光
久しぶりの跳躍に身体中が喜んでいた。屋内だけれど、力いっぱい踏み込んでも天井には届かない。頭を打つ心配がない。そして、裕也からは思う存分能力を見せてくれと言われている。要するに飛び放題だ。
応援席を一周しては千尋と裕也と二、三話をし、また一周するということを繰り返すうちに、あっという間に時間が過ぎた。裕也は何度も感嘆と賞賛の言葉を路久に伝え、能力について様々な角度からあれこれ知りたがった。路久の方も千尋以外の誰かとこの能力について話をすることなどこれまでなかったから、つい饒舌になって色々話をした。千尋も興味津々とそれを聞いてくれた。
一時間後。ドームを出て、並んで三人は入口付近の広場に佇んでいた。五月も末となればもう日差しは熱い。話題は先ほどから路久の「散歩」に移ったところで、一通りの現状を黙って聞いていた裕也は腕組みをして話し始めた。
「まあ、しばらくその散歩はやめといた方がいいだろうな。けど千尋が言うように、それが路久ちゃんの身体にとって大事なことなら、まだやれることはある」
きっぱりと言ってのけたその口調に引き込まれて裕也を見ると、彼は得意げにうなずいてみせた。
「時と場所を選べばいいんだ。場所が選べないなら、せめて時間帯を」
人目につくのが危険なら、もっとあらゆる可能性を潰していくべきだ、と裕也は言った。
「まずは日取り。例の動画は月を撮ろうとしたら偶然路久ちゃんを見つけたって言ってたろ。人が夜に空を見上げるとしたら星か月だ。だから、基本的に月が出てる夜は散歩をしない方がいい」
路久は息を吸い込んだ。
「新月の夜か、星も月も見えないくらい曇った日。一番ベストは雨の日だな。うっとうしくって誰も夜空なんか見上げやしない」
「雨の日、ですか」
今まで避けていた日だった。裕也はああ、とすぐに手を振ってみせた。
「もちろん、完全な防水対策とスリップとかの危険を除くことが叶えばの話だけどな。風邪でも引いたら俺が千尋に殴られちまう。あと雷が鳴ってたり台風が来ている場合は別だ」
千尋が唇を尖らせて裕也の足を蹴る。裕也はくすりと笑った。
「それと時間帯。夜の十二時じゃあ早すぎる。たいていの大人はほとんど起きてるだろ」
「そっか」
「もっともっと、みんなが寝静まってる時間帯がいい」裕也は中指で眼鏡を上げ、こちらへ身を乗り出した。「前興味本位で調べたんだけどさ。国の調査では、国民の九六パーセントが眠っている時間帯があるらしい。夜中の三時から四時の間だ。人目につきにくいのは確率的にこの時間が一番だろう。まああんまり現実的な時間帯とは言えないけど、徹底的にやるならそこだ。これもまた体調管理とかできればの話になるけど」
「なるほど」
「あとは二四時間営業の店の近くは通らない、ってくらいか」
路久はいつの間にか目も口もぽかんと開けて裕也の話を聞いていた。正に目から鱗だ。
「……考慮できることってまだ色々あったんですね」
ぽつりとつぶやいた路久の言葉に、裕也は照れたような笑みを浮かべた。
「いや、俺が思いつくのはこれくらいだけどな。あとは路久ちゃんがどこまでやるかだ。他人事だと余計なこと思いつくだけさ」
「ご相談に乗っていただく形になって、本当にすみません」
「いやいや。ああ、そういえば」
裕也は窺うように路久を見、千尋を見て、また腕組みをした。
「今日この目で直に見せてもらって思ったんだけどさ。路久ちゃん、将来その飛ぶ能力を生かした仕事とか考えたことないか?」
「え……」
「来年、就活だろ。色んな仕事が考えられる。サーカス団のパフォーマーとか、陸上の高飛び競技なら間違いなく世界一だ。さっき動画で見たトランポリン競技だってそうだし、街を駆けるパルクールのプロにもなれる。あとは高所作業とか、救急隊なら誰も届かない高層ビル上での救助とか。今思いつくだけでもこんなにある」
路久を見つめる裕也の目は純粋に輝いていた。
「誰も真似できないすごい能力を持ってんだ。それを生かした仕事もいいと思うよ。個人的にはね。イカサマでも何でもない、本物なんだから」
「考えたこと、なかったです」
何とも言えない落ち着かない気持ちになりながら、どうにかそれだけを伝える。視界の端にある千尋の姿がどうしてか気にかかった。そうか、と裕也はあっさり引き下がった。
「考えたことなかったならいいんだ。忘れてくれ。路久ちゃんの能力はそれほど価値があるんだって言いたかっただけだから」
自家用車でやってきたという裕也とは別れ、路久と千尋は最寄りのバス停に向かった。路久はこれから大学へ、千尋は職場へ。月曜日の午前中、ドームでのイベント予定もないこの時間帯は、バス停にも周辺にも人の姿はほとんどなかった。車が時折走りゆくだけだ。気温はそれほど高くないけれど日差しは熱を持っている。季節の変わり目、少し湿り気を帯びた空気をそよ風がゆっくりとかき混ぜているようだった。
そんなのどかな空気とは裏腹に、路久は自分の鼓動を胸の奥で聞いていた。
「路久ちゃん、来年就活する予定?」
「一応。でも何も思いつかなくて」
こんな役立たずで取り柄もない自分が、きちんと就職して社会人になることができるのだろうかと漠然と以前から不安に思ってきた。身近な社会人である両親や千尋とは比べるのもおこがましい。彼らのように自分もなれるなんて全く考えられない、と。
けれど、別れる前の裕也の言葉は、そんな路久に一つの光を提示してくれたように感じていた。それを思い返しているのは路久だけではなかったのだと思うと、自然に思いが口をついて出てきた。
「裕也さんが言ったこと、確かにそうだと思って。驚きました。今おれはビル清掃のバイトしてますけど、清掃ってビルの中だけじゃなくて、ゴンドラに乗ったりハーネス付けて窓を拭く作業員の人もいるんですよね。そういう仕事だったら、おれ高いところ平気だし落ちても大丈夫だし、確かに向いている気がしました」
能力を活かす仕事に就く。
飛ぶという能力が当たり前すぎて、考えたこともなかった。裕也の言葉を聞いたときは途方もないことだと思ったけれど、よくよく考えてみれば、確かにそれは路久の強みなのだ。他の誰も持っていない力。
それに気づくと、急に目の前が開けた感覚がした。様々な温度の風が路久の身体の中を吹き抜け、鼓動を高鳴らせる。
「盲点だったよ。俺も言われるまで気づかなかった」千尋が苦笑をもらす。「まあ、さすがにパルクールのプロとかサーカス団員は極端だけど。高いところでの作業だったら、必ずしも能力のこと言う必要ないし。路久ちゃんきっと得意だよねえ」
「はい。だから……そういう仕事もいいな、って」
つぶやくような微かな路久の声を、千尋はあっさり拾い上げる。
「いいと思うよ。何より、路久ちゃんが考えてみたいと思ったなら」
その言葉に胸が温かくなった。そっと、傍の彼を見る。
「千尋さん」
呼ぶと、彼は「うん?」と路久を振り返った。口元に笑みがたたえられたいつもの表情を明るい日差しが照らしている。その柔らかさを改めて実感して、胸がざわめく。
路久はまず、千尋にもう一度礼を言いたかったのだ。自分のことのように路久の問題に真摯に向き合い、友人を引き合わせてくれたこの人に。
けれど、言葉が出てこない。彼の働きかけがどれだけ路久を救ったことか。たぶんこれ以上ないほどに千尋に感謝の思いがわき上がっているのに――ありがとうございます、という言葉はあまりにも型通りで、ありきたりで、温度も濃度も全く足りないのだ。こぼれ落ちてしまう思いが多すぎる。
こんなときどう自分の気持ちを彼に伝えればいいのだろう。千尋の顔をじっと見つめながら、路久は自分の語彙力の無さを心からはがゆく思った。
不思議そうに路久を見つめる彼の瞳。思いを込めて見交わすことで相手に伝われば早いのに。頭の隅でそう考えたけれど、それはあまりに自分勝手で都合の良い考えだと思い直した。
「路久ちゃん?」
「……あの、本当に、本当に、ありがとうございました」
結局、路久は何度目になるかわからないありふれた言葉を重ね、千尋はにっこり笑って、「俺は何もしてないよ」とまた何度目になるかわからない言葉で応じた。
「ところで、裕也さんのコネって、どういうものなんでしょうか。本当に裕也さんにご迷惑はかからないんでしょうか」
バスに乗り込んでから、路久はもう一つ気になっていたことを思い切って口にした。裕也の口ぶりから、あまり深く尋ねることは躊躇されたものの、どれだけのことをしてもらったのかをきちんと知っておきたかったのだ。不躾かもしれないとも思ったけれど、千尋なら教えてくれそうな気がした。
「そうだね、たぶん大して迷惑はかからないと思う。気にしなくていいよ」
微笑んでそう答えた千尋だったけれど、路久の顔を見て察したか、さらに続けた。
「あいつのお父さんは色んな施設を開発運営してるんだよ。ショッピングモールとかオフィスビルとかマンションとか、不動産関係。それにドームも含まれてるってこと」
まじまじと千尋の顔を見つめると、彼はこらえきれなくなったのかくすっと笑い声をこぼした。
「路久ちゃんのバイト先、あそこじゃない?」会社名を見事言い当てる。路久の驚きの視線を楽しそうに受け止めて「それも裕也のお父さんの会社の子会社なんだよ」と言った。
「……そうなんですか」
ということは、裕也の父親は地場最大手の不動産開発会社の経営者なのか。それで今回、ドームの空き時間を都合してもらったということらしい。
「あんまりそういうことを言いたくないみたいでさ。まあ、当然だよね。俺ももう詳しく聞かないことにしてる」
「へえ……」
バスが交差点を曲がり、窓際の日差しの角度がゆっくり変わった。眩しさに千尋が目を細める。
「いざってときは本当頼りになるから、頼っちゃうんだけど」
言葉が周囲の空気に溶け消えると、沈黙が降りた。二人の他に乗客は数人しかいない。
裕也には何かしらのお礼をしなければいけない、と路久は思った。気にしなくていい、路久だけのためではないと言われたけれど、あれほどの動画を作るには時間も労力もたくさんかかったことだろう。どのくらいの時間をかけたのか、路久には想像するのも難しいけれど。
お礼……たぶん、お金を包むというのは違うだろう、という気がした。おそらく受け取ってはもらえまい。
「あの、千尋さん」
路久は自然に呼びかけていた。
「うん?」
「千尋さんは裕也さんの好きなものとか、知ってますか」
その質問に千尋はやや驚いたようだった。返答の声が裏返る。
「えっ、どうして?」
「いやあの、今回の件、裕也さんには色々していただいたので、何かお礼をしたくて」
「ああ、そういうこと」ふっと千尋が笑う。「路久ちゃんがそんな気を回す必要ないよ。もうジムの方からお礼をもらったって言ってたし、たぶんいらないって言うよ」
確かに本人もそう言っていた。それは路久もわかっているけれど……。
「でも、それはたまたまそうなっただけだし。お仕事もあるのに結構時間を費やしてすごいものを作っていただいたので……。えっと、そういうのって、かえって迷惑なんでしょうか」
ぱちぱちと瞬きをして千尋がこちらを見る。やはり不粋であったかと目を伏せた。いらないと言われているのに強引に物を贈るのは、謝意の押し付け、自己満足でしかない。しかし千尋は腕組みしうーんと一つ唸ると、答えてくれた。
「酒でいいんじゃないかなあ。あいつ日本酒好きだから」
「……あっ、ありがとうございます!」
さらに裕也がよく飲む日本酒の銘柄を教えてくれる。早速路久はその名前を何度も繰り返し頭の中で反芻させた。
「じゃあ、今度うちにあいつが来たら教えようか」
「色々すいません。ありがとうございます」
ほっとして路久は頭を下げた。次の瞬間、あっと声をあげそうになった。
――千尋さんにも、何か贈ればいいんだ。
感謝の言葉を尽くしても足りないくらい感謝しているというなら、千尋に対してもそうなのだ。そもそも裕也を紹介してくれたのは千尋だ。出会ってから今まで、様々なところで世話になっている。それに――
千尋さんに、何か贈りたい。喜んでもらいたい。
じわじわと胸の奥がしびれて、穏やかな熱が広がっていく。何かが胸の中ではしゃいで飛び跳ねるようだった。そっと隣を窺うと千尋と目が合った。
千尋さんの好きなものって何ですか。
そう訊こうとしたのに、なぜか言葉が出なかった。結果、彼と数秒見つめ合う形になった。千尋の頰が染まり、彼は黙ったままぎこちなく目を伏せる。どきりとした。どうしたのだろう。
はしゃいで飛び跳ねていた何かが、今度は小さな拳で内側から路久の身体をぽこぽこと叩く。自分でも何が何やらわからないうちに、路久も頰が熱くなり、慌てて目を伏せた。
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