贈り物(1)
お前の転職祝いしてなかったよな、と裕也から電話があったのはドームの一件がから数日経った夜のことだった。
「何それ」
そう言いながらも、千尋には相手の意図がわかっている。転職したから、ボーナスが出たから、ビールが半額だったから、お前に恋人ができたから、インフルエンザが治ったから。まったくいつもバラエティに富んでいる。
『いや、無事新しい仕事に就けてよかったなってさ』
「蘭ちゃん、帰ってくるって?」
『……まあそういうこともある』
「いつ?」
『来週末』
つまりはそういうことだった。彼の恋人である綾には県外に住む三つ年上の姉がいる。半年に一度くらいのペースで妹の元へ遊びに来るのだけれど、昔から妹の恋人には様々な面で容赦がなく、裕也は彼女を大の苦手としているのだ。
「うちに来るのはいいけど、あんまり意味ないんじゃない?」
綾と小学生の時からの付き合いである千尋も無論、彼女のことはよく知っている。綾よりもややきつめの顔立ちで、大胆で怖いもの知らずだった。
『酒飲んどきゃ運転できないだろ』
「それで逆にお迎えが来たことあったじゃん。代行で」
あまりにもあからさまに裕也が彼女を避けるので、以前面白がって姉妹で千尋のアパートまで迎えに来たことがあったのだ。二人とも酒を飲んだ後で、運転代行させた車に乗って来たのには驚いた。
『……その時はその時だ』
「ま、いいよ。来週末なら俺も空いてるしね」
千尋にとっても都合が良かった。頃合いを見て呼び出せば、路久の気がかりも解消できそうだ。
最初から彼を誘って三人で飲むという選択肢もあるけれど、本人の意思もあるし、何よりあの姉妹が本当に押し掛けてきたときにおもちゃにされかねない。あわあわと恐縮する路久を女性二人が寄ってたかって質問責めにするのが目に見えている。
『……綾がさ、』
裕也がふと口にした。
『俺がまた路久ちゃんと会ったって言ったら、裕也ばっかりずるいって』
千尋の思いを感じ取ったかのような、遠回しの注意喚起だ。ため息をつきながらベッドに寝転んだ。
「んじゃ逃げられないかあー」
『悪いな。いっそ最初から呼んだ方がマシかも。最悪酔っ払い二人が路久ちゃんの部屋のピンポン押しかねん』
いかにもありそうだったので、千尋は少々げんなりした。最悪路久をどこかに一時避難させた方がいいかもしれない。
「わかった、聞いてみる。でも本人の意思が最優先だからね」
先月のこともある。肩をすくめてそう応じると、裕也はやや口調を変えた。
『よく飲んだりすんの、路久ちゃんと』
「お店では一回だけ。家じゃまだ」
お互いの部屋へ行き来することは何度かあったけれど、彼の能力の件などいつも他に目的があってのことだった。考えてみれば、自宅で彼とただのんびり酒を飲むというのは魅力的な提案だ。想像するだけで心が浮き立つほど。
『ならまあ、いい機会だと思ってさ』
「調子いいこと言ってくれるよねえ」
図星を突かれて唇が尖った。
だいたい、そうなるとむしろ裕也の方が邪魔である。さらに自宅で飲む最初の機会は二人っきりがいいな、と欲も出てくるものだ。フライングで今週末誘っちゃおうかな、でも二週連続俺ん家に来るのもどうかな。
そう言えば前に路久に言われたことがあったのだ。飲む酒の種類と量がどのくらい身体に影響するか、試すなら付き合います、と。確か、千尋が酔って飛び降りた真相を語った時だ。事情が切迫していると思ったからこそ出た言葉だったろうが、今思えばあの発言は彼にとってかなり勇気のいる提案だったに違いない。
その口実があったんじゃん、もっと早く誘っとけば――いやいや、路久の性格を考えれば……、
『じゃあ、土曜の夜六時で』
「はーい」
千尋があれこれと過ぎた機会に思いを巡らす間に、裕也が日時を指定した。まあいいか、二人で飲む機会は別で作ろう。
*****
千尋に何か贈り物をする。
ドームの一件があった後、浮かれた心でそのアイデアを転がしていた路久は、その後の講義もアルバイトも問題なく片付き、珍しくその浮かれた気分のまま自宅へ戻った。
――さて、何を贈ろうか。
夕食もそこそこに考えを巡らせる。
今、自分がこんなに明るい気持ちでいることが不思議だった。誰かに贈り物をするのは初めてだ。そして初めてのことはいつも予測がつかず、怖い。失敗は付き物だし、ともすれば誰かしらへの迷惑や面倒を招きかねない。なのに……心の半分は緊張と恐れを確かに感じているのに、もう半分はうきうきとはしゃいでいるのだ。千尋のことを考えるだけでうれしくなる。
どうしてだろう。
バスの中で見た彼の表情のせいだろうか。路久が千尋を見たとき、彼も路久を見ていた。数秒見つめ合った後、頬を染めて目を伏せる様子が、路久の心を騒がせたのだ。いつもの朗らかな彼とは少し違う表情。けれど、いいなと思った。思い出すだけでどきどきしてしまうほど。
千尋さんが喜んでくれるもの、何だろう。
とりあえず百貨店へ出かけてみることにしよう。
けれど翌日には、それまでの思いが嘘のようにしぼんでしまっていた。
六歳も年上、しかも社会人の彼に、学生のおれが贈れるものって一体何だ。
アルバイトのない木曜日。大学の帰り、百貨店がいくつも連なる中心街。入口の大きく重厚なガラス扉は、平日の夕方は多くの人が出入りしていてひっきりなしに開閉を繰り返している。九割が女性客だ。この辺りの建物群の上を散歩することもほとんどなく、まるで縁のない場所だった。これなら郊外のアウトレットモールの方がよかったかもしれない。
でも贈り物だし、きちんとしたお店できちんとしたものを買った方が……。
深呼吸をし、意を決して、前を歩く人の流れに従って店に入る。今日は買って以来一度しか着ていないボタンダウンシャツを着てきた。パーカーにジーンズといった普段着ではとても入る勇気が出ないと思ったからだ。
きらきらと明るい店内。嗅いだことのない新品の品物のにおいと、鼻を突く尖った香水のような香り。BGMに乗って柔らかく場に馴染む店員と客の声。商品はどれもが余裕を持ってディスプレイされているけれど、どこに何があるかもさっぱりわからない。足が止まってしまった。後ろにいたらしい女性客が、路久をかすめるように歩いて追い越して行く。去り際に聞こえた短いため息が路久の身体を硬直させた。
その途端、ずるずると暗い気持ちが路久の中にあるすべてのものを否定し始める。
おれが贈り物なんかして、あの人が喜ぶと思うのか。あの人にとって俺は特に付き合いが深いわけでもない、ただの隣人だ。物をもらっても困るだけだろう。喜ばせられるような品物だって思いつかない。迷惑かもしれない。だって……。おれは役立たずで、何の面白味もなく、つまらない人間なのだから。
今に始まったことではなかった。似たような思いを何度も味わって、味わい尽くして路久は今の自分を作り上げたのだ。慣れっこだ。ただ、どうしようもなくそれに成す術がないのも昔から変わらない。
そのとき、携帯電話が胸ポケットで動いた。
メッセージが届いたのだ。千尋からだ。
『来週末、裕也がうちに来るんだ。もしよかったら、路久ちゃんも一緒に飲まない?』
『タイミングが合いそうならお礼渡す時間作れると思うから』
『ただ、もしかしたら裕也の彼女と、そのお姉さんも合流するかもしれない。都合が悪かったり、気乗りしなかったら無理しなくていいよ』
しばらく、その画面に釘付けになった。彼が送ってきた言葉が携帯電話を伝って、自分の身体に染み込んでいくように感じた。指先に熱が戻る。呼吸が楽になる。
そうだ。
わからなければ、案内板を見ればいい。店員に聞けばいい。自分の苦手意識や内向きの性格のせいで目的を果たせなかったら、きっと後悔する。
確かに迷惑かもしれない。でもお世話になったのは本当のこと。だから感謝の気持ちを伝えたい。千尋さんが受け取ってくれるかはわからないけれど、おれは贈りたいと思うから――
確実に千尋の役に立つものを選ぶのだ。
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