目くらまし

 しばらくしてようやく呼吸がコントロールできるようになってきた。鼻をすする。すみません、と言ったはずが、鼻が詰まっていたせいでずびばぜん、になっていた。

「大丈夫だよ」

 千尋は背中を撫でる手を止め、少しだけ力を入れてとんとん、と叩いた。子供をあやす仕草そのものだったけれど、それだけで路久にはすべて許されたように感じられ、申し訳ない気分になった。慌てて身体を離す。顔も目もまだ熱を持っていた。

「すみません、いきなりこんな……」

「いいよ」

びしょびしょになった路久の目許を、千尋はハンカチで拭う。何か言う暇もなかった。ますます申し訳ない気分で頭を下げる。

「大丈夫だって」

「あの、それ」

ハンカチを指差したけれど、素早くポケットにしまわれてしまう。

「帰ろう、路久ちゃん」

 アパートに帰るまでの間、路久も千尋も黙ったままだった。路久の方は突然泣いてしまったことについて説明をしなければと思っていて、それは当然千尋から問われることだと思っていたから、拍子抜けした。千尋といてこうも長く言葉を交わさなかった時間はない。落ち着かない気分を抱えながらも自分から声をかけることもできず、一定のリズムで地面を現れる二つのスニーカーを見ながら歩いていた。

 いや、一度だけある。

 二人で散歩へ行って、ビルの屋上から夜の街を眺めたときだ。

 あのときの自分の心持ちや千尋の言葉、すがるように寄り添ってきた彼の体温などを思い返すうちにアパートに着いた。

 部屋の前で別れるとき、初めて千尋が口を開いた。

「あのさ、路久ちゃんに一つ覚えておいてほしいことがあるんだ」

「え、」

千尋の表情はいつものように優しかった。

「俺は、路久ちゃんのこと迷惑だとか煩わしいとか今まで思ったことはないし、これから先もそんなことは絶対ないってこと」

口を開けたままの路久へ、千尋は笑ってみせる。

「絶対ないからね。きちんと覚えておいてね」

「…………」

「返事は?」

「あ、えと、はい」

戸惑い混じりの返事だったけれど、千尋は満足そうにうなずく。おやすみ、と言って彼は自分の部屋へ帰った。その窓に明かりが灯ってから、ようやく路久も部屋に戻った。

 そのままベッドに倒れこみ、目を閉じる。布団の柔らかい感触を頰に受けながら、千尋の言葉を一つ一つ丁寧に思い返す。いつの間にか眠りについていた。



****



 普段はほとんど感情を表に出さない、というより自然に出すことができない彼が、あんな風に自分の前で涙を見せるとは思いもよらなかった。何かよほどのことがあったのか、積もり積もったものが限界を迎えたのか……詳しい事情はわからなかったけれど、千尋は路久の心情を多少推し量ることができた。

 これまでも人に頼ることなく様々なことを一人でこなして来たのだろう。それでいて自己評価が低く、人の手を煩わせることを恐れているのだ。いや、そうであるからこそ何事にも一人で臨むようになったのか。

 飲み会の帰りでくたびれた気分だったときに路久を見つけて。思わぬ幸運を噛み締めていた千尋だったけれど、歩道橋へ歩いて彼に近づいていくうちに少しずつ心が静まっていった。

 路久がただ、夜空をじっと眺めていたから。

 欄干に寄りかかり、明るく輝く半月だけでなく、遠く光を失いつつある星まで見通そうとしているようだった。これといった感情が浮かんでいるようには見えないいつもの表情だったけれど、黒く染まった瞳は夜空を恋しがっている。いつか見た強い瞳とは全く異なるものだった。もし今この瞬間、彼が月の住人なのだと言われても、たぶん千尋は信じただろう。

 ――でも、路久ちゃんは人間なんだ。

 首元に感じる熱い雫と体温が千尋をかき立てる。たぶん泣くという経験すらあまりないのだろう、彼の肩はぶるぶる震えて、呼吸が大きくなったり小さくなったりした。嗚咽をこらえるやり方がわからず、何度も咳き込む。

 この子がいとおしい。

 彼が感じる不安や恐れを、すべて取り去ってやりたい。安心させたい。膨れ上がる強烈な思いを苦労して穏やかなものに変換し、彼に施した。

 ――俺は、路久ちゃんのこと迷惑だとか煩わしいとか今まで思ったことはないし、これから先もそんなことは絶対ないってこと。

 この言葉にどれほどの効果があるだろう。別れ際、言うつもりがなかったことをつい言ってしまったのは、自分が少々急いているからかもしれない。彼との距離をもっと縮めたくて、そうすれば彼の助けになってやれるはずだと思っていて……そこには、自分の欲もあって。

 あのとき、もっと力いっぱい抱きしめ、君はとても素敵な人間で、そんなに自分を卑下する必要はないし、もっと自分に頼るべきだと強い言葉で語りかければよかったのだろうか。

 それができなかったのは、そこに自分の下心が混ざっているのをはっきり自覚したからだった。要するに、普段なかなか感情を表に出さない彼が自分に泣きついて来たことに、千尋は心のどこかで喜びを感じていたのだ。……不謹慎にも。その上でまるで彼のためだけを思っているように触れるのは、多少躊躇いがあったのだ。愛を乞う場面であればともかく、あれはそうではなかったのだから。

 神経質に過ぎるな、と苦笑した。今までの恋愛では瞬きの間に消え去るような些細な心の動きだ。路久という青年が、千尋にとってとても純粋で清廉であるために、どうしても自分の内面を照らし合わさずにいられない。そうして今、宝物のように思い返しているのだから。

 翌日、携帯電話にメッセージが届いていた。送り主は路久だ。朝出勤前に送ってきたようだ。

『昨日はご迷惑をかけて本当にすみませんでした』

『誘ってもらってありがとうございます。また次の機会には参加させてください』

 社交辞令の常套句のようなメッセージに、千尋は顔をほころばせた。彼の場合、これが本心なのだとわかる。連休中に会えないのは残念だけれど、惚れた相手から多少なりとも信頼してもらえることは喜ばしいことだった。



 裕也からの連絡は二週間後に来た。

『目くらましの件、一応完了だ。俺のリクエストにも目処がついた』電話口でもいつも通り、彼の口調はさっぱりしていた。『お前、再来週の月曜日、休み取れるか』

「え、月曜日?」

転職してからまだ二ヶ月半ばだ。再来週であれば有給休暇は付与されるだろうが、もらったばかりで申請するのも気が引ける。千尋が言い淀んでいると、

『午前中だけでいい。厳しいなら当日風邪引いたことにでもしとけ。大事な路久ちゃんの件だぞ』

と続く。そう言われるとうなずくしかない。

「わかった、なんとかする。ていうか当の本人の予定が合わなきゃどうしようもないんじゃないの」

『悪いが日程は動かせない。平日の昼間ならバイトもないだろ』

「いや普通に大学あるでしょ」

『出席取らない寛大な講師であることを祈るね』

仕方がないのですぐに路久へメッセージを送った。

 返事を待つ間に具体的な待ち合わせ時間と場所を聞く。はっとして千尋が息を飲むと、それを察したか裕也は楽しそうに笑った。

『いいアイディアだろ』

「さすが」

『まあ、親の力だけどな』

 路久の返事は意外と早く送られて来た。

『大丈夫です。行けます』

『ごめんね、大学もあるのに』

『裕也さんにお願いしてることは、大学よりもずっと大事なことですから』

これも本心だ。千尋は苦笑した。



 路久は実際にその建物を目にするまで、裕也の考えに全く見当がついていなかったらしい。中に入った今は、茶色の瞳をきらきらと輝かせて辺りを見回している。

 確かに、これだけ広い屋内施設は他にない。

 ドーム球場だ。

 昨日地元プロ野球チームの公式戦があったばかり。巨大なドーナツのように視界いっぱいに広がる数万の応援席と、その中心にある緑色のグラウンド。応援席の真上から降り注ぐ照明の光は思いの外眩しく、白く小さな太陽のかけらを無数に閉じ込めているようだ。三人はファースト側のゲートから入り、一番前の客席まで降りて来たところだった。

「広いですね……」

 珍しく路久が感嘆の声をもらした。これだけ広い空間でも、長時間遮断されていた空気の独特の匂いがある。すっきりとした外気とはやはり違うようだ。

 裕也が二人を振り返って話し始めた。

「さて、今日は日時指定で悪かったな。ドームは一時間貸切、誰も入らないようにしてもらったから、遠慮なく過ごしてくれ。それで例の動画の目くらましの件だけど――」

「ええっ!」

 路久が叫ぶ。彼にしては大きな声だったけれど、ここではその程度の声量は壁にも天井にも届くことなく消えるだけだ。

「か、貸切?」

「そうだ」

「ドームって……貸切とかできるんですか」

目も口も大きく開けて尋ねる。よほど驚いたのだろう、あの路久が前のめりになっている。裕也は笑って答えた。

「うん。アマの草野球チームとかでもオッケーだし、アーティストのライブとか、イベントとか、フリーマーケットの会場とかあるだろ? まあ普通この時間は駄目なんだけど、今日はグラウンドには下りないって約束で特別にな」

「なるほど……で、でもそれってお金かかるんじゃ」

一気に顔色を青ざめさせた路久に、ああ、と裕也は手を振る。

「お金は気にしなくていい。俺のリクエストなんだしな」

「え、でも、」

「大丈夫だよ路久ちゃん」

千尋は口を挟んだ。

「裕也はここにちょっとしたコネがあるんだよ」

「ま、白状するとタダだ。気にすんな」

二人からそう言われた路久は言葉を失い、忙しく瞬きをし、視線をそわそわと動かした。彼の性格を考えればタダだと言われてはいそうですかと飲み込めるはずもない。本当にすいません、ありがとうございますと繰り返し頭を下げる。今日は待ち合わせの時から千尋と裕也に仕事を休ませてしまったことを平謝りしている路久である。その気持ちはもう充分受け取ったし、本当に気にしないで欲しかったので、千尋は彼の肩を軽く叩き、話を進めることにした。

「それで、目くらましって言ってたのはどうなったの」

「これを作った」

 近くの応援席に並んで座った千尋と路久に、裕也はタブレット端末を寄越した。例の動画共有サイトである。

 映像に現れたのは、千尋とそう変わらないくらいの年齢の青年だった。動きやすそうなスポーツウエアを着ている。場所は屋内施設。そして……

「トランポリンだ」

千尋は思わず声を上げた。

 青年はこちらに手を振ると、腕を振り上げて踏み込み、高く飛び上がった。二回、三回、四回目には空中でくるりと一回転する。

「大学の後輩がでかいスポーツジムで働いてんだけど、そこに結構本格的なトランポリンの設備があってさ。宣伝も兼ねてちょっとした余興動画を作らせてもらった」

何度か跳躍を繰り返した青年の背景が徐々に塗り替わる。夜の街だ。

 路久がまた目を丸くさせて画面に見入る。

 ビルの明かりやネオンが輝く夜の街を背景に、青年が飛び回っているような映像ができあがっていた。わざわざズームアウトして足元まで見せる徹底ぶりだ。ビルの屋上を足場にぐっと屈んで、向かいの大型商業施設までふわりと飛ぶ。間髪入れずに次の建物へ。画面の下に小さな文字で「※この映像はイメージです。決して真似をしないでください」と注意書きがあるのに気づいた。

「路久ちゃんの映像にそっくりだ……」

 ため息交じりに千尋は言った。上手いこといっただろ、と裕也が応じる。

「四つのトランポリンをつなげた間を行き来してもらって、それを少しゆっくりめに再生させて、あとは動きに合わせて背景を敷いただけ。けど、結構似てるだろ?」

落ち着いた声の中にも弾むようなうれしさがのぞいているのが千尋にはわかる。路久が応じて何度もうなずいた。

「すごいです、本物みたい」

「本当は後ろとか前とかからのアングルも入れたかったんだけどな、流石に撮影が難しかった。

 このアカウントはスポーツジムのやつだから、例の動画を上げたやつよりよっぽどフォロワーも多い。どっちもここの地元だし、もしかしたら路久ちゃんの動画を見たやつがこっちのも見て、引きずられて加工動画だって思ってくれれば御の字。言った通りの目くらましってやつだ。まあ、可能性としてはめちゃくちゃ低いんだけどな。後はこっちの動画が多少話題になるような仕掛けができればベストなんだが」

「いいえ!」

路久は立ち上がり、裕也に向き直った。

「充分です。ありがとうございます。わざわざこんなものまで作っていただけるなんて」深々と頭を下げる。その肩を裕也は軽く叩いた。

「大丈夫だよ。こっちはスポーツジムの宣伝も兼ねてんだ。あっちからお礼ももらってるし、気にしなくていい。それに本当に目くらましでしかないからな。路久ちゃんの動画を見たやつがこっちを見てくれるかどうか、保証はできない」

「いいえ、充分です」

もう一度路久は同じ言葉を繰り返す。乏しい表情の中に彼がどれほど感謝の思いと、それと同じだけの申し訳なさを感じているか、千尋にはよくわかった。きっと裕也が想像する十倍以上はあるはずなのだ。

「よし。じゃあ、交換条件。俺に本物を見せてくれ」

 裕也がタブレット端末を鞄にしまって言う。その言葉に路久ははっきりとした声で、

「はい」

と即答し、足早に千尋と裕也から距離を取ると、あっという間に宙に飛び上がった。

 その姿は実に軽やかだ。身体を自由に動かせる喜びを全身で噛み締めている。路久の笑顔。心からあふれるうれしさをこらえきれないと言った様子だ。数週間前に見た寂しげな表情や、涙をこらえていた姿が脳裏によみがえる。

 ――すいません、おれの……問題なのに。

 ――どうしておれなんかのために、そこまでしてくれるんですか。

 改めて、「飛ぶ」ということが彼の心身にとってどんなに重要なものかを千尋は実感する思いだった。そして、彼が普段どれほど自分を封じ込めているのかも。胸がきりきりと痛んで、目の周りが熱くなってくる。

「…………」

裕也の方は、声を出すことも忘れて驚いていた。込み上げてくるものを飲み込んで、千尋は軽く笑って見せた。

「ね? 路久ちゃんすごいでしょ」

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