝の上に。
****
重たいまぶたをようやく開き、
外の明るさがカーテン越しに届いていて、部屋は明るい。千尋は視界に映る光景を見てはっとした。
うちじゃない。
シンプルなライトグレーの寝具と同色のカーテン。簡素なテーブルに一つだけのクッション、テレビがあるだけで、さっぱりしているというよりほとんど物が置かれていない部屋。テーブルには黒い衣服が脱ぎ捨てられており、その上にこれまた黒い、バイク用だろう頑丈そうなゴーグルが置かれている。そして僅かに空いた床の隙間を埋めるように一人の男がコートを羽織って転がっていた。
俺、飲んで潰れて、この人が助けてくれたんだ。
単純な結論だ。時計を探す。シンプルな壁時計は、八時を指していた。痛みが治まらない頭を押さえつつ、身体を起こす。身につけているのは紺色のカットソーだ。千尋のものではない。……どうやら、やってしまったようだ。
衣擦れの音がして、転がっていた男が起き上がった。
何事か唸りながら頭をがりがりと掻き、のっそりと立ち上がる。千尋が恐る恐る声をかけようとしたけれど、男は千尋に背中を見せたまま歩き出し、短く狭い廊下を曲がって消えた。静かな部屋に勢い良く水音が響き、のろのろと足でドアを閉め、戻ってくる。
年齢は十代後半か二十代前半か。千尋より少し年下のように見えた。黒いカットソーに灰色のスウェットパンツ。さらりとした黒髪はやや褐色がかっていて、薄い眉や小さな鼻と口は、白い肌と相まってどこか内向的な印象を受ける。眠そうな茶色の目が、千尋をとらえると大きく開かれた。
「あ、大丈夫ですか」
ややかすれた、見た目に似合わぬ低い声で問うてくる。「あ、はい」と千尋は大きくうなずいた後で、頭が割れんばかりの痛みに襲われた。
「うぐっ……」
思わず両手で頭を抱える。男はベッドの傍に膝をついて、そっと千尋の顔をのぞき込むようにした。
「……すいません、薬とか持ってなくて」
「ううん。いいんです。ただの二日酔いだから」
痛みの波が落ち着いたところで、千尋は男に向き直った。
「あの、色々とご迷惑おかけしてすみませんでした。俺、たぶんどっかで酔い潰れてたんでしょう? どうも加減がわかんなくて……」
「いえ、えと」
彼は恐縮したのか、茶色の目が揺れる。
「しかも俺、」片手で口を覆い、吐き出すような動作をしてみせる。すると居心地悪そうに彼は視線を落とす。千尋は確信した。「本当にすみません。クリーニング代、払いますから」
「えと、大丈夫です。あなたの服と、おれのも、一応洗ってみました。匂いとか、たぶん大丈夫と思うんで」
彼がそう返答したのは、戸惑ったように十数秒様々なところへ視線をさまよわせた後のことだった。千尋のようには、見知らぬ他人と話すことに慣れていないのかもしれない。そう考え、名乗ってすらいないことに思い至った。
「あ、すいません。俺、斎川千尋といいます。めちゃくちゃご迷惑かけて、本当にごめんなさい」
千尋が頭を下げて謝ると、男は困ったように眉を下げた。
「いえ、それより、無事で良かったです」
その言葉に微かな違和感を覚えたが、
「おれは、片石路久です」
彼が先ほどよりは穏やかな表情になったので、千尋は途端に安堵した。ろく。簡素な響きで、犬猫につける名前のようだなと思った。
「服、ベランダに干してるんですけど、ジーンズがまだ乾いてないみたいで」
「……ほんっとに、すいません」
恥ずかしさと情けなさと申し訳なさがこみ上げ、今すぐ布団の中に潜り込みたくなる。尤も、それは目の前の彼の所有物なのだけれど。
恥を忍んで、今日の日付を確認させてもらった。家の鍵や財布は無事だったけれど、携帯電話はバッテリーが切れていたからだ。飲んだ翌日であったことが千尋を心から安心させた。
片石路久という青年は、こちらが恐縮するほど優しく丁寧な言葉で千尋の身体の具合を聞き、温めた牛乳を振る舞ってくれた。たっぷりと満たされた熱いマグカップと水が入ったグラスをベッドサイドへ置く。千尋がそれを口にするまで、一挙手一投足を心配そうに見守っているのが、かえって気恥ずかしくなるほどだ。
彼が部屋の窓を開けた。そよ風とともに春の陽気が部屋の中に入り込んでくるようだった。遠く自動車の走行音が聞こえ、歩行者信号が青になったときののどかな電子音、子供たちがはしゃぐ声、鳥の鳴き声が風に巻き上げられて耳に届いてくる。ホットミルクに口を付けながら、窓越しに青い空を眺める。思わずほうと息をついていた。それは、天気のいい休日の始まりだった。
千尋がホットミルクを飲み終えると、路久は思い切ったようにまっすぐ千尋を見た。
「……あの」
「はい」
千尋も飲み終わったマグカップをベッドサイドにおいて向き直る。
路久は片手の人差し指を伸ばし、床を指し示してみせた。
「ここ、サンハイム南川なんです」
「へ?」
「サンハイム南川。わかりませんか」
質問の内容が要領を得ない。千尋は頭に浮かんだことを口にした。
「えっと……アパートの名前ですね。その、俺が、住んでる」
なぜそれを彼が知っているのか、怪訝な思いに囚われる。大人しそうに見えて、千尋のストーカーだったとかいうオチなのか。
「それが、ここなんです」
調子の変わらない彼の口調。首を傾げた後、すぐに理解が広がった。
「……え、サンハイム南川?」
「はい」
「ここが?」
「そうです」
「君もここに住んでんの」
敬語も忘れて千尋が問うと、それこそが重要だ、というように彼がうなずく。
ついさっき、窓の外の風景や生活音に居心地の良さを感じた理由がようやくわかった。彼は、千尋と同じアパートに住んでいたのだ。部屋の中を見渡せば、確かに間取りも同じだ。千尋の部屋ときれいに左右対称。家具の配置や色合いが違えば、こうも印象が変わるものなのだ。
それから彼は昨日の夜のことを改めて説明し始めた。酔い潰れていたところを助け起こすと、同じアパートの住人ではないかと思い至った。しかもその上服も汚れてしまったため、自分の部屋に連れて帰ったのだと。部屋番号を聞けば、千尋の隣の部屋だった。
「そうなんだ。俺、全然知らなかった」
アパートの生活の中ではもちろん、エレベーターホールや廊下などで他の住人と顔を合わせる機会はあった。会釈くらいしたかもしれないけれど、相手の顔などろくに見てもいなかった。
「おれ、三年前にここに越してきて、一応そのときご挨拶にうかがったんですけど」
「そうなの?」
三年前。頼りない頭を回転させて記憶を辿る。確かにそんな訪問者はいたかもしれない。けれど顔や声などまったく覚えていなかった。すれ違ったことがあったかも記憶にない。果たして相手の物覚えがいいのか、千尋が忘れっぽいだけなのか。いずれにしても。
「ごめん。全然覚えてない。けどすごい偶然だね」
「おれもびっくりしました。間違ってなくて、よかったです」
安心したように茶色の目を和ませる。多少の親しみを感じさせるその色が、千尋の笑みを誘った。
それにしても片石路久という男は優しいのだな、と千尋は思った。酔って潰れていたからと言って、そしてその人間が同じアパートに住んでいるとわかったところで、自分の部屋で介抱してやろうと思う人間は少ないだろう。
「何から何まで……本当にありがとう。この服も、洗って返すから」
「はい。ドアの前にでも置いといてください」
初めて彼が笑顔らしい表情を見せる。それはとても控えめなものだった。まるで小さな子供がドアの隙間から顔をのぞかせて見せるような。二人で少しだけ笑い合う。就職を機にこのアパートへ引っ越して五年。千尋は初めて隣人に出会い、話をしたのだった。
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