洗濯物
劇的な出会いがあった日の翌日。日付が変わるころ、千尋は洗濯物を取り込もうとベランダへ出た。冷えた風が吹きつけてくるけれど、少し肌寒い程度で、かえって心地良い。ずいぶん過ごしやすい季節になったと、穏やかな気持ちになる。
けれど引いた波がまた寄せてくるように、胸に小さな痛みが走った。ベランダから見える様々な建物やネオンの明かりから目を閉じ、瞼に浮かぶ残像を追う。酔いつぶれた翌日とはいえ、久しぶりに自分の心が落ち着きを取り戻していることにほっとした。どうしても頭に浮かぶ様々なこと……それらを追い払う気力すら起こらなかったのだから。
隣人である路久という青年から借りた服は、部屋に帰ってすぐ洗濯機にかけた。それだけ申し訳ない気持ちに駆られていたし、週明けからは雨が続きそうだと天気予報が出ていたからだ。本当は夕方取り込むつもりが、眠りこけていたせいで遅くなってしまった。
手早く服をかき集めながら、ふと、隣の部屋の方へ目を向ける。ベランダの仕切り戸の隙間から明かりは見えない。彼は大学生だと言っていたけれど、夜更かしはしないタイプなのだろうか。それとも深夜にアルバイトをしているとか。
はにかむように控えめに笑った、彼の表情を思い出す。小さなつぼみが花開くようで、千尋は自然と彼に好感を覚えていた。
お礼に、ご飯でもご馳走しよう。
これまでの近所付き合いは皆無であり、それを思えば、服を返すときに謝礼でも同封するくらいがちょうどいいのかもしれない。けれど、できるなら彼と少し話してみたいな、と思う千尋だった。人恋しさでそう思うのかもしれない。それでもいい。あっさり断られるかもしれないけれど。
そう思って少し楽しい気分になった、そのとき。
窓が開く音がして、隣の仕切り戸の向こうから人影がはみ出した。全身黒尽くめの服にゴーグルをかけた姿。ベランダの手すりから大きく身を乗り出し、ほとんど落っこちそうな体勢で熱心に景色を眺めている。目を凝らして何かを探しているようにも見えた。
路久、なのだろうか。
黒い服のせいか、彼はほとんど夜に染まっているようだった。昨日顔を合わせたときに感じた穏やかで慎ましい雰囲気はなく、どこか野生動物のような独特の気配をまとっている。それが千尋には少し異質なものに思え、辺りを見回していた彼の目が千尋を捉えたとき、どきりとした。疾しいことは何もないのに、反射的に見つかってしまった、と感じた。
「……あ」
ゴーグルを上げて、その人物が声を上げる。やはり、片石路久だった。千尋は、知らずごくりと唾を飲み込んでいた。すぐには声が出なかった。
「……こ、こんばんは」
千尋の声を耳にして、彼はあたふたと目礼した。それだけで、独特の気配は消える。千尋も何となく安堵した。抱えていた山を示してみせる。
「洗濯物、取り込むの忘れちゃってて。あ、ほんとに昨日はありがとね。俺、あれからずっと寝てばっかりでさ。そうそう、路久くんの服も洗ったから、明日にでも返せると思う。それでさ、今ちょうど考えてたんだけど、お礼に――」
そのとき。一際強い風が吹きつけてきて、千尋の抱えた山から一枚のシャツを舞い上げた。あっ、と伸ばした手は空を切り、さらにシャツは風にあおられて遠ざかる。
――飛ばされた。
次の瞬間、黒い影が隣のベランダから飛び出した。
路久だ。
「え? ちょ、……うわあああああーッ」
千尋は仰天して洗濯物の山を取り落とした。手すりに取りすがる。背筋が凍った。隣人である青年は、洗濯物を追ってベランダを飛び出したのだ。ここはアパートの六階。飛び降りて無事で済む高さではない。人影はみるみるうちに隣家の屋根に落ちようとしていた。
「誰か! 誰かッ! ああっ!」
ベランダから手を伸ばしたところで到底届くはずもない。千尋は意味のない叫びを放ち、結局なす術もなく両手で顔を覆った。
――なんてことを!
……しかし、衝撃音は聞こえなかった。
恐る恐る手を下ろす。見れば隣家の屋根には、何もなかった。
驚くべきことに、飛び出した人影は軽やかに宙を飛んでいた。まるでトランポリンを使って跳躍するように、ビルの外階段の壁や大きな看板、駐車場に設置された照明を足場に右へ左へと自在に飛んでいる。それは簡単に夜空に紛れ、再び街の明かりに照らされて姿を現す。三度目の跳躍で、風に煽られるシャツを捕まえると、再び跳躍を繰り返してこちらへ戻ってくる。サーカス団のアクロバットパフォーマーのようだった。全身を伸ばして数メートルを軽々と飛び上がり、最高到達点で身体を丸め、ふわりと降下してゆく。戯れのように、時には身体を丸めるついでに一回転さえやってのけた。
何が起きてるんだ……。
路久がベランダの手すりへ戻ってきたとき、千尋は洗濯物が散らばる中にへたり込んでいた。またしても突風がタオルを一枚さらっていこうとするのを、路久は手を伸ばして捕まえる。
「君は……何者?」
問う声は震えた。青年はゴーグルを外し、曖昧な表情で目を伏せた。
千尋はあまりの驚愕に、全身にびっしょりと冷や汗をかいていた。洗濯物を拾い上げて路久を部屋に導いた今も、どかどかと騒がしい鼓動は落ち着きもしない。
「あの、あ……おどろかせて、しまって、その、ごめんなさい」
窓際に立ったまま、路久は絞り出すような声で言った。黒いスニーカーに黒い靴下。黒いパンツ。うつむいていて表情は見えないけれど、青ざめているのはわかる。
「いや、謝ることじゃ……」
そう答えるものの、あまりの衝撃に言葉が続かない。
けれど……のぞき込むと、彼の瞳は怯えていた。まるで命にかかわる危険を目の前にしたかのように。千尋以上に動揺し、肩を小さく震わせている。彼が自分の行動を心から後悔していることがありありとわかった。それで、かえって千尋の方が先に動揺から抜け出した。
「あの、シャツ、ありがとう。ごめんね、俺、ぼけっとしてて」
落ち着かせようと笑いかけてみたけれど、顔がこわばって上手くいかなかった。彼は口を開いたけれど言葉は出ず、激しく首を左右に振った。
「路久くんは……その、えと、すごいことができるんだね。なんか、映画みたい。ほら、あの、あれ」
世界的に大ヒットしたアメリカンコミックヒーローの名を口にする。心臓は、まだ早い鼓動を打っていた。
路久は唐突に出てきた固有名詞に虚を突かれたらしく、怪訝な顔を浮かべた。
「知らない?」
「……観たこと、あります」
吐息のような小さな声。千尋は一度大きく深呼吸をして、窓際に佇む彼に近づきもう一度彼の顔をのぞき込んだ。
「俺、今めちゃくちゃびっくりしてんだけど、君も同じくらいびっくりしてるみたい。お互い、ちょっと落ち着こうか」
努力して笑いかけると、潤んだ彼の目が二、三度まばたきをした。大きく息をつき、強張っていた肩が少しゆるむ。腕に触れて促したけれど、彼は部屋に入ることはせず、そのまま窓際に座り込んだ。
「……驚かせるつもりは、なかったんです。つい、身体が勝手に」
路久がそっとそう言ったのは、座り込んでしばらくしてからのことだった。その頃には千尋の心臓も多少落ち着きを取り戻していた。
「おれ、生まれつき変な力があって。さっき斎川さんが言った映画みたいな。……飛べるんです。飛べる……っていうか、その、なんて言っていいかわかんないけど」
困ったように彼は眉根を寄せた。
「見たからわかるよ。トランポリンみたいだったね」
「はい。なんでそんなことができるかもわからないんですけど」
「へえー……」
改めて彼の姿を見直さずにはいられない。全身黒色の姿。ベランダに投げ出された足元から辿って視線が合うと、彼は言い訳をするように慌てて言った。
「だからさっきも、ちょっと……散歩に行こうとしてて。斎川さんの部屋をのぞこうとしたわけじゃないんです。誰かに見られたらいけないから、周りに人がいないかいつも確かめてて」
「散歩」
「はい」
「今みたいに飛んで行くの」
彼がうなずく。
千尋の脳裏に、夜の街を自在に飛び回る青年の姿が浮かんだ。彼が目にする、星と夜景に囲まれた美しい景色も。これまでの会話の内容も忘れ、思ったことがつい口をついて出てきた。
「それは、素敵だね」
路久は目を丸くした。けれど次には薄い眉を下げた。
「……すごく気持ちいいんです。景色も、風も。身体を思いっきり動かせるのも」
「いつもは抑えてるの」
「はい。なんとか意識すれば」
「そっか」
二人とも口を閉ざせば、部屋の中には簡単に沈黙が下りた。付けっぱなしの換気扇の音だけが絶えず微かに聞こえてくる。路久は千尋と会話することでかろうじて平静を保っているだけで、口をつぐむと途端に大きな恐怖に駆られてしまうらしかった。部屋の明かりを恐れるようにうつむき、両手で自分を抱きしめる。千尋には推し量ることしかできないけれど、きっとこの驚くべき能力は彼の深い深い秘密だったのだろう。
千尋は傍に座ったまま、真っ直ぐ路久に向き直った。
「路久くんの力のことは、誰にも言わないよ。安心して」
路久はすぐには答えず千尋を見つめた。その茶色の瞳がまたみるみる潤む。ごくりと唾を飲み下して、彼は遠慮がちに声を出した。
「……ありがとうございます。驚かせて、本当にすみません」
「謝んなくていいって」
借りていた路久の服は、洗濯物の山の中でも上の方にあって無事だった。それを畳んで渡す。
「昨日のお礼なんだけどさ、俺にご馳走させてくれないかな」
路久は受け取りながらきょとんとした。
「昨日……?」
「昨日だよ。俺のこと、助けてくれたでしょ」
そう言う千尋自身も、たった今見た路久の力への驚きが大き過ぎて、昨日のことが遠い記憶になりそうではあった。
「あ、いや」
手を振って遠慮しようとする彼の言葉に、わざとかぶせるように千尋は言った。
「食べものは何が好き? 焼肉? ステーキ? 中華? それとも、あっ、もう二十歳超えてるんだっけ? それならお酒もいけるよね。お酒が好きなら美味しいとこもあるし、串焼きでもいいとこあるよ。俺は嫌いなものないから、お礼だし、路久くんの好きなものご馳走したいんだけど、どう?」
前のめりになって提案する千尋に圧倒されたらしく、路久はのけぞって目をぱちくりさせた。えっと、と言ったきり、言葉が続かない。
「あ、もしそういうの苦手だったら無理しないでいいから」
「……わ、悪いです、そんな」
「いやいや悪かったのはこっちだって。それとも迷惑?」
「いや、そんなことは」
しばらく千尋を見たり、返された服を見たり、足元に視線を落としたりしていた彼だったけれど、ようやく、おそるおそる千尋を見上げて答えた。
「……あの、何でも大丈夫です。おれ、嫌いなもの、ないんで」
「ええ? 好きなものは?」
「斎川さんが今言ったやつ、全部好きです」
はにかむように笑って路久は言った。――笑顔だ。彼の笑顔。それを見るだけでなんだか得した気分になるなあ、と千尋はうれしくなった。
「わかった。じゃあ俺のおすすめのお店にするね」
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