贈り物(2)
土曜日、千尋は午前中のうちに部屋の掃除を済ませた。自宅に人を呼ぶことが多いので普段からそう散らかっているわけではないけれど、今日は特別。キッチンからトイレ、風呂場まで一通りきれいにする。思いを寄せる相手が来るときは必ず行うことだ。
隣の部屋に住む彼が、ここで風呂に入り泊まっていくことはまずないだろう。そんなことはわかっている。わかっているけれど、万が一、可能性がゼロとも言えないじゃないか。裕也はお迎え付きで帰ることがほぼ決まっているし。
きれいになった風呂場を見ながらついにやけてしまう。鏡に映るその顔といったら。
「浮かれてるなー、俺」
路久から来た返事は快諾だった。人付き合いがあまり得意でない彼のこと、その上今回は裕也以外にも初対面の人間も来る。断られることを一応考えてはいたけれど。
少しは自惚れていいのかな。
彼にとって自分は親しい間柄になったと。
六時ちょうどに呼び鈴が鳴った。階下のロビーではないということは、彼だ。
「今日はお邪魔します」
いつものように丁寧に路久は頭を下げた。白のカットソーに黒色のカーディガンと同色のジーンズ。茶色の目以外はほとんどモノトーンの色調といっていい。その手には紙袋が下げられていて、内心で千尋は苦笑する。おそらく裕也への贈り物だろう。
「どうぞ。裕也はまだだから適当に座っといて」
「あの、何か、作ってるんですか」
千尋のエプロン姿と匂いで気づいたらしい。
「うん。ちょっとね」
ちょっとではない。ほとんど目の前の彼だけのために拵えたと言ってもいい。路久ははっと目を見開いた。
「すみません、おれ、何も用意できてなくて……」
「だぁいじょうぶ。こっちが誘ったんだから」いつも食べ物は千尋、酒は裕也が用意している。今回は予算全体の二割程度を路久に出してもらうことにしていた。本来学生相手に費用を負担させる気はなかったのだが、会費不要といえば路久はかえって恐縮するだろうから、と千尋も裕也も考えたためだ。
「いつもやってることだから、気にしないでいいよ」
「あの、もしよかったら、おれにもお手伝いさせてください」
路久の性格からそうでもしないと気が済まないことはわかっていたので、千尋は笑った。買い出しから誘えばよかったかもしれない。
「ありがと。じゃあ、お願いしようかな」
二人並んで台所に立つ。観てはいないがBGM代わりにDVDを付けていた。ミュージカルを題材にしたもので、まろやかな歌声と洒落た音楽が今の部屋の雰囲気にぴったり決まっている。
路久には、できあがっている唐揚げと餃子の盛り付けをお願いした。その後はポテトサラダや白菜の和え物の混ぜる係。彼の手つきは丁寧だった。
「路久ちゃんは普段料理とかするの」
「えと、一人暮らし始めた頃は毎日やってたんですけど、最近は全然」
「だよねえ。俺もそう。週末くらいしかしない」
「そうなんですか。どれもすごく美味しそうです」
「本当? なら頑張った甲斐があったな。一時期料理にハマって凝ったもの作ったりしてたことあったから」
苦笑して隣を窺うと、路久と目が合う。柔らかい表情――笑顔だ。茶色の瞳が何よりも彼の心を伝えてくる。千尋の目の錯覚なのか、きらきら輝いている。
ああ、もう裕也来なくていいな、と半ば本気で千尋は思った。約束の時間から十分以上経っても来ないのはきっと気を使ってくれているのだ、と勝手に解釈した。
袖をまくった路久の腕。確かな筋肉を思わせる質感が、一度だけ彼と行った夜の散歩のことを思い起こさせる。
暗く、青く、静かで不安定であり、それでいて完成された世界。その中を縦横無尽に駆ける身体。あのとき見せた強い瞳。思えば、彼とは胸の鼓動すら感じられるほどに身体を触れ合わせていたのだ。それでいて今、隣り合って他愛ない会話を交わすだけで舞い上がってしまう自分がいる。
「あーあ、だったら路久ちゃんの好きなもの訊いとけばよかったー」
「えっ、でもおれ、これ全部好きですよ」
なんて(千尋にとっては)甘い会話を続けながら料理を仕上げ、テーブルに並べ、グラスを並べ終わってももまだ裕也は現れなかった。
「遅いな、ビールがないと始めらんないじゃん」
いつもなら食事を用意する千尋の方が急かされるというのに……と思ったら、本人から電話がかかってきた。
『千尋、悪い。本当ごめん。マジごめん。遅れる』
大げさすぎるほどの謝罪の言葉に、警戒心が持ち上がる。気を使っていたなんてとんでもない。
「いやいいけど。どしたの」
「捕まった。綾も
「え、マジ」
裕也の声の向こうではしゃぐ女性の声が二つ。彼は低い声で続けた。
『で、ごめん。二人とも路久ちゃんに会いたいって』
なるほど、そう来たか。千尋は天を仰いだ。
振り返って路久を見る。控えめで無垢な青年は、千尋の様子に心配そうな顔で小首を傾げた。こうなれば最初の対面だけでも素面で済ませられることが唯一の救いか。
そして、千尋と裕也が危惧していた事態は現実となった。
姉妹二人はまず種々揃えられた千尋の手料理に大喜びし、奮発して買ったというシャンパンを取り出した。まさかクローゼットに隠すわけにもいかず路久を紹介すると、はしゃいで取り囲んだ。
「この子が千尋の新しい彼氏ぃー? かわいいじゃん」
「へ」
開口一番これである。血の気が引いた。物怖じせず、加減というものを知らない者の恐ろしさよ。服装も相変わらず派手だ。ジェルネイルを施した指が躊躇なく路久の頰に触れる。
「わかーい! 肌きれー! ね、いくつ? 大学生だっけ」
「何やってんの蘭ちゃん! 違うってば!」慌てて彼女を引き止める千尋。
「お姉ちゃん、狙ってはいるけどまだそういうんじゃないのよ」
「えっ、そうなの」
「綾も声大きい!」
自分を挟んで繰り広げられる賑やかな(というには千尋は緊迫している)やりとりに路久は目を白黒させている。裕也はシャンパンの栓を抜いた。
「とりあえず座れって。乾杯しよう」
それからはもう、怒涛の質問責めとなった。いくらも経たないうちに路久のこと、二人の出会いから今日に至るまでのことを聞き出される。彼の能力のこと以外は別に隠しておこうと思っていたわけではないから、話すのはやぶさかではないけれど、あからさまなからかいを含む問答に千尋は辟易していた。路久がその辺りの含みを読み取れていないらしいことが不幸中の幸いだ。綾の方も、今日は悪ノリが過ぎる。
ようやくその話題がひと段落した後は、いつもの身内話に終始した。蘭の彼氏の話になり、裕也と綾がはやし立てると「そんなことよりあんたらいつ結婚すんのよ」と蘭からは爆弾が放り込まれる。いつものことだけれど、ひときわ騒がしくなった。
その中で路久は一人、口も挟まず頷きながら次々と変わる話し手の顔を追っている。会話の内容についていけるわけないよな、と千尋は反省した。
「味、どうかな」
そっと話しかけると、路久は目を瞬かせた。自分に向けた言葉が来ることを予期していなかったらしい。女性陣に手出しされないように千尋と裕也で両隣を固めていたので、抑えた声でも会話はできた。
「どれもすっごく美味しいです。千尋さん、料理上手なんですね」
素直に褒められるとうれしい。胸の辺りが疼いた。
「路久ちゃんにだったら、いつでも何でも作ってあげる」
「え、いや、そんな」
路久は慌てて手を振る。拒絶ではなく遠慮なのだと、千尋にはもうわかっていた。たぶんこの子に近づくには、多少こちらが積極的になるくらいがちょうどいい。
「また今度うちに食べにおいでよ」
「あ、ありがとうございます」
恥ずかしそうに路久は礼を言った。その耳元に裕也が話しかける。
「動画の件、あれから動きはない?」
「はい。おかげさまで」
「俺もチェックしてるけど、再生回数、ほとんど変わってないよ。もうほぼ埋もれてるって言っていいと思う」
「ならよかった」
裕也も穏やかな笑顔を見せた。複雑な問題だけに、簡単に解決するというわけではないが、ひとまず終息に向かっていると言っていいだろう。
「あの、本当に千尋さんと裕也さんのお陰です」
路久が珍しくはっきりとそう言った。
そして千尋をちらと見る。立ち上がり、部屋の隅へ向かう。その動きに、いつの間にか女性陣も口をつぐみ全員が黙って彼の姿を見守る形となった。路久はそこに置いていた紙袋から包みを取り出すと、膝立ちのまま足を進めて戻ってきた。裕也の前に向き直る。
「え、と。裕也さん」
「はい」つられて裕也が姿勢を正す。路久は包みを捧げ持つようにした。
「今回のこと、本当にありがとうございます。これ、よかったら……」
一瞬の沈黙が、三つの歓声で破られた。
「ええー! どうしたの!」
「何これプレゼント?」
「ずっるーい裕也ぁー!」
三人が贈り主そっちのけで騒ぐ。路久は驚きうろたえて、救いを求めるように千尋を見た。その表情といったら、千尋の方が直視できなかった。緊張とアルコールで頬を染めた彼の顔。ものすごい勢いで千尋の心を押し倒す。
「……ちょっともう、ちゃんと受け取って! 路久ちゃんが裕也にお礼したいってわざわざ用意したんだからね!」
路久の背後から手を回して、包みを持つ彼の手を支える。まるで幼児の手助けをする母親のように、わざわざ路久を懐に囲んで。
今この瞬間、彼に触らないと気が済まなかったのだ。
「いや、わざわざこんなよかったのに」
「えと、気持ちなので」
裕也は申し訳なさそうにありがとう、と受け取った。千尋のアドバイス通り、中身は彼の好みの日本酒だ。大喜びで開けよう開けようと騒ぐ姉妹に「これは俺の酒! お前らには一口もやらん!」と裕也は包みを大事に抱える。
「路久ちゃんマジありがとう。マジうれしい。俺大事に飲むから。ってか、気ぃ遣わせて悪かったな」
「とんでもないです」路久は激しく首を振った。「ドームでの件、本当に助かりましたから」ありがとうございました、とまた路久は頭を下げた。そんなやり取りを千尋は路久の肩に顎を乗せながら聞いていた。腕はもう囲うと言うより抱きしめていると言っていい。ドームの件ってなに、と綾が目ざとく聞いてくるがこっちの話、と無理やり押しのけた。
「悪いな、千尋」
これ見よがしに裕也が片目をつぶってみせるのが、冗談ではなく癪に触る。
「千尋、あんたどさくさに紛れて何やってんのよ」
「うるさい。もうこいつ連れて帰ってよ」
「あーら、路久ちゃん困ってるじゃない」
「ちょっと蘭ちゃん何すんの」
「あ、あの」
路久は身じろぎし、どうにか千尋を振り返る。至近距離で顔を合わせることになり、千尋は慌てて拘束を解いた。路久はまたこそこそと膝を進めてもう一つの包みを持ってきた。今度は千尋に捧げ持つ。
「千尋さんには、これを」
「え、」
ひゅう、と裕也が口笛を鳴らした。路久は心持ち恥ずかしそうに目を伏せる。
「千尋さんには今回のことだけじゃなくて、本当に、出会ってからずっと色んなところでお世話になったので……あの、」
顔を上げて、千尋に目を合わせる。表情の乏しい顔。けれど、その瞳は強い感情を秘めていた。
「いつも、気にかけてくださってありがとうございます。その、おれ、いつもうれしいです。千尋さん、おれなんかにもったいないくらい優しいから」
「え、いや、」
言葉が出ず、渡されるまま包みを受け取る。そっと中を開けてみると、そこには紺色の小さな折りたたみ傘が入っていた。
「すみません」
路久が勢いよく頭を下げた。「折りたたみ傘なんて、もうお持ちだとは思うんですけど、これ、グッドデザイン賞を獲ったとかで、軽いのに結構丈夫なんです。しかも畳むとこれだけ小さくなるから、お仕事中持ち歩くにも楽だし。だからその、今お持ちの傘が壊れたときにでも使ってもらえたらと思って、」
語尾は震えていた。きっと今、彼は最大限の勇気を振り絞って自分と向き合っているのだ。
「あ……りがとう……」
礼を言う声がかすれた。喉の奥にこみ上げるものがあった。そうして動画の件が発生して以来、押し込めていた感情を思い出す。確かに千尋は、裕也へ嫉妬に近い思いを抱いていたのだ。路久の窮地を自分の力であっさり解決した上、将来の可能性を示し、感謝の思いを形にしてもらえる裕也のことを。裕也の好きなものは何かと聞かれたとき、内心面白くない気持ちがあったことを。
「味気ないもので、すみません。色々考えたんですけど、」
「ううん」
恐縮して俯く路久の肩を掴み、千尋はこちらを向かせた。
「うれしいよ。そうやって路久ちゃんが考えて選んでくれたものなら」
突然の雨に、千尋が濡れないように。
悪く言えば味気ない、けれど実用的な品物がなんとも彼らしくて、目の前の青年が何よりもいとおしくなる。千尋はそのまま長いこと路久を見つめた。次々と胸にあふれてくる思いを押しとどめることが難しく、今この場に相応しい言葉と態度に変換できない。気を抜けば身体も理性も全て飲み込まれてしまいそうになる。
「すごく、うれしい」
だから、言葉は子供のように単純なものになった。路久は安堵したらしく、こわばっていた肩を下げ、ようやく笑顔を見せた。
「そう言ってもらえると、おれもうれしいです」
茶色の瞳が鮮やかに輝く。
一瞬の沈黙の後、はやし立てる拍手が起こった。驚いて周囲を見回す路久に構わず、裕也たち三人が歓声をあげてかんぱーい、とグラスを掲げる。このときは千尋もうるさい、とは言わなかった。
それから数時間後。拍子抜けするほどあっさりと、裕也は帰ると言い出した。意外そうな綾と蘭を引っ張って。代行運転をもう頼んでいたらしい。初めは蘭が「やだー、路久ちゃんともっと飲みたい」とごねていたが、綾に何やら耳打ちされると途端に大人しくなった。
四人とも長い付き合いで、それなりにお互いのことがわかる間柄である。今度こそ彼らは千尋に気を使ったらしい、とわかった。元々綾と蘭は飛び入りで参加してきていたし、おそらく路久が贈り物をしたときの様子を見て、何か感じ取ったのだろう。少々恥ずかしい気がしないでもなかった千尋だったけれど、隠すつもりなら初めから徹底的に隠している。ここは、彼らの好意を素直に受け入れようと思った。
「路久ちゃん、もうちょっと千尋の相手してやってな」
玄関先で見送る千尋と路久へ裕也が余計な一言を投げる。それを聞いた路久の方は、見当違いの心配をして千尋を見遣った。
「もう結構遅いですけど……いいんですか」
「大丈夫。どうせ明日も休みなんだから」千尋が口を開く前に綾が答えた。
「また今度じっくり飲もうねえ」
蘭はそう言うと両手を広げて路久の元へ飛び込む。止める間もなかった。あ、はい、ぜひ、とうろたえつつ彼女の身体を受け止めた路久へさらに頬ずりをする。
「んーすべすべ。天使ちゃん天使ちゃん」
「あの、えと」
「蘭ちゃん、そこまで」
「それ以上やったら出入り禁止にするからね」
男二人に低い声で言われ、「ちぇー」と蘭は妹へ取り付いた。綾はあっさりと「じゃあ、またね」と空いた方の手を振る。
「うん、気をつけて」
「あの、ありがとうございました。お気をつけて」
「じゃあな」
玄関ドアが音を立てて閉まる。ちぎられた外気がひんやりと鼻の奥へ通った。ドアに鍵をかけ、路久を振り向く。普段通りの声色を出すのに多少意識が必要だった。
「えっと、よかったら、もうちょっと飲む? 俺は明日休みだし、路久ちゃんがよければ」一緒にいたいけど、という言葉を飲み込む。
「はい。明日バイトですけど、まだ大丈夫なので」
路久は瞳を和ませて応じた。
「引越しの方?」
「はい。七時集合です」
「うわ、めっちゃ早いじゃん」千尋は内心でがっくり肩を落とした。表面には努めて出さないようにしたけれど。
路久は特に頓着した様子もなく、簡単に言った。
「朝は割と平気なんで、大丈夫です」
「ううん。身体使う仕事だもんね。じゃあちょっとだけ。あんまり遅くならないようにしよう」
それくらいはさらりと言えたし、日付を越えないうちに帰そうとも思った。
そしてさらに思考が転がる。もし今、千尋が路久と同い年だったら、路久の言葉に甘えて夜通し付き合わせたかもしれない。
いや――二十歳前後の自分を思い返す。同い年だったらそもそも最初の食事の後、すぐにデートに誘ったろう。気になる相手イコール恋愛感情に直結していた頃だ。そして距離感もわからずアプローチを繰り返した末にふられてしまっていたかもしれない。苦笑する。
でも、その頃の自分が今の自分を見たら「随分余裕だね。誰か他の人に取られるとか考えないの?」と言われてしまうのだろうか。
喜びと期待にどきどきと胸を打つ心臓を抑えながら、路久を部屋へ促した。
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