喫茶店
少し考えさせてください、と言ったけれど、実際のところ路久の心はほとんど決まっていた。すぐに返事をしなかったのは、とりあえず一人になってもう一度この問題を検討したかったのと、千尋にも休んで欲しかったからである。
路久の飛ぶ姿が映った動画。黒い服を着ていても、光源があればシルエットは捉えられてしまう。この街で派手なネオンや遅くまで照明が点いているビルを避けることができても、月明かりが届かない道を選ぶのは困難だった。というよりほとんどないのだ。
また、風にあおられることがなく動きやすかったので身体にフィットした服を着ていたけれど、それも良くなかった。ぴったりとした服は、体の輪郭がはっきりわかる。顔が見えなくても人間であることはわかってしまうのだ。
やっぱりもう、無理か。
最初に動画のことを聞かされたショックが落ち着くと、大きな失望がのしかかってきた。散歩はやめると言ったけれど、やはり辛い。路久の心身にとって何より大事な日課であったし、それに。
――ショッピングモールくらいだったら、また行きたいな。
千尋の声がよみがえる。また彼と一緒に散歩できる日を楽しみにしていたのに。あの静かな世界で二人、遠くを眺めていた時間は、路久にとって大切な思い出となっている。今度は綺麗な夜景が見える場所へ、もっと負担が少ない方法で行けるようにと、色々と考えていた最中だった。
たぶん、千尋の友人という人は信頼できる人なのだろう。路久は確信していた。パソコンの前であれだけ動揺した千尋が真っ先に頼った相手だったから。
例の飛び降り事件のときも、きっと彼の支えや励ましを得て、乗り越えたのだろう。具体的なことは想像もつかないけれど、電話で話す二人の短いやり取りがかえって相手への信頼を感じさせた。
――そいつとは小学校の頃からの付き合いで、秘密を見境なく喋ったりしない。信頼できるやつなんだ。路久ちゃんの力のことは絶対誰にも言わないように約束させるから。っていうか、約束させるまでもなくそのくらいのことはすぐにわかっちゃうくらい頭が良いんだ。だから心配する必要はないって俺は思ってる。
本当だと思う。だから、相談してみようと思う。
千尋は信頼できる人だ。だからその彼が言うなら、信じられる。
そう確信しながら、どこか心の遠くで寂しさを覚える。例によって路久には馴れたものですぐに飲み込む。胸の奥がぴりりとしびれた。
二日後、相談したい旨を千尋へ伝えた。彼はすぐに段取りをつけてくれ、週末、急遽アルバイトを休んでその友人に会うこととなった。
「何にも気にしなくていいからね」待ち合わせ場所である喫茶店へ向かう電車の中で千尋は繰り返した。「話してみて、やっぱり言えないと思ったなら言わなくていい。それは向こうにも伝えてるし、そんなことで気分を悪くするやつじゃない」
思わず千尋を見つめると、彼は優しく笑った。
「話したくなかった場合は、ただのお茶会になるだけだよ」
彼に気を遣わせているのが申し訳ないと思う。けれどありがたかった。路久の思いを尊重してくれている証拠だったから。
電車の窓ガラスに映る自分と彼の並んだ姿が、明るい春の街の風景に透けている。お互いカジュアルなジーンズ姿で、まるで普通の友人同士のようだ。千尋と二人で話したり行動したりすることにはだいぶ慣れたように感じていたけれど、まだ路久は緊張していた。こうして昼の明るい時間に、周囲に人はいるけれど静かな電車内では、じっと立っているのも落ち着かない。
本当にいいのか。
走行音を足裏に感じながら自問する。
思い返せば、あまりにも安易に決断してしまったような気がした。丸二日近く考えたけれど、それも結論ありきだったように思う。自分らしくない。けれどどうして自分らしくないことをしたのか、考えたくなかった。
千尋は一言も言わなかったけれど、その友人が必ず協力してくれるとは限らないのだ。彼の千尋に対する信頼のおこぼれにあずかっているだけ。路久の安易な行動の結果、千尋もその友人も巻き込んで大変なことが起こってしまったら――
外の景色から目をそらす。またじわりと胸が痛んだ。澱のようなものが少しずつ、けれど確実に溜まっていく感覚。何もかも放り出して、思い切り飛びたいと思うのはいつもこんなときだ。
千尋の友人は、裕也といった。背が高く動作はきびきびとしていて、細いフレームの洒落たメガネがよく似合う。ビル清掃のアルバイト中に見かける、五階のベンチャー企業社員とよく似た雰囲気を持っていた。頭が良い、という千尋の評に納得がいく。軽い挨拶を終えて席につくと、彼はすぐ声をかけてきた。
「路久くん、吸わないんだっけ」
「あっ、はい」
「たばこ平気? ごめんな、喫煙席で」
「いえ、全然大丈夫です」
「裕也のお気に入りなんだよねえ、この店」
「喫煙者はどこも肩身が狭いからさあ」
店内は少し天井が低めで、壁際にはランプの形をした照明が並んでいる。目隠しにおいてある観葉植物といい、ソファやテーブルのデザインといい、どこか古風な趣があった。
裕也がたばこを挟む指を軽く上げてみせる。向かいの席に収まった路久は応じて軽くうなずいた。煙がくゆる。千尋の二、三歳年上と言われても違和感がないほどだったけれど、二人は同い年だという。
「君が例のあの子だろ」
注文を済ませてすぐ裕也にそう問われ、路久は首を傾げた。
「うちの千尋を送り届けてくれた、何だっけ、天使?」
「てんし」ますます首を傾げる。
「裕也っ!」
千尋が珍しく非難の声を上げたので、路久は驚いて傍の千尋を振り返った。しかし言われた方はまるでこたえていない。
「いや、こいつから最初に路久くんの話聞いたときさ、今時そんな優しいやついるのかって俺と綾は疑ってたんだよ。酔い潰れた赤の他人を自分ちで介抱するなんてさ。けどこいつの方は『天使かと思った』とか言ってて」
「天使、ですか」
綾というのは二人の共通の友人だろうか、それとも恋人だろうかと思いながら訊き返す。
「ものの例えだよ! それくらい本気で助かったってことを言いたかっただけじゃん! 変なとこだけ路久ちゃんに聞かせないでくれる?」
どうやら千尋と最初に会ったときのことを言っているらしい。事情が事情なだけに路久としてはごく常識的なことをしたまでだったが、真っ赤になって言い返す千尋を見ていると、なんだか自分まで耳の後ろの辺りがこそばゆくなってくる。
天使とは。
「まあ、結果的に路久くんが本当に天使だったみたいで俺たちも安心したよ。色々ありがとな」
「いえ……」
裕也の笑顔には、千尋のような柔らかさとか温かみとは違った、こちらの心を包み込むような深さがあった。路久に兄弟はいないけれど、「兄」とか「先輩」という位置にいつもいる人なのだろうと素直に感じた。
注文した飲み物が運ばれてきて、しばらく三人で雑談を続けた。主に裕也が路久に質問する形である。
千尋の口調はいつもよりずっと優しくて、こちらを気遣ってくれているのがよくわかった。どうして彼はそうなのだろう、といつもながらに思った。
――天使かと思った、って言ってて。
裕也の言葉を思い出す。
それを言うなら、千尋さんの方が天使じゃないか。
ただの隣人でしかない路久に何かと声をかけてくれて、常識外の能力を受け入れて。今だって路久個人の問題を自分のことのように考えて奔走している。わざわざ休日に自分の友人を連れてきてまで。
そう思うと、胸の辺りに熱い湯が染み出してくるような感覚がした。そんなものには今まで覚えがなく、戸惑う。
裕也がトイレに立ったとき、千尋が路久を振り返った。その目がこちらをうかがっていた。
――どうかな、相談してみる?
そう訊いているのだと目を見ただけでわかった。初めてだった。
路久は小さくうなずいた。
裕也が戻ってきたところで、まず千尋が切り出した。
「それで裕也に相談したいこと、なんだけど」
「あれか、動画の削除のことか」
彼の視線が路久を捉えたので、応じてうなずいた。当事者は自分だ。相談するとしたらきちんと自分が話さなくてはいけない、と覚悟していた。
「自分が映ってる動画がネットに上がってたんです。でも、顔がはっきり映ってるわけじゃなくて。でも絶対に自分なんです。……しかも誰にも見られたくないところが映っていました」
裕也は路久の話を遮ることも、疑問を口にすることもなく、黙って聞いていた。
鼓動が速くなり、冷や汗がふきだすのを感じる。唾を飲み下し、路久は意を決して口を開いた。
「……これが、その動画です」
声が上ずって震えた。自分の携帯電話を祐也に差し出す。彼は一度路久を見、確認するように千尋を見た後、丁寧な手つきでそれを受け取った。
再生される動画を裕也は黙って見ていたが、ある瞬間、はっと目を見開いた。ほう、という吐息のような声がもれる。
路久の腹の中では、姿のわからないどす黒い何かが、あるいは眩しいほどに白く清廉な何かが執拗に皮膚の内側へ爪を立て引っ掻き責めている。それでいいのか。本当にそれでいいのか。お前は取り返しのつかないことをやったのではないか。致命的な亀裂、あるいは断裂が生じれば最後、平穏な日常は二度と戻ってこないのではないか――。
鼓動は更に早まる。唇を噛み、唾を飲み込む。心の中の罵声と痛みに黙って耐え、路久は裕也が動画を見終えるのを待っていた。数分の時間が何時間にも感じられる。
やがて、裕也は顔を上げた。
「ここに映ってるのが路久ちゃんか」
はっと路久も顔を上げる。裕也と目が合った。
「よくできてるな」
「……えっと」
戸惑う路久を落ち着かせるように、裕也はうなずいた。
「って言いたいとこだけど、投稿主は偶然撮れたって書いてる。まあ嘘なんていくらでも書けるが、加工動画にしては不鮮明過ぎてパフォーマンスとしてあまり良いものとはいえない。明日デジ一で張るって言った割に次の動画も投稿されてないしな」
「そこまで見てたの」
千尋が声を上げる。
「ということは、これは本物なのか、と思える余地もある。まさかこんな遠くのビルからビルに生身で飛び移るなんて芸当、普通の人間にできるとも思えないけど、かといって鳥や犬猫には到底見えん。だからまあ、UMAだって言う投稿主の気持ちもわからんでもない」
路久と千尋を交互に見ながら、裕也は続けた。
「加工動画とも本物ともつかない、不思議な動画だな。まあ、本物だって思えるやつにとっては興味を惹かれるんだろうけど、大抵は加工だろってスルーすんじゃないのか。……ってのが、素直な感想だけど」
携帯電話を裕也から受け取った後、路久は一度深呼吸をして、慎重に切り出した。
「……実は加工じゃないんです。それ、本当に、飛び移るおれを映しただけの動画なんです」
裕也は驚きの色を瞳にたたえて路久を見た。
「だから問題なんだ」
千尋が静かな口調で続く。
「信じられないかもしれないけど、まずは聞いてほしい。これは、実際にこの子の行動を撮った動画なんだ。実在する。だけどこのことは秘密にしてるんだ。だって、こんなことができる人間がいないって、裕也も今言ったろう。いるわけない。でも路久ちゃんはそうなんだ」
「路久ちゃんが、こんな何メートルも離れたビルからビルに飛び移ることができるってのか」
「うん」
間髪入れぬ千尋の返答に、裕也は数度瞬きする。路久は必要性を感じてそっと言葉を挟んでみた。
「あの、本当なんです。えっと、信じられないことだと思うんですけど、何て言ったらいいか、生まれつきの、その、」
「超能力みたいなやつなんだ」千尋がきっぱりと言う。
「あ、はい。そういう感じのもので」
忙しなく鼓動を続ける胸を片手で押さえつける。向かいをうかがうと、裕也は視線を天井へ向けた後、ふむ、と小さく吐息した。
「……本当なら、是非この目で見てみたいもんだな。で、それならこれは意図せず撮られたものだってのか」
「そう。だから削除したい。でも」
「それやったらやぶ蛇だわな。削除依頼者こそ、この動画に映ってる本人だとバラすようなもんだ」
「だから削除依頼もできない。でもこのまま放置して、何かの拍子に注目されることになっちゃったら……いつかどこかで路久ちゃんにたどり着くようなことになるのが怖いんだ」
千尋の言葉を吟味するように、裕也は指で顎を押さえ目を伏せた。新たに一本取り出し、火をつける。
「最近はちょっとしたことですぐバズるとか炎上とか言われるじゃん。何がきっかけになるかわかんないときに、妙なことで悪目立ちするようなことになったら……」
どこまでも真摯な言葉だった。こんなにも千尋が今回の事態を考えてくれていることが、路久にとってはありがたく、それ以上に申し訳なかった。路久がいなければ、余計なことにかかずらう必要などなかったのに。
しかし裕也は軽く笑い声を立ててみせたので、路久はぎょっとした。
「本当お前は路久ちゃん大事にしてんのな」
明らかにからかう口調だ。信じられない気持ちになっていると、千尋は即座に反応した。
「あったりまえでしょ! こんないい子なんだから」
「ああそうだな。悪かった」
すぐに顔を引き締め、裕也は続けた。たったそれだけで二人が今のやりとりを済ませてしまったことが路久には不思議だった。
「確かに、お前の言う通りだな。こんな不鮮明で顔もわからない動画じゃあ、削除依頼はできない。仮にできたとしてもやぶ蛇だろう。だったら、やれることは一つだ」
「あるの!」「あるんですか!」
路久と千尋の声が重なった。一瞬を置いて驚いた顔をお互いに確認する。
「最初に言っとくけど、根本的な解決策じゃないからな。効果もまったく保証できない。まあやらないよりはましって程度。要するに目くらましだな」
目くらまし? どういうことだろう。
路久が首を傾げていると、裕也はにっと笑ってみせた。
「同じ動画を、作る」
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