夜空

 その後和やかに食事と酒と会話は進み、夜の十一時過ぎに二人は店を出た。

「ごちそうさまでした。本当にありがとうございます」

 路久の礼もこれで三度目だ。千尋は唇を尖らせた。

「もういいってば。これは俺から路久ちゃんへのお礼なの。路久ちゃんはどういたしましてってそれだけ言えばいいんだよ」

 店で話をしているうち、いつの間にか千尋の中で『路久ちゃん』という呼び方がすっかり定着してしまっていた。なんでも「路久くん、だとちょっと言いにくいから」だそうだ。路久からすれば、小学生の頃母からそう呼ばれて以来のことで、少々気恥ずかしい。けれど、そんな風に彼と距離を縮めようとしてくれた相手は初めてだったので、うれしいことには変わりなかった。

「……わかりました。えと、どういたしまして」

「うんうん、オッケー」

 赤い顔でうれしそうに応じる。アパートまでは歩いて十数分の道のりだ。二人ともほろ酔い気分で足取りは軽かったけれど、千尋は特に機嫌が良かった。何かと言えば「ああ楽しい」「路久ちゃんはいい子だなあ」と繰り返す。店ではその後焼酎に移って、お互い同じくらい飲んだはずだ。路久の方も気分は高揚していた。こんな風にじっくり酒を飲みながら誰かと話をしたことなどなかった。おそらく、相手が千尋だったからこそできたことだろうと思う。

 斎川さんは……優しい。

 けれど優しいだけではない。何か彼は、こちらが近づいても大丈夫だという安心感を覚えさせるのだ。

 いつでも路久は一人だった。誰かを求めたこともなかった。それは相手が路久のことを求めていないことがわかっていたからだ。

 誰かの友達が学校を休んだから、路久がその子の代わりに二人組になる。

 サッカーの人数が足りないから、路久がチームに加わる。

 多数決で結論が出ないから、路久が最後の一票を投じる。

 路久はいつでも誰かの代わりで、足りないものを補う「予備」のような存在だった。それについて何か思うこともなかった。相手が求めるものがあるなら、路久は応じる。そうして事が上手く運ぶのなら、それが自分の役目だと思ってきた。だって、自分は何の面白味もない人間なのだから。

 時々路久を輪の中に誘ってくれた同級生。彼らも結局路久を求めているのではないことはわかっていた。「一人ぼっちの同級生」を気遣う優しさだった。

 ――斎川さんも、そうなのかな。

 でももしかして、もしかしたら、そうじゃないってこともあるのかな。

 千尋が見せる笑顔に、そういう色を路久は感じ取った。石ころのように小さくつまらない存在である路久に、わざわざしゃがみ込んで目線を合わせ、手を広げて迎えてくれる。そんなイメージだ。信じられないことだと思いながら、路久はうれしかった。

 とても、うれしかった。

「路久ちゃん、路久ちゃん」

 シャツの袖を引かれた。千尋が呼んでいる。店を出てから、ずっと彼は笑っていた。上を指差す。

「今日は星がきれいだよ」

「本当ですね」

今日はよく晴れていた。立ち止まって夜空に目を凝らせば、小さな輝きが一つ、二つと見え、それが次第に広がってささやかな星空が視界に現れてくる。まだ三月半ばだというのにここ二、三日は突然季節が早まったような暖かさだった。夜気もそれほど冷え込んでおらず、散歩には最適の夜だった。

「今日も散歩に行くの」空を見上げたまま、千尋が訊いた。

「行きたいけど……酒飲むと自制が効かなくなっちゃうから」

路久も空を見上げたまま答える。酔うと楽しくなってルートを外れたくなったり、夜明けまで飛び回りたくなるので、酒を飲むのは散歩の後と決めていた。今日のように飲み会がある日は、散歩はしないのだ。

「そっかあ……きっと今日はきれいだろうね」

うっとりとした顔で千尋が息を吐く。単純な言葉が路久にはうれしかった。



 時折空を見上げながら歩き、二人はアパートにたどり着いた。

「ああ、楽しかった。路久ちゃんはどう? 大丈夫だった?」

千尋からそう訊かれて、路久は心から大きくうなずいた。本当に、誰かとこんなに楽しい時間を過ごしたのは初めてだった。

「また行こうね」

「……え」

続く彼の言葉に、ぽかんと口を開けて固まってしまった。千尋が首を傾げるので、慌ててもう一度うなずく。本当に、嘘みたいな話だと思った。

 こんなにも優しく温かい人が、また、おれと飲みたいと言ってくれている。

 今までそんな言葉を聞いたことがなかった路久は、社交辞令の挨拶という可能性にも考えが及ばなかった。胸の内に溢れてきた温かいものを感じ、その心地良さにしばし浸る。千尋はよかった、じゃあまた誘うね、と笑う。

「あ、あとさ、俺のことは千尋って呼んでよ。敬語もいらない。職場の先輩後輩ってわけでもないし」

「……えと、」

「斎川さん、って何か落ち着かないんだよ。仕事中みたいでさ」

苗字で呼ぶことを常識として捉えていた路久は『落ち着かない』という意味が全く理解できなかった。けれど何となく、千尋だからそう言うのだと感じた。

「えっと……じゃあ、」

彼の名前は、――さいかわちひろ。

「……ち、ちひろさん」

 恐る恐る路久がそう口にすると、千尋はいたずらっぽく笑って肩をすくめてみせた。路久自身は自分の声がとても場にそぐわない上ずったものに聞こえて恥ずかしい。

 それから短く挨拶を交わして、隣り合うそれぞれの部屋に帰った。

「…………はあ……」

 玄関のドアを閉めた途端、路久はしゃがみ込んでしまった。色とりどりの驚きと喜びが胸のうちを飛び跳ねていて、すぐに次の動作へ移れそうにない。組んだ腕の間に顔を埋め、熱い息を吐く。覚えず、頬がゆるんだ。ひとりでに笑いがこみ上げてしまう。くすくす笑いながら覚束なく靴を脱ぎ、玄関先に寝転んだ。冷たい床が頬に心地いい。

 楽しかったなあ。

 居酒屋で飲み食いしたものと、そのときの会話を振り返る。串焼きは美味しかった。お酒も美味しかった。千尋が勧めてくれた軟骨入りつくねは絶品だったし、もつ煮込みも、鶏の唐揚げも、締めの鯛茶漬けも最高だった。

 特別上手く話ができたわけではない。千尋の話を聞くばかりだったけれど、彼は路久の足りない言葉をきちんと聞いて、その意を引き出してくれた。次第に緊張が解けていくのが自分でわかった。いちいち頭の中で言葉を吟味せずとも、相手は受け止めてくれる。伝わらなければただ言葉を重ねればよかった。気の利いた言い回しなど必要ないことを、態度で教えてくれたのだ。


 そこまで思い出して、もう一度息を吐く。

 ――あの話、できなかった。

 あの話というのは、路久が懸念していたこと。酔った千尋が飛び降りてしまったことだ。あれから話を切り出すきっかけもなく、どうしても言い出すことができなかった。そのうち千尋と話すことが楽しくなってしまって、忘れてしまっていた。

 起き上がる。温かかった身体が少しずつ冷えていく。

 話した方が、よかったのだろうか。

 千尋の笑顔を思い出す。路久に対してとても優しくまっすぐ向き合ってくれたと思う。少なくとも路久はそう感じている。そんな彼に対して隠し事、とまでは言えなくとも、ネガティブな情報を伝えないでおくことは後ろめたかった。

 どうする。

 また飲みに行こうと言ってくれたから、いつか話す機会はあるはずだ。いやそれを待たなくとも、またエレベーターホールで顔を合わせることもあるだろう。けれど、そんな偶然のわずか一、二分で話せる内容でもない。

「うーん……」

 けれどもし――明日彼に飲み会の予定があったら。

 そう思い至って、どきりとした。

 千尋は今、求職中だ。今日の面接が採用されれば仕事につくことになるだろうが、それまではフリー。酒を飲む予定があっても不思議ではない。また、あのときのように飛び降りてしまったりしたら……。

 どくん、どくんと次第に鼓動が大きくなっていく。

 慌てて路久は靴を履き直し、玄関のドアノブに手を掛けた。……けれど、動きを止める。

 まさか、今から彼の部屋を訪ねて話をするつもりか。

 さっき別れたばかりで、突然こんな恐ろしい話を聞かせるのか。あんなに明るく楽しげだった彼の笑顔を壊すつもりなのか、そんなことがわかっていて、平然と話ができるのか、おれは。そんな、迷惑どころか大それたことを――。

「……っ」

 両手で頭を抑える。

 でも、もし明日何かあったら。

 いや待てよ、それを言うなら今日だって。

 はっと路久は顔を上げた。今日も千尋は酒を飲んでいる。先日飛び降りたのは雑居ビルの非常階段からだ。そして千尋と路久の部屋はアパートの六階である。――それに気づくと、背筋に冷たいものが駆け下りた。どっと冷や汗がふきだす。

 蹴り飛ばすように靴を脱ぎ、慌てて部屋の奥、窓を開けてベランダへ駆け込む。手すりから大きく身を乗り出して隣のベランダを見た。誰もいない。カーテン越しに室内の明かりが透けて、淡く人影が動いていた。少し眩しい。

「とりあえず、大丈夫か……」

 アルコールに重くなった頭が一瞬、くらりと平衡感覚を鈍らせる。手すりを強く掴んでバランスを取った。

 いたって平穏なその明かりを見ていると、次第に自分の懸念がひどく大げさなものにも思えてきた。変な薬を飲んだわけでもあるまいし、酒に酔っただけであの手すりを乗り越えるなんて……。

 けれど、それを肯定すれば千尋は自分の意思で飛び降りたということになってしまう。店での彼の屈託のない笑顔を思い出して、路久の胸のうちが冷たくなる。あんな風に笑っていながら、何か心に深い傷を負っているのだとしたら。

 そもそもそんな話を聞かせたら、彼は傷つくのではないだろうか。

 もし彼が自分の意思で飛び降りていて、それを忘れたふりをしているのだったら、常人の域を遥かに超えた力でもって自分を助けた路久のことを黙って飲み込めるわけがない。だから、本当に覚えていないのだろう。

 自分が覚えていない間にビルから飛び降りようとしていたなんて、恐ろしいことだろう。聞かされるのも辛いだろうし、信じてもらえないかもしれない。

 一度口に出してしまえば、二度と取り返しがつかないのだ。

 ベランダの仕切り板に背を預け、とうとう路久は座り込んでしまった。膝を抱えて息をつく。

 どうしよう。

 どうすればいいんだろう……。


 悶々と考えながら、どうすることもできず。路久は隣の部屋の明かりが消えるまで、ベランダに座ってじっと夜空を眺め続けていた。今日は星がきれいだよ、と言った彼の言葉が胸に小さな痛みを与えて落ちていく。

 夜中の二時過ぎに明かりは消えた。暗く静まり返った千尋の部屋を確認した後で、路久は自室のベッドへ入った。



****



 昨日はいい酒を飲めたせいか、眠気はあれど気分は悪くなかった。そういうわけで、千尋は翌朝八時の待ち合わせにも五分遅れでたどり着くことができた。朝食メニューが売りの、雑誌にも紹介されたというやや郊外にあるカフェだ。人気店らしく、この時間にもかかわらず席は八割ほど埋まっている。客は若い女性やカップルが大半だが、ちらほらとお年寄りのグループもあった。

「なんで恋人たちのモーニングデートに俺が呼び出されるわけ」

「あんたを心配してるからでしょ」

 千尋の向かいに座る女性はあやという。彼女の恋人であるゆうと共に、千尋の小学校時代からの友人だ。窓際の四人席、千尋の座る席はたっぷりと日光が入ってきて心地いい。一方の綾は周到に奥の椅子に陣取っていた。紫外線を避けているのだ。

「裕也は?」

「たばこ」

 綾と裕也は中学時代からくっついたり離れたりを繰り返していた。その度に千尋が二人の仲裁や相談、連絡役に駆り出されたものだったが、二五歳を越えた辺りから、いざこざはぱったりとなくなった。どうやら二人は新たなステージを迎えたとみえて、千尋としてはこのまま結婚まで行ってくれれば一安心という思いがある。無論、本人たちには言わないけれど。

「まあ、朝八時に元気に起きてこられるんなら大丈夫か」

綾が肩をすくめて笑う。伏せたまつげにきちんとマスカラが塗られているのが相変わらずだ。きっと昨日の夜も仕事帰りにヨガ教室かジムへ行ったに違いない。

「元気そうに見える?」

「とりあえず顔色は悪くないね」

「まあ……さすがに一ヶ月経ったし」

「涙も枯れた?」

「どうだろ」

メニューを開く。美味しそうなオムレツや、女性受けしそうなパンケーキの写真が並んでいた。値段がどれも想定の二割増しだ。郊外だからか。

「心が空っぽのうちに、色々他のもの詰め込んじゃいなよ。そうすればいつの間にか忘れちゃうから」

綾が千尋の手にあるメニューの端を引っ張り、二人で眺める。

 他のもの、という言葉で思い出したのは、昨日食事をした六歳年下の青年の顔だった。酔い潰れた千尋を親切に介抱してくれた彼。常識外のものすごい能力を持ちながら、常に大人しく控えめだ。綾の言葉を借りれば、彼との出会いや秘密に対する驚きやらが詰め込まれた結果、心の痛みを忘れる場面もあったのだ。彼自身は知りようもないことだけれど。

「決めた?」

 綾が訊く。千尋がうなずくと、さっさと店員を呼んで注文を済ませる。チキンサンドプレート一つ、オムレツモーニング一つ、飲み物はアイスコーヒーとカフェオレとトマトジュース。

「頼んじゃっていいの?」

「あいつ、何も食べる気しないって」

 おそらく綾は寝ぼけ眼の恋人を助手席に押し込んでここまでやってきたのだろう。その当人は眠気覚ましの一服を終えて、店員とすれ違いに戻ってきた。

「おう、千尋」

「おはよう」

「なんでせっかくの休みに朝から外出なきゃいけないわけ」

綾の隣に座り、眼鏡の奥の目をこすりながら言う。ひげも剃っておらず、寝癖もあったけれど、服装はそれなりにきちんとしていた。清潔なコットンシャツと色の濃い細身のジーンズ。綾の見立てだろう。

「綾に聞いてよ。俺だって呼び出されたんだって」

「早寝早起きは美容と健康の基本でしょ」

 ほどなくして飲み物が運ばれてきた。綾は一息にトマトジュースを飲み干す。

「昨日面接だったのか」アイスコーヒーにミルクを落としながら、裕也が目を向けてくる。綾と同じく、こちらを気遣う色があった。

「うん。多分大丈夫そう。週明けには連絡くれるって」

相手の目を見て答える。カフェオレの丸く優しい香りが鼻腔をくすぐる。

「ならいい」

裕也は苦笑した。「また風呂上がりに呼びつけるのは勘弁してくれ」

「最近はやってないじゃん!」

 抗議の声を上げた。酔い潰れた千尋を回収するのは、だいたいにおいて裕也の役目だった。酔いが回った頭でもそのことだけは覚えているらしく、千尋は同席者へ携帯電話を渡して連絡させるのだ。裕也曰く「馬鹿の一つ覚え」というもので、それは確かにここ三ヶ月ほどはやっていない。

 と言ってもその代わり、先々週は同じアパートの住人にその役目を負わせたわけで。特に千尋の酒癖がどこか改善したわけではない。

「へえ、一人で帰ったの」

すかさず綾が確認する。

「いや、それは……」

千尋が口ごもったところで、料理が運ばれてきた。どちらも想像より大きめの皿に多めに料理が盛られている。なるほど値段の高さはこの量か、と店に対する印象がやや変化した。

 食事が進むうちに、裕也も空腹を覚えたらしく料理を注文した。それが運ばれる頃には、例の片石路久というアパートの隣人について一通り二人に話し終えていた。

「なんだ、結局その子に連れて帰ってもらったんじゃん」

綾の言葉に全く反論できない。千尋は目をそらした。

「けど優しいっつーか、面倒見がいいっつーか……その子からしたら赤の他人だろ。よく自分の家に連れて帰ったよな。俺だったらちょっと無理かも。普通に怖いし。面倒だし。交番には言うくらいはするかもだけど」

「なんか俺の顔覚えてたみたい。同じアパートだって。本当にいい子でさ。服も洗濯してくれてるわ、起きたらホットミルク飲ませてくれるわ……天使かと思った。もうなんかめちゃくちゃ申し訳なかった」

バゲットを飲み込んだ綾は首をかしげる。

「それちょっとでき過ぎてない? そのうちあんた、変な宗教とか勧誘されるんじゃないの」

「確かに。同じアパートの人間なんて、一歩外に出たらもうわかんないもんだし。ストーカーとかだったらやばいぞ」裕也が綾に同調し、「男が男にストーカーなんてするかな」と綾は独り言のような口調で反論する。「千尋のそういう性質がそういう男を無意識に呼び寄せてるかもしれないだろ」と裕也がさらに主張を続ける。

「それをきっかけにたかろうとしてるとかだったり」

「なるほど。でもそれだと初期投資高くついてねえ? リバースした他人の服洗うんだぜ。俺むりぃ。絶対無理。しかもそういうのってだいたいおじさん狙うのが多いじゃん」

「そっか、だったらやっぱりストーカーかな」

「二人ともふざけないでよ。絶対そんなんじゃないから」

 そんな二人のやりとりへ千尋が抗議する。

「本当に普通の優しい子なんだよ。見ればわかる」

勢いでそう言ったものの「普通」ではなかったなと一瞬思いを巡らしている隙に、向かいに座る二人は調子づく。

「へえ、いやに熱心に言うじゃん」

「早くも千尋の心を癒す人間が現れたかあ。よかったよかった」

「今度会わせてよ」

「そんなんでもないってば」

 裕也と綾とは子供の頃からの付き合いだから、千尋の恋愛対象が男性であることを知っている。改まって打ち明けたわけではなく、ちょっとした出来事によって隠し事がバレた結果だ。それでも分け隔てなく接してくれる。

 千尋は数ヶ月前失恋した。それで裕也と綾は落ち込む千尋を気に掛けてくれているのだった。これまで千尋が同様の経験をしたときと同じように。なんだかんだ言っても、それが千尋にはありがたいものだった。

「何度も言うけど、いい加減酒は程度をわきまえろ」

「うん……」

「次に同じことになったからって、その子が都合よく通りかかるわけじゃないんだからね」

 食事を終えて少し話をした後、店を出た。裕也と綾はこの後アウトレットモールへ向かうらしい。二人の乗るミニバンを見送って、千尋は原付のバイクに跨る。彼らと違って求職中の千尋には、一人暮らしをしながら自動車を所有できるほどの金銭的余裕はない。

 昨日に続き今日もコートがいらない暖かさだったけれど、週明けからは寒の戻りとなるようだと、朝テレビの気象情報番組は伝えていた。暖かくなったり、寒くなったりを繰り返しながらそれでも必ず季節は移り変わっていく。月並みだけれど、その過程を今の自分の心境に重ねてみると、よく似ている。

 今はこの気温と同じく暖かい。快晴の空の下、広く先が見通せる大通りを真っ直ぐ自宅アパートへ走った。



 部屋へ帰ったときには十時を回っていた。食事をした後だったので、部屋着に着替えベッドに横になるとすぐ眠気がさしてくる。それに身を委ねていると、玄関のドアが閉まる音、鍵が回る音が遠くくぐもって聞こえた。隣の路久の部屋だろうか。これから出かけるとか。

 そっか、土日もバイトって言ってたっけ。

 路久ちゃんバイト頑張ってね、と心の中で呟く。表情を動かさず、こちらに小さくうなずく彼の顔が浮かぶようだった。都合のいい想像だ。そのまま千尋は眠りに落ちた。

 週明け、面接へ行った会社から連絡があり、採用が決まった。来月からの出社ということで、ひとまず千尋は安心した。

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