金曜日

 千尋にご馳走してもらう日は、洗濯物の一件から二週間後のことと決まった。すると路久は心の一部に常に緊張を抱えることとなる。別に珍しいことではない。数少ない知り合いと呼べる人間から、遊びや飲み会に誘われたりする度に生まれるものと同じだ。社交性に乏しいことを自覚している路久にとって、それらは試練なのだ。別に誘われることが嫌だというわけではない。ただ、普段そういったことに縁遠い生活を送っているため、苦手なのだった。


 これまで路久は、他人と深い関わりを持ったことがなかった。物心ついたときから彼は一人だった。学校や近所でいじめられたり仲間外れにあったりしたことこそなかったものの、特別路久と仲良くしようという子もいない。路久自身が積極的に他人へ働きかけるような性格ではなかったことも一因だった。

 どんなコミュニティの中にあっても、一人ぽつんと席に座る彼を気遣ってくれる人間は必ずいて、輪の中に誘ってくれる。けれど、それだけだ。輪の中で楽しく過ごして解散となった後、路久は再び一人だった。おそらく少しでも環境が悪ければ、何か悪意の標的になったに違いなかった。そういう意味でいえば、彼は環境に恵まれていた。まず父や母から敬遠されてもおかしくなかったのだから。

 斎川千尋という男の存在は、路久はどこかにいるかもしれない神様に心から感謝したい思いだった。まさか目の前で路久の飛ぶ姿を見て、その能力をあんな風に穏やかに受け入れてくれる人間がいるなんて思いもしなかった。奇跡としか言いようがない。本当に、あれは咄嗟の行動だったのだ。

 風にあおられた洗濯物。考える前に身体が動いてしまった。千尋の叫び声を背中で聞きながら、幼い頃のおぼろげな記憶がよみがえった。

 ――ああ、母さんも同じように叫んで、気を失ったっけ。

 実家の窓から見た景色が脳裏に広がる。当時はまだ狭いアパート暮らしだった。母の手伝いと称してシーツをかぶって遊んでいた当時五歳の路久は、風にさらわれた父親のワイシャツを追いかけてベランダから飛び出したのだ。今はあの頃の十分の一の時間で目的を果たすことができる。

 ――君は……何者?

 震える声。その問いの答えは、路久自身も持っていない。



 待ち合わせ場所は、二人の自宅アパートの最寄り駅。時刻は八時半。千尋と路久はそのまま歩いて五分ほどの居酒屋に向かった。日は少し空いたけれど、二人はそれまでに顔を会わせる機会がまったくないわけではなかった。三日前、アルバイト帰りにエレベーターホールで挨拶を交わしたばかりである。

「お腹空いてる?」

空いてます、と路久が答えるとうれしそうに千尋は笑った。

 柔らかな髪を活かしたすっきりとしたスタイルの黒髪に、豊かに輝く大きな目。斎川千尋という男の中には、大人らしい爽やかさと、子供っぽい温かさが自然に同居していて、表情一つでそれが入れ替わるのが印象的だった。紳士服のコマーシャルにそのまま出演できそうな容姿だ。おそらく女性が見ればまず好印象を抱くだろう。ネクタイを緩め、スーツの上着を脱いで小脇に抱えた彼は、三日前に見たときよりもくつろいで見える。知り合って間もない路久でも、こちらの方が彼らしいという気がした。

「何でも好きって言われたらかえって迷っちゃって。結局串焼きにしたよ。ここの軟骨入りつくねがすっごく美味くって、俺大好きなんだ。たれなんだけど、うずらの卵黄につけて食べるの。絶対食べてみて。あとねぎまと砂肝と、あーししゃももいいんだよねえ。路久くん何食べたい?」

 メニューを広げながらあれこれと尽きることなく料理の話をする。路久がいいですね、とかそれ好きです、とか言ううちに注文が決まっていた。

 店内は座敷の席が六つとカウンター席が十ほどあり、太い梁と柱が通った古民家風の内装となっていた。厨房の音と客の話し声が騒がしい。什器はどれも年季が入ったものばかりで、間接照明が艶やかな床を照らしていた。千尋はわざわざ予約を入れたらしく、一つだけ空いた座敷のテーブルに二人は通されたのだった。

「じゃあ、乾杯しようか」

「あ、はい」

 ビールジョッキをかち合わせる。千尋は一息に半分ほど飲み、ぷはぁ、と満足そうな息を吐き出した。疲れた身体に冷たいビールは最高だ。路久も清掃仕事で身体を動かしたばかりだったから、乾いた喉に心地良かった。

 しかし、当然、路久は緊張していた。

 家族以外の誰かと二人きり。しかも向かい合って食事をするなんて、これまで数えるほどしかない。その上同級生でもない、ただ部屋が隣だというだけの接点しかない社会人相手に、今日はご馳走になると決まっている。注文の際も、値段が高そうな刺し盛りだけは遠慮したのだけれど、よくよく考えれば、遠慮し過ぎるのも社会人である彼の面子を潰してしまうことになる気がして、最初からまともな受け答えができずにいた。向かい合う千尋が、今のところ笑顔を絶やしていないことだけが救いだ。

 最初の串が運ばれた頃には、二人ともジョッキが空になった。すぐに千尋は追加を注文する。

「あ、すいません」

「遠慮しないでね。お礼なんだから」

 千尋は、過去に路久を気遣ってくれた何人かの同級生らと似た雰囲気を持っていた。周りの人間には等しく親切にする優しい人柄なのだろう。話をするのが好きらしく、路久は彼と自然に会話ができていることに内心驚いていた。

「路久くん、今日バイト帰りって言ってたよね」

 千尋はこんにゃくの煮付けをつまみながら話す。

「はい」

「掛け持ちしてるって、土日は何のバイト?」

「土日は引っ越し業者です」

「今日はビル?」

「はい」

「大学の近く?」

「そうですね」路久は通っている大学とその最寄り駅の名を口にした。「そこから歩いてすぐのオフィスビルです」

途端に千尋はぱっと表情を輝かせた。

「え、本当? そこの大学なの?」

「はい」

「俺と一緒!」

千尋が自分を指差す。

「そうなんですか」

「そう! わあ、後輩なんだ」

彼の明るい声に、何だかうれしくなる。それまでの話題は二人の頭から吹き飛んでしまった。

「学部どこ? サークルとか入ってる?」

「あ、法学部です。サークルとかは特には」

「俺はね、経済学部だったの」

「えっと、卒業されたのは……」

「路久くん四月で三年なんでしょ。残念だけど、俺かぶってないんだよ」

千尋が得意気に言う。卒業した年を聞いてちょっと驚いた。路久より六歳も年上だ。

「今年二七」

見えない、と口から言葉が出そうになって、慌てて押さえる。てっきり二、三歳上くらいに思っていた。千尋はおかしそうに笑う。

「見えないでしょ」

「あ、いえ、あの」見事に当てられて路久は口ごもった。

しかし千尋は気分を悪くした様子もなく、困ったように首を捻って見せた。

「よく言われるんだよねえ。何だろ? 顔? ま、しゃべりが幼いって言われたことあるけど。でも、お客さんによっては話がわかりやすいって好印象だったりするんだよね。早口だとさ、電話とか特に聞き取りにくいから」

それは二つのアルバイトを掛け持ちする路久にもよくわかることだったので、何度も頷いた。引っ越しのアルバイト現場では、班長である社員がお客様相手に色々と説明する場面がある。けれどほとんどの社員は終始まくしたてるような口調なので、お客様が眉間にしわを寄せることも多いのだ。神経質そうな人だと「もう一回最初から説明してください」とぶっきらぼうに要求されることもある。路久自身も、気取らないゆったりとした千尋の話し方が好ましいと思う。

「わかってくれる? ふふ、うれしいな」

 そう言った後、千尋は笑顔のままふと目を伏せた。それはどこか日が陰ったような印象で、路久は容易に次の言葉が出てこなかった。

「俺今、求職中でさ」

「え」

「新卒で入った会社だったんだけど、色々あって辞めちゃって。今日は面接だったんだよ」

「そうなんですか」

千尋が目を上げにっこりと笑ってうなずく。

「はーい、ねぎまとハツと砂肝、お待たせしましたー。ビールすぐ持ってきますね」

 そこへ女性店員の高い声が割って入った。香ばしい匂いとともに、料理の皿が並べられる。と同時に、後ろの席でどっと大きな笑い声が起き、路久の後頭部へ勢いよくぶつかってはじけた。思わず、口をつぐむ。

 千尋が串に手を伸ばしたのにならって、路久も手を伸ばす。咀嚼する間、会話は途切れた。どれも香ばしく、噛みしめると口の中に脂や旨味が広がる。久しぶりに食べた焼き鳥だけれど、文句なしに美味い。

「おいしい?」

「あ、はい」

「よかった」

 それから話題は大学関連の話に戻る。千尋は矢継ぎ早に質問を続けた。法学部ならあの子知ってる? とか、あの先生は? とか、あのサークルまだある? とか、学祭でミスコンまだやってんの? とか、食堂のあのメニュー最高だよね、とか。

 明るい期待をまとった声と顔が目の前にあって、路久はたじろいだ。どれもこれも、何も……路久が知らないことばかりだったから。

「えと……」

 大学では知り合いと呼べる程度の関係の人物が、たった二人いるだけ。それ以外は二年間クラス単位で基礎科目を受けた同学年の者くらいしか覚えていない。講師の名前も広くは知らないし、サークルや部活動はといえば部室棟にすら入ったことがない。大学祭の日は毎年アルバイト。食堂は毎日行くけれど、食べるメニューはいつも同じ。他に何があるかなんてほとんど覚えていない。

 自分の生きている世界の狭さが目の前で浮き彫りになる。話を振ってくれている千尋にとても申し訳なかった。同じ大学に通っているくせに、どうしてこんなに違う。

「あの……すみません。ちょっと、わからない、です」

 いたたまれなくて、目を伏せた。こういうとき、もう少し自分が器用だったら、適当に頷いて話を合わせたり、逆に千尋に聞き返して場を盛り上げたりできたのだろうか、と思う。けれど、そんなことは逆立ちしてもできそうにないこともわかっている。そしてそんな自分が、楽しい雰囲気をつまらないものに変えてしまうのだ。空しい気分が胸に広がった。

「ビールお待たせしましたー」

 二つのジョッキがどん、と辺りの空気を散らすように置かれた。さらに後ろの席の笑い声はまた大きく弾け、終いには拍手まで上がるほどになっていた。その音に気圧されて、路久は身をすくめる。周りが騒がしいほど、目の前のテーブルの沈黙がより際立つようだった。

「そっかぁ」

千尋の声がほんの少し柔らかく響いた気がした。「五年も前の話だもんねえ。もう色々変わってるかも」

 ――気を使わせてしまった!

 思わず千尋を見やると、彼はビールを一口飲み、路久へ苦笑を送ってきた。片手を口元に持ってきて、内緒話をするような声を出す。

「ごめんね。たぶん今日は特別なんだ。いつもはもうちょい静かだよ」

 路久と目が合うのを待って、彼はまたにっこりと笑った。

 上手く返事ができない。そのとき瞬間的に、脈絡もないことを路久は思った。

 ――彼の誕生日はいつなのだろう、と。

 きっと春生まれではないか。この笑顔。薄桃色、新緑の色。どうしてこんな自分に温かく接してくれるのだろう。不思議な気分に包まれる。

 路久の思いなど知る由もない千尋は、また気軽に話題を変えた。

「路久くん、ペース落ちないよね。結構お酒いける方?」

「どう、でしょう」飲み会には数えるほどしか行ったことがないのでよくわからない。「気分悪くなったり二日酔いになったりしたことはまだ」

そう答えると千尋はぱっと顔を伏せた。低い声を出す。

「その節は、本当にすみませんでした」

「え、あっ、いえ! そんなつもりじゃ」

「でもさ、俺もね、弱いわけじゃないんだよ。大学の頃なんか今よりずっと飲めたし、最後まで元気だったし。けど、最近日によって限界が違うからわかんないんだよね。友達はもういい大人だろって言うけど、なんて言うか、いい大人になっちゃったからこそよりわかんなくなったわけ」

 千尋は不満げに唇を尖らせる。路久は答えられず、唾を飲み込んだ。まさにそのことで、気になっていることがあったのだ。

 千尋を助けた日のこと。

 あの日、路久は酔い潰れていた千尋を助けた、というより、ビルから飛び降りた千尋を助けたのだ。彼が酔っていることに気づいたのは助けた後のことで、彼はすぐに眠ってしまったけれど、それまで意識はあったのだ。けれど千尋は今のところそのことについて何も言わない。おそらく覚えていないのだろう。

 酔った勢いでビルから飛び降りる? そしてそれを全く覚えてないって……ちょっと普通じゃないんじゃないか。

 酒のせいだとしたら危険極まりないことだし、もし万が一、そうでなかったとしたら。

 ――彼は今こんなに朗らかに笑っているのに、心のどこかで死んでしまいたいと思っているのだろうか。

 それを考えると、路久は心に暗く黒い海が広がっていくような気がするのだ。

 今、聞いてみるべきではないのか。

 どくん、と心臓の鼓動が大きくなる。

「よし、じゃあ次、ハイボール! 路久くんはどうする?」

そう言う千尋の笑顔は、路久の暗い考えにはまるで相応しくなかった。そんなことを気にしている自分の方が神経質過ぎるのではないか、と疑いたくなるほどに。

 それに路久と千尋はただの隣人同士に過ぎない。しかも初めて顔を合わせて今日がやっと三回目。そんな人間にプライベートなことを訊かれて、愉快な気持ちになるわけがない。信じてもらえるかもわからない。

「……えっと、じゃあ、おれもハイボールにします」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る