伝えたいこと

 路久と千尋はとりあえず一旦テーブルを片付けた。残った料理をまとめ、裕也たちが使った食器を流しに引き上げる。

「お腹いっぱい食べた?」

 千尋の質問に路久は大きく頷いた。たいていの飲み会の席ではそうなのだけれど、路久は人とあまり話せないので飲み食いは疎かにならない。

「すみません。どれも美味しくて、結構食べちゃいました」

「それはうれしい」

 その後、テーブルに戻って乾杯した。二人で飲むのは前に千尋におごってもらって以来だ。

「今日はありがとね。来てもらって」

「とんでもないです。こちらこそ、誘ってもらってありがとうございます」

「ううん。もうほんと、プレゼントまでもらっちゃって」

 そう言う千尋は、裕也たちと飲んでいる頃から頰が赤くなっていた。それを見るたび路久は、居酒屋からこのアパートまで初めて二人で帰った日のことを思い出していたのだった。

 昔から仲が良かったという仲間に囲まれて、楽しそうに話す千尋。今まで路久が知らなかった彼の姿を少し知れたような気がした。余計な遠慮がいらないやりとり。短い言葉で繋がる会話。リラックスした空間。その中心に、千尋はいた。

 千尋さん。

 優しい人。どうしてか、おれと関わってくれる、向き合ってくれる人。

「さっきも言ったけど、千尋さんには、本当に感謝してますから」

 千尋を見た。目が合った。こないだ二人でバスに乗ったときと同じ。同じ気持ちがまた路久の胸の中で生まれて身体中に飛び出していく。小さな子供のように無垢で無邪気な気持ち。羽が生えているから、どこへでも飛んでいけるのだ。

「千尋さんは、不思議な人。優しい人……。たぶん、千尋さんみたいな人、世界に何人もいないんじゃないかなあ」

 石ころみたいにつまらない路久。変な能力を持った路久。関わっても面白いことなど一つもなく、それどころか面倒なことばかりだ。そして、実際に千尋はそれに巻き込まれている。なのにまだこうして向き合ってくれる。関わろうとしてくれる。

「だからおれは、千尋さんが世界でも本当に貴重な人だと思うんです」

ずっと思い続けていたことを声に出して路久は言った。気持ち悪いと思われるかもしれないけれど、相手がどう思うかなんて、もう考えなくていいやと思った。たぶん、酒のせいだろう。

 目の前の千尋は、驚いたように目を丸くしてこちらを見ていた。

 やっぱり困惑させてしまっている。自分は何を言っているんだろう、と思った。突然訳のわからないことを言い出して。やっぱり自分は変な人間だ。

 グラスの中身を口にする。千尋が開けたにごり酒。初めて目にしたけれど、まろやかな口当たりが心地よい。

「本当はもっともっと、いいもの贈れればよかったんですけど」

「路久ちゃん」

顔を上げると、すぐ傍に千尋の顔があった。グラスの酒が跳ねる。彼の腕が路久の身体に回り、温かい額から鼻先が頰に触れる。大きな吐息が耳元で聞こえた。

「……そんなこと言われたら、もう、俺、どうしようもないんだけど」

 千尋に抱きしめられている。そう認識した途端、心臓が飛び跳ねた。どっくどっくと暴れ出し、身体が熱くなっていく。

「え……」

「ごめん。ちょっと……ほんとにごめん」言葉とは裏腹に彼の腕に力がこもった。「ちょっと待って。今余裕取り戻すから。いや、でも、今……」後の方はほとんど独り言のような口調になっている。

「えっと」

どう対応すればいいかわからず、路久はそっと空いた方の手で千尋の背中を抱きかかえた。服の布地越しに彼の体温がはっきり感じられる。しばらくして、千尋はもーう、と嘆くような大声を出した。

「すいません。おれ、急に変なこと、」

「変じゃないよ、うれしいよ! うれしすぎて困るんだよー」路久に抱きついたまま、千尋は頭をぐりぐりと左右に振る。「プレゼントだけでもうれしいのにー、そんなこと言われたら俺、うれしくて暴走しちゃうよ」

「ぼ、暴走?」

「俺はそんな立派な人間じゃないよー」

「ええっ、でも」

そう言いかけた路久はふと気づいて、グラスをテーブルに置き、両手で千尋の肩を掴んだ。顔を上げた彼の目をまっすぐ見つめる。

「違います。お世辞なんかじゃないです。おれは本当にそう思ってるから言ったんです」

まるで泣き出すのをこらえる幼子のように、千尋の唇は結ばれたまま震えた。そのまま数秒、ほとんど睨むように路久を見つめた後、不意に両手を素早く動かした。

「ひゃっ」たまらず声が裏返る。千尋が路久の脇の下に手を入れてくすぐっているのだった。

「もう、路久ちゃん! 大人の自制心を試すようなことしないの! それ以上言ったら本当にどうなるかわからないんだからね!」

「や、や、やめてくださ、あははっ」

昔から友人がいない路久は、明らかに経験値が足りなかった。面白いようにのたうち回り、千尋の手を逃れようとするけれど到底敵わない。お腹がこわばり、しまいには咳き込むほど笑い続けることになった。そうなると千尋に対して多少恨めしい気持ちも生まれてくる。見よう見まねで仕返しをした。今度は千尋が笑い出す。そうしてお互いくすぐり合いながらカーペットの上を転がり回った。

 数分後、流石にお互い疲れ果て、息が上がったまま揃って寝転がる。

「やっぱり、路久ちゃんの方が、力、強いかも」

「そう、ですかね」

首を巡らせて千尋の方を見ると、彼は身体ごとこちらに向けていた。その瞳がまっすぐ路久を見ていて、小さな痛みが胸を走る。

「ありがとう。すごく、うれしかった」

「いいえ。本当のことですから」

千尋が目を伏せる。

「俺さ、路久ちゃんに伝えたいことがあるんだ。でもね、酒の席では……アルコールが回った頭では言いたくない。だから、また今度聞いてくれる?」

静かな口調でそう言って、こちらを見る。柔らかな表情の中で、瞳だけが深い色をしていた。

「はい。いつでも」

 路久は笑顔で応じた。あれだけ笑い続けた後だったからか、自然に笑顔を作ることができた。

 伝えたいこととは何だろう。頭の中には当然の疑問が浮かんだ。千尋がこれほど真剣に伝えたいこととは。けれど、たぶん、路久に対する批判や嫌悪とは縁遠いものだとはわかった。何であれ、千尋さんのためなら、おれができることは何でもするんだ――。



 遠く窓の外からサイレンの音が聞こえて、路久は目を覚ました。珍しいことではない。路久の住むアパートから道路を二本挟んだ向こうには、大きな総合病院があるのだ。昼夜問わず救急車が通るのは日常だった。

 あっと、声を上げそうになった。

 明かりがつけっぱなしのリビング。目の焦点が合わないほど傍に誰かが眠っている。――千尋だ。どきりとした。

 途端に首が痛む。彼の腕を枕にして路久は眠っていた。もう一方の腕は背中に回っている。微かに汗の匂いと、少し甘い千尋の匂いがした。静かな寝息が額にかかる。

 おれ、寝ちゃったのか。なんてこと。

 視線を巡らせると、カーテンの隙間から見える窓の外は暗い。

 いつの間にこんなことになったのか、記憶を辿る。確か、最初はお酒を飲みながら話していて、変なこと言っちゃって、千尋さんにくすぐられて、伝えたいことを今度聞いてくれということになって、その後寝転がったまま色々話をして、それで……。

 そのまま眠ってしまったのだ。こんなことは初めてだった。

 驚きが落ち着くと、今度は別の理由で鼓動が大きくなる。顔が熱くなった。抱きしめ合って眠るなんて、まるでこれは。

「んん……」

唸るような声が聞こえてきた。密着していた身体が身じろぎして、路久の身体を抱き直す。背中をするすると撫でられると、唐突な心地よさに肌が粟立った。

「ち、ちひろさん」

唯一自由になる左手でおそるおそる彼の胸を叩く。二度、三度、四度。背中に回して強めにもう一度。それでようやく目の前の身体が動いた。

「なに……」

「千尋さん、あの、すいません」

苦労してようやく焦点が合う距離まで顔を離すことができた。それでも数センチと離れていない。しばらく眠そうな目と見つめ合うと、一転、それは驚きに見開かれた。

 うわーっ、という千尋の叫び声が部屋中に響いた。午前四時半のことだった。


 路久が謝ろうとすると千尋はそれを慌てて止めた。謝るべきは自分で、路久の方は何も悪くないから謝る必要はないのだと言い、千尋の方から頭を下げた。まさかそんなことで気が済まない路久は再度頭を下げ、似たようなやりとりをもう一度繰り返すことになった。

「最悪だ……。今日はマジでちゃんと帰そうと思ってたのに」

「いや、おれがいつの間にか寝てしまってたので」

 こちらに聞こえるほど大きなため息をついて千尋は頭を抱え、そのまま動かなくなった。まるでよっぽど重い問題について考え込んでいるとでもいうように見えた。悪くないから謝るなと言われたものの、いたたまれない。路久は一体何をどうすればいいのかわからず、カーペットに正座したままあれこれ考えを巡らせた。頭の隅で、いつかも似たような状況に陥ったことがあったなと思い返す。

 どれくらい経った後か、やがて千尋はゆらりと顔を上げた。彼の目も顔も、尖らせた唇さえ赤い。拗ねた子供のような顔をしている。

「あのさ」

「はい」

すぐに路久は背筋を伸ばした。千尋はため息まじりに言う。

「正直、酒が抜けた自信ないけど……これ以上はちょっともう、フェアじゃないから言う」

「え、」

「昨日言ったこと、覚えてる?」

うなずく。伝えたいことがあると千尋は言っていた。酒の席では言いたくないのだとも。路久にならってか、千尋も居住まいを正した。まだ少し眉根を寄せた表情が、路久をちらと見た途端甘くほどける。

「俺、路久ちゃんのこと好きなんだ」

 路久は瞬きを繰り返した。言葉の意味が上手く飲み込めない。

「あの、えっと……?」

「君に恋をしてるってこと」

千尋の目は鮮やかに潤んでいた。その色に引き込まれそうだと気付いた頃、ようやく彼の発した言葉が頭に到達した。

「え、おれ、ですか」

「そうだよ」

「ええっ!」

思わず叫んだ。え、え、と言いながら自分でも気づかないうちに路久は左右を何度も見回していた。昨日と変わらない千尋の部屋。少し残ったアルコールの匂い。寝汗をかいたらしくべたついた自分の首の辺りの感触。そして、目の前に座るよく知った青年の姿。

 路久の視線が定まると、彼は笑った。

「君が好きだよ」

 どきりとした。心が震えた。これまで千尋の笑顔を目にしたことは何度もある。というよりむしろ彼はいつも笑顔を絶やさない、というのが正しい。けれど、これはとびきりだと思った。ぎこちない、なまの感情。

 たぶん、笑顔に収まりきらない感情が今、千尋の中にあるのだ。そしてそれは路久へ向けられているのだという。彼の表情を見て、直感的にそれがわかった。

 そのことがどれほど稀有なことか、路久にとっては想像を遥かに超えることで、噛み砕いて飲み込むのはとても恐れ多いことに思えた。

「本当……ですか」

路久のかすれた声に、千尋はうなずく。

「ど、どうして、」

「どうしても何も。会う度に好きだって思っちゃうんだもん」

「どうして、おれなんか」

「言うと思った。路久ちゃんが自分のことをどう思ってるのかはこの際関係ない。路久ちゃんを好きだって言ってるのは俺だよ。俺の気持ちは俺のもの。俺の心が生み出してるものだ」

身体はようやく事態を理解したのか、顔が熱くなってくる。こんなに優しく素敵な人が、他でもない自分に恋をしているという。嘘みたいだ。

 言葉が出てこなくなってしまった路久を見て、千尋は苦笑した。

「路久ちゃんを困らせるつもりはないんだ。けど、これ以上近づいたら騙してるみたいだから、正直な気持ちを伝えないといけないと思って」

両手を上げごめんね、と言う。路久は慌てて首を振った。

「あ……謝らないでください。おれは、その」頭の中で言葉を必死に探した。けれど見つからない。何を言えばいいのか、どう答えたらいいのかわからないからだ。「えっと、あの、そう、何か迷惑をかけられたとか、嫌とかじゃない。だから千尋さんが謝る必要は全然ないんです」

千尋は自嘲してみせた。

「でも俺、男だよ? 気持ち悪くない?」

「いいえ」

 確かに常識的に考えればそうだろう。それはわかる。けれど不思議なもので、実際に今路久の胸の中にある感情――どういうものかまるで見極めるのが難しいけれど、少なくともそれは千尋に対する嫌悪ではなかった。

 千尋が少し、肩の線を緩めたのがわかった。

「路久ちゃん」

「はい」

「手を、貸してくれる?」

「手を」

「うん」

 差し伸べられた彼の手に従って両手を差し出す。千尋は壊れ物を扱うような丁寧な仕草で手を取り、屈み込む。まるで何かの儀式のように、一まとめにした路久の手に自身の額を押し当てた。触れた瞬間、何か一つの空気が二人に作用したように路久には感じられた。ただの錯覚。けれど、温かく少し湿った体温は本物だ。

「好きだよ、路久ちゃん」

「……ありがとうございます」

それが正しい返答なのかわからないまま、路久は言った。路久も千尋のことが好きだ。けれどそれはこの場で口にするべきではないと思った。恋をしている、と彼は言った。路久の好意と彼のそれとは違うのだ。そのことをわかっているから、千尋も問わないのだ。

「あの、こういうことを言うのは変かもしれないんですけど、千尋さんにそう言ってもらえて、おれ、本当にうれしいです。幸せです」

 まるで遠い世界の出来事で、自分には一生関係のないことだと思っていた。千尋は路久に色々なものを与えてくれる。優しさや楽しさ、救い。そして恐れ多いほどの極上の感情。

 やっぱり千尋さんは貴重な人だ。きっと他の誰にも代えられない。心の中で路久は密かに誓った。おれのできること全てで、この人を大事にしよう。できることは、少ないけれど。

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