半月

 その夜、路久はベッドに入って横になり、昼間のことを色々と思い返していた。裕也はやはり信頼できそうな人だった。千尋の真摯さが申し訳ないほどだった。それでも心のどこかでは絶えず落ち着かない気持ちがある。おそらく相手が誰であれ仕方のないことなのだろう。

 これまで二一年間誰にも打ち明けて来なかったことを、今になって他人に明かすことになるとは思わなかった。けれどなんとなく、何かが変わりつつある予感を路久は感じていた。例えば、海辺に寄せては返す波が徐々に色を変え、大きくなっていくような。

 裕也は「目くらまし」を行うにあたって路久へ一つ条件を出した。

「一度でいい。その路久ちゃんの飛ぶ様子を見せてくれないか。写真や動画は絶対に撮らないし、もちろん誰にも言わないから。そんな夢みたいなすごい能力があるなら、この目で見てみたいんだ」

路久は一も二もなくうなずいた。秘密を秘密としたまま協力してもらおうとは少しも考えていない。他の誰でもない路久の問題を考えてもらっているのだから。

「でも、すぐには無理だよ。動画の件が多少落ち着かないと散歩はできない」

千尋が口を挟む。

「ああ。だから目くらましの方は先に進めさせてもらうよ。そうだな、路久ちゃんの能力を見せてもらう場所も、時間がかかるだろうが当てはある」

思わず千尋を見ると彼と目が合った。裕也の口調があまりに容易いものに聞こえて拍子抜けしたのだけれど、それは千尋も同じだったらしい。

「秘密は必ず守る。千尋から恨まれたくもないしな。その代わり細かいところや具体的なことは、悪いが俺に任せてほしい」

「まあ、裕也の言うことだから任せられると思うけど……どうかな」

 ここまで言ってくれるのなら、あとは裕也に対する千尋の信頼を信じようと思う。元々ここへはその覚悟でやってきたのだ。

「よろしくお願いします」

路久は裕也を真っ直ぐ見、心から頭を下げたのだった。



 それから一ヶ月ほどは、これまで通り大学の授業とアルバイトに専念する形となった。夜の散歩はもちろんなし、連休も全てアルバイトに費やす予定だ。尤もそれは今年に限ったことではない。ゴールデンウィークの引越し業はそこそこ稼ぎ時なのだ。

 連休前の四月末、大学で路久は一人教室に座っていた。普段から出席者が少ない講義ではあるが、誰もやってこないとはどういうことだろう。

 どうやら休講になったらしいと気付いたのは、開始のチャイムが鳴ってからだった。初めてのことではない。掲示板に通知が貼り出されているかもしれない。

 席を立つ。照明を消し、教室を出る前に振り返ると、そこにはしんと静かな空間が広がっている。散歩の時に見る景色と似ているけれど、親しみは感じなかった。

 果たして、中央広場の掲示板の隅にはその旨の貼り紙があった。まさか学生の誰も彼もがこの古びた掲示板の細かな文字など確認するはずがないから、皆友人や知人づてにその連絡を受けていたのだろう。彼らは片石路久ではない。そういう情報を教えてくれる相手がきちんといるのだ。


 その後食堂へ向かい、飲み物を買っているところに「片石くーん!」と声をかけられた。見知った顔が数歩先のテーブルから手を振っている。

「あ、どうも」

 同学年の女子学生だ。彼女は路久とは学生番号が前後ろで、その上二年生まで基礎科目が同じだったことから顔見知りとなり、見かけると声をかけてくれる。そういう同年の学生はゼミにも一人いて、彼らのようなのお陰で路久は致命的な不利益を被ることなく大学生活が送れている。

 ちなみに以前、アルバイト先の紹介を頼まれて、路久が働く引越し会社を彼女の恋人へ紹介したこともある。彼は一週間と続かなかったけれど。

「お疲れー、元気? ゴールデンウィークはどっか行ったりするのー?」

「あ、うん元気。連休中はずっとバイトだよ」

「やっぱりー! 何か片石くんって常に働いてるイメージある! 遊んだりしてないでしょ」

 先の休講となった講義は彼女も取っていたはずだ。空き時間に道連れがいなくて暇なのか、誰かと待ち合わせているが相手が現れないから手持ち無沙汰なのか、恐らくそのどちらかだろうと見当がついた。

「結局サークルも入んなかったしさあ。私あんなに勧誘したのに」

 スポーツは昔から苦手だった。理由は単純で、能力を抑えた上で身体を全力で動かすというのが難しいからだった。野球、テニスまではまだかろうじてやれるとしても、サッカー、バスケ、バレーのように跳ぶことを要求されるスポーツはとても神経を使う。何より、どんなスポーツも叶わない楽しくて快い日課が路久にはあるのだった。今はできないけれど。

「バイトも楽しいよ。きついけど、身体動かすの好きだし」

 当たり障りのない返答を返す。こんなとき、口を滑らせたことは一度もない。何しろ千尋を除けば一五年以上誰にも打ち明けたことがないことだ。能力に関する事柄は肉体とは密につながっていても、声帯とは直接繋がらないところに存在しているのだ。

「へぇー。引越しでしょ。すごいよねえあんなにキツそうなのに」

それから彼女は自身の連休の予定を話し始めた。台湾旅行へ行くらしい。

「そっか、楽しみだね――」

路久がそう相槌を打ったとき、突然彼女が声を上げて携帯電話を取り出した。もしもし、遅いよー、二〇分も待ってんだから! 今どこ? と話し始め、席を立つ。路久に目を合わせることなく、彼女はそのまま食堂を駆け去ってしまった。

 口を開けたまま置いていかれた路久は、なるほど彼女は待ち合わせ相手と連絡が取れたらしい、と理解した。飲み終えた紙カップを捨て、食堂を出た。


 木々の緑はまだ柔らかい色で、風が運ぶ空気はとても澄んでいるように感じられた。大学の敷地を一歩出ればたくさんのビルや車道に囲まれているというのに、不思議なものだ。

 一度転がり始めた思考は、些細なことを巻き込んで加速していく。大学の講義について周りの学生たちは互いに情報交換し、ノートの貸し借りをして試験を乗り切る。昼になれば食堂に仲のいい者たちで楽しく食事をし、放課後は部活やサークルで仲間と有意義な時間を過ごす……。これまでずっと身近に目にしてきたけれど、自分とは違う世界だと思っていた。だからあまり考えたことがなかった。なのにどうして今、こんなにも打ちのめされたような気分になっているのだろう。

 別れの挨拶をなおざりにされたことなど数え切れないほどあったのに。彼らと自分がどれほど違うかなんてこれまでの人生の中で身にしみてわかっているのに。どうして今さら虚しい気持ちになっているのだろう。

 散歩がしたい。飛びたい。目を閉じ、強く思った。

 全てを忘れて、自分と世界の二つだけが存在するあの時間を感じたい。


 その日の夜、食事中に千尋からメッセージが届いた。彼とは動画の件で裕也を紹介してもらった日以来、アパートでも顔を合わせていない。隣の部屋の玄関の音が遅くに聞こえるので仕事が忙しいのだろうと思われた。話題は連休のことで、彼は日帰り旅行や同窓会など色々と予定が入っているらしい。

 社交的な彼ならきっとそうだろうとわかっていた。のろのろと携帯電話を操作し楽しみですね、と返信する。どうも指先も頭も石に変わってしまったかのように重く、思うように動かなくなっているのだ。

『それでさ、よかったら連休最終日、バイト終わった後でもご飯行かない?』

『こないだ会った裕也と、その彼女の綾って子もいるんだけど。その子も裕也と同じで幼なじみでね。もちろん能力の話とか動画の件は一切しないって裕也と約束してるから」

 優しい千尋からの誘い。けれど、心の内側を引っかかれたような痛みを感じて、ぎゅっと携帯電話を握りしめた。どうしてだろう。裕也も信頼できる人だったし、その恋人というのなら、綾という女性もきっと同じだと思えるのに。

 携帯電話をテーブルに放って、ベッドに倒れ込む。静かな部屋に投げやりな音がやけに響き、そのことにすら罪悪感がわく。

 例の動画の件以来、心の奥底で感じていた気持ちが、さっきのやりとりで突然目の前に現れたようだった。とっくに飲み込んだと思っていたのに、嫌な気持ちだ。自己嫌悪と、みじめさと、恥ずかしい気持ちがない交ぜになって身体の隅々まで染み出している。

 裕也という千尋の友人。二人が話す様子を見ていると、自分が少しずつ周りの風景に溶け消えていくような感覚を覚えるのだ。別にそれ自体は初めてではない。二人とも他でもない路久の問題について真剣に考えてくれているというのに。――いや、だからこそ。

 きっとお互いに助け合い支え合いながら過ごしてきたのだろう。千尋の失恋のときも、裕也が何か苦労したときもそうだったかもしれない。

 おれはそんな二人の間に入って邪魔をするどころか、自分の問題を二人に投げてしまっている。おれみたいな退屈で、役立たずで、つまらない人間のために。

 そんなこと、随分前に飲み込んでいたはずだ。つまらない人間だから路久はいつも一人で、役立たずだから誰の重荷にもならないように生きてきた。それが当然のことだと思ってきたのに。

 ぞっと総毛立つ。

 今、そのことが、とてつもなく恐ろしく淋しく感じた。世界の中で自分一人だけが透明人間になってしまったような感覚。誰にも気付かれず、必要とされず生きていく。

 メッセージの返信をしなくては、と思いつつも路久はベッドから起き上がることができなかった。

 ――バイト終わりなら空いてます。おれでよかったら、ごはん行きたいです。

 ――ごめんなさい。その日は予定があって、ちょっと厳しいです。

 思い浮かんだどちらの返事も嘘だ。彼に嘘をつくこと、嘘の返事しかできない自分がみじめだった。


 翌日は朝から雨が降っていた。いつもならアルバイト先までは自転車で行くところを電車で向かう。駅から降りてさらに二〇分ほど歩く。まるで路久の気分に配慮しているというように申し訳なさそうに降る霧雨は、見た目より簡単に身体を濡らす。今日のアルバイトは厳しいものになりそうだと思い、そしてそれは現実となった。

 けれど濡れた服に身体が冷やされるのは悪くなかった。このまま芯まで冷えれば寒さ以外には何も感じずに済むだろう。濡れた帽子をかぶったまま黙々と荷物を運び、トラックでの移動中に身体を拭いた。

 昼過ぎには雨が上がったけれど、今日はさすがに仕事上がりの飲み会もないらしい。夜八時、仕事が終わると皆それぞれ解散し、路久も帰路についた。

 

 周りの乗客に流されるようにして電車を降り、駅を出る。手のひらからこぼれ落ちたビー玉のように、出口からたくさんの人が思い思いの方向へ歩いていく。その中で路久は歩道橋を通る集団の後ろに続いた。足取りは重い。千尋からのメッセージにはまだ返信していなかった。

 地面はもうすっかり乾いていて、雲間から月が見えている。きれいに半分切り取られた月。散歩のときはいつだって手が届きそうにも感じたのに、今は遠い。……いや、届きそうだと感じていただけで、あのときも本気で届くとは思っていなかったと思い出す。

 千尋に近付きすぎたのだろうか、と路久は思った。

 分不相応に彼に近付きすぎた結果、分不相応な淋しさを感じているだけなのだろうか。彼には、裕也やその他にもたくさんの友人がいる。彼にとって路久はただの隣人。その他大勢でしかないのに。

 歩道橋の手すりに身体を預け、視界に映る夜の街並みを眺める。そうしてしてもいたずらに時間が過ぎるだけで、何かがいい方向に向かうわけでもない。少し考えては返信のメッセージを打ちかけ、やはり取り消すことを繰り返した。帰宅すればその物音が千尋に伝わる。彼はメッセージの返信がないことを思い出すだろう。……いや、今日から旅行に出かけるなどしていてアパートにはいないのかもしれない。どちらだろう。わからない。どちらも路久にとっては淋しいことには違いなかった。

 背中越しに人の流れを感じ、自分だけがどこへも行けないような心地になる。そうであればあの動画の件なんて気にする必要はないのかもしれないな、と頭の隅で皮肉っぽく考えた。誰の目にも留まらないのなら存在を知られることもない。その皮肉の痛烈さにまたみじめな気持ちになる。全くくだらない、どこまでも後ろ向きな思考に嫌気が差す。

 そのとき。

「路久ちゃん?」

「……!」

 聞き慣れた声が傍で聞こえ、どきりとした。振り向くと千尋が立っていた。

「あ、ごめん。びっくりさせちゃった」

「千尋さん、」

「バイト帰り? ずいぶん遅いね」

はっとして時計を見る。もう十時になろうとしていた。

「あ……いや、あの、えっと」

咄嗟のことで言葉が出ない。理性は千尋に伝えなくてはならないことを次々に投げてくるが、感情はそれをいちいち叩き落とす。二つがせめぎ合って路久の全身を動揺させ、誤って携帯電話を落としてしまった。そしてそれを拾おうと屈んだ拍子に傘を取り落とす。

 大丈夫? と千尋が傘を拾ってくれる。慌てて受け取り、頭を下げた。

「すみません。ちょっと考え事してて……。というかメッセージ、まだ返事してなくてすみません」

「……もしかして俺、悩ませちゃった?」

千尋が眉を下げる。

「いや、その……」

路久はまた返答に窮した。彼のせいだとはまったく思っていないけれど、原因はその通りなのである。ごめん、と千尋は顔をしかめて謝罪をする。

「バイトでくたくたになってるだろうし、裕也はこないだ会ったばっかりだし、それに加えて会ったこともない子とご飯って言われても困るよねえ。本当言うと、俺が誘ったからってプレッシャーにならないか心配だったんだ」

意外な言葉に路久は目を丸くした。誘った方が謝ることなどどこにもない。返事ができなかったのは他の誰のせいでもなく、自分の心のせいなのだ。

「そんな、とんでもないです。おれが……」

 それから、言葉は途切れた。この期に及んでも答えを口にできない臆病者。千尋は笑いかけてくれる。彼が一歩近づくと、歩道橋の足元に設置された街灯の光が届き、ぽっとその表情を照らした。穏やかな笑み。

「大丈夫。都合が悪いならそれでいい」

「……千尋さん」

「無理しなくていいんだよ」

彼の手が伸びて、路久の髪に触れる。壊れものを扱うように優しく頭を撫でられた。快い感触に思わず力が抜ける。じわじわと小さなしびれが首や頬を包み込んだ。それは熱を伴って、目の周りに集まってくる。

「……ごめんなさい」

「そんな顔するほどのことじゃないって。ほら、逆の立場で考えてみてよ。路久ちゃんが俺のこと誘ってさ、俺が断ったからってムカついたりする?」

そんなこと、と路久は目をみはって首を振った。

「それと同じだよ」

「同じ」

「うん、同じ」

幼子のようにおうむ返しをした路久を見て、千尋は頷く。彼の表情を見て路久は悟った。後ろ向きな路久がこれ以上落ち込まないように、自身を責めないように、彼が心を砕いてくれていることを。

 不意に目頭が熱くなる。どうしてだろう。これまで何度も心の中に生じた疑問が一層強い波となって路久を襲った。

 どうしてこの人は、こんなおれに真っ直ぐ向き合ってくれるのだろう――

 視界が潤んだ。目の前の千尋の姿がわからなくなるくらいにぼやけて、その瞬間、ずっとせき止めていた思いがあふれ出そうとする。まずい、駄目だと必死に歯を食いしばる。突然何だ、やめろ、気持ち悪い、千尋を戸惑わせてしまう、場の空気がおかしくなる――冷静な思考が入り乱れるけれど、何の効果もなかった。とうとう雫がぽろりと頰にこぼれた。

「路久ちゃん?」

 千尋の声は驚いたせいなのかかすれていた。とっさに顔をそらす。それでも声が出なかった。喉が熱く締めつけられて痛むのだ。

「どうしたの」

首を振る。涙を拭えば泣いていることを明かしてしまう気がして拳を握りしめる。

 ふと、目許に冷たいものが触れた。というより、路久の頰が熱くなっているのだ。千尋の指だった。こぼれた一筋を拭う。驚いて目を向けると、彼の瞳が真っ直ぐ自分を見ている。そこには既に戸惑いはなく、ただ優しかった。

 いつものあの静かな世界にいたなら、そもそも涙を流すことはなかった。けれど今ここは駅前の歩道橋の上で、夜空は高く遠い。辺りには通行人が、そして目の前には路久の言動を目の当たりにしている人物がいる。高低様々な靴音。自動車の走行音とクラクション。一瞬だけ鼻を通って消えるファストフードの油っぽい匂いや甘い香水の匂い。目をかすめる湿り気を帯びた風。

 自分の足元にある地面がどんどん削れて細く不安定になっている気がした。些細な風でぐらつき、今にも倒れそうだ。どうにか上手くバランスを取ればまだ立っていられると思うけれど――。

 千尋が黙って路久の頬を撫でた。そして耳の後ろからうなじの辺り。限界だった。

 まだ一人で立てるとわかっていても、今はこの人に寄りかかりたい。

 彼の手に促されるようにして、その肩に顔を埋めた。上着の端を掴む。するともう一方の手が背中に回されて、それに押し出されるようにどっと涙が出た。

 千尋さんは、本当に優しい。

 他人の前で泣くのは、初めてだった。

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