力
どうしよう。どうしたらいい。どうしたら彼の秘密を守れる――様々なウェブページを調べるけれど、どれも似たようなことしか載っていない。気が急いて簡単な単語すらタイプミスをする。
「千尋さん」
「なに」
路久に対しても取り繕うことはできず、応じる声は強く短くなった。彼はびくりと身体を竦ませたけれど、おそるおそる言葉を続けた。
「すみません。おれの――問題なのに」
「路久ちゃんが謝ることじゃない。悪いのは……、」
パソコンの画面を横目で見る。けれど言葉が途切れた。路久の常人にはあり得ない、驚くべき力。動画を投稿した者も、それを視聴した者も、ちょっとした好奇心からそれを行っただけなのだ。そしてそれは今回の動画に限った話ではなく、普段の千尋自身にも多少なりとも存在しているものなのだ。
そのまま口をつぐんでしまった千尋に、路久は改まった声を出した。
「いつかはこういうことが起こるって覚悟してました。だから、仕方ないです。毎晩外に出てリスクを犯していたのはおれだ」
茶色の瞳はまだ充血していたけれど、もう揺らいではいなかった。
「今までこんなことが起きなかったことの方がラッキーだったんです。それに千尋さんが言うように、おれの顔が完全に映ってるわけじゃありません。だから、あそこに映ってるのがおれだという証拠は何もない。……この能力を知らない以上は。
だから、大丈夫です。散歩ももう止めることにします。ご迷惑かけて、すみませんでした」
路久が頭を下げた。その手は硬く握り締められている。止まらない震えを抑えようとしているのだとすぐにわかった。胸の中に熱いものがこみ上げる。
「この動画を投稿した人、注意して見ておくようにします」
「……でも、」
反射的に言ったけれど、その後は続かなかった。自分の無力を思い知る。
言葉を探していると、唐突に腹が鳴った。無意識に気が緩んだのか。路久はふっと笑ったが、千尋はそんな自分が許せなかった。
「あ、ラーメンならありますよ」
路久が瞳を和ませて言う。千尋は口をへの字に曲げていたけれど、彼はそれを見て何か了解したらしい。返事を待たず立ち上がって台所へ向かった。
それからパソコンが載ったテーブルの隙間にカップ麺を並べ、二人で静かに食事をした。その間、路久が珍しく自分から話を始めた。路久自身のことだった。
自分の不思議な能力について、彼はこれまで誰にも打ち明けたことがなかったらしい。それはただ何となくそうしたいと思うからそうしてきただけで、はっきりとした理由によるものではなかった。
一つには、路久の両親が周囲に隠していたという事実があった。能力の発現を知ってすぐに父親は「普通に飛ぶ」訓練を始めさせたし、母親は出掛ける前に必ず「お外で飛ばないって約束できる?」と確認してきた。嫌だとごねると出掛ける予定そのものを中止にすることもあった。そのうち次第に路久は、自分の飛ぶ能力は他人と比べて非凡であり、かつそのことを他人に知られてはいけないものらしい、と子供心に悟るようになっていった。「なんでないしょなの」と訊くと、「もう少し大きくなったらお話ししましょう」と言われる。幼い路久が癇癪を起こすと、夜、両親は自宅から離れた広い運動公園へ連れて行き、路久を自由に飛び回らせてくれた。
そうして中学の入学式を終えた後。十三歳となった路久へ、両親は改まって話を始めたのだ。
「父さんも母さんも、これまでお前の力のことを誰にも言ってこなかった。おじいちゃんおばあちゃんやおばさんたちにもだ。お前にも他人に見せてはいけないと言ってきた。なぜかというと、それがお前にとっていいことか悪いことか父さんたちにはわからなかったからだ。お前は世界中の誰にもできないようなことができる。とても素晴らしい力を持ってる。すごいものだよ。誇っていい。だからこそ得ることができる喜びもあれば、辛さ、苦しさもあるだろう」
テーブルを挟んで話す父の瞳は真剣だった。
父の言いたいことがわかるような、でも突き詰めて考えようとするとわからなくなるような、曖昧な思いに囚われた。
『お前ももう中学生だ。自分のことは自分で考えて決められる。だからもし、路久が自分のことを打ち明けたいと思う相手がいるのなら、その子を心から信頼しているのなら、力のことを話してみなさい。見せてみたっていい。その力で路久ができることはたくさんある。将来どんな形で活かすことができるか、色んな可能性を考えられるんだ。ただし打ち明けた結果は受け入れないといけないよ。……どんな結果であっても。父さんたちもできることがあれば何でもする。だから、自分で考えてみなさい』
『……はい』
頭に曖昧な雲を抱えたまま、路久はとりあえずうなずいた。母は潤んだ瞳を和ませて『母さんも父さんも、ずっと路久の味方よ』と言ってくれた。
今なら、父の言ったことは路久にも理解できる。他人と違うということは、個性であり、区別である。路久が多くの心ない他人から無神経な興味をもたれ騒ぎ立てられることや、それが何かの拍子に翻って攻撃の対象となることを、両親は一番恐れていたのだろう。
「変な力を持ったおれに、親は根気よく接してくれました。ただ……このことは千尋さんに会うまで誰にも話したことはなくて。祖父母や、親戚にも」
「……俺が、見ちゃったから」
自嘲じみた声を出して千尋が目を伏せると、路久はいいえ、と言った。はっきりした声だった。
「千尋さんでよかった。それに千尋さんはおれの落ち度で偶然見てしまったんです。だからむしろ、こんな風に巻き込んでしまって申し訳ないです」
千尋は激しく首を振った。いつの間にか、また口がへの字に曲がっていた。
「色々、本当にありがとうございます」
「……俺は何もしてないよ」
真っ直ぐこちらを見つめる路久と目を合わせることができず、千尋は顔を背ける。重い無力感が頭にのしかかっていた。くやしい。けれどここにいても千尋ができることはないのだ。この動画を削除することができない以上、できるだけ人目に触れることなく風化することを祈るしかない。
壁時計が夜の十時を指す頃になって、千尋が脱ぎ捨てていた上着を引き寄せると、路久も腰を上げた。動画の件で不安定になっていた二人の心は少し落ち着いて、他愛のない話などをするうちに時間が経っていたのだ。
「とりあえず今日は、一旦帰るね」
「はい。色々ありがとうございました」
玄関に向かおうとしたとき、千尋は携帯電話にメッセージが届いていたことに気づいた。送信主は裕也だ。
『撮られたのか? まさかマジでストーカーか?』
電話で話したことが気になったらしい。短い言葉に心の奥の緊張が解けた。
千尋は路久を振り返った。
「あのさ……」
「はい?」
呼吸を整え、路久の目を真っ直ぐ見つめながら言った。
「ひとつ、提案なんだけど。この件、俺の友達に相談してみない?」
「え、」
「俺なんかよりずっと頭良くて色々知ってるやつがいるんだ。そいつならもしかしたらいい解決策を見つけてくれるかもしれないって思って」
「それは……」
路久が目を伏せ、言葉を途切れさせる。彼の気持ちはわかっていたから、千尋はうなずき慎重に声を出した。
「もちろん相談することになれば、動画も見せなきゃいけなくなる……路久ちゃんの力についても、説明する必要が出てくるかもしれない。
だからこれはただの提案で、もし路久ちゃんがそうしたいと思ったらでいいんだ。つまりその、まだできることがあるかもしれないって言いたくて」
千尋の言葉を、路久は表情を動かさず静かな瞳で聞いていた。その奥にある彼の心がプレッシャーを、またはショックを受けていないか、傷ついてないかが何よりも心配で、さらに言葉を重ねる。
「そいつとは小学校の頃からの付き合いで、人の秘密を見境なく喋ったりしない。信頼できるやつなんだ。路久ちゃんの力のことは絶対誰にも言わないように約束させるから。っていうか、約束させるまでもなくそのくらいのことはすぐにわかっちゃうくらい頭が良いんだ。だから心配する必要はないって俺は思ってる。だからもし、路久ちゃんが相談してみたいなら、俺はいつでも協力する。もちろん今すぐそんなこと考えられないだろうから、明日でも明後日でも、一週間後でも一ヶ月後でも、一年後でも何年後でもいい。俺に言ってくれれば」
「千尋さん」
路久の眉間に、きゅっとしわが寄る。それだけで千尋の胸のあたりがぞっと冷えた。けれど彼の口からすべり出た言葉は、千尋を非難するものではなかった。
「……どうしておれなんかのために、そこまでしてくれるんですか」
弱々しい声だった。目を伏せ、顔を傾けている。
――そうか、この子と俺は、色んなところで感覚が違うんだっけ。それに……。
自分の気持ちが一つ、ひとりでに芽吹くのを感じた。
「だって路久ちゃんは命の恩人だもん。いい子だし。だから俺にできることは何でもしてやりたいなって思っただけ」
路久ちゃんのことが好きなんだもん、とはもう言えなかった。
路久が顔を上げる。千尋は笑ってうなずいてみせた。今彼が抱えている不安や恐怖、その他の様々なマイナスの感情を消し去ってやりたかった。
俺の笑顔ひとつでそれが叶えば、なんていうのは傲慢だけれど。
些細な外野の出来事から彼を守って、できるだけ平穏な昼と夜を過ごさせてやりたい。いや、それこそもっと傲慢なことだ。
とにかく千尋は路久の力になりたいのだった。全力で。
「申し訳ないです、そんな」
「迷惑かな」
「いいえ! その、本当にありがとうございます」
動画の件については、少し考えさせてください、と彼は言った。
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