足音
月曜日の朝。甲高い電子音を伴って電車のドアが閉まる。千尋があくびを噛み殺すと同時に発車した。つり革を掴み、バランスを取る。目の前の座席に座る中学生らしき二人組は、今日も携帯電話の画面を見ながらなんやかやと話をしている。いつもの通勤風景だった。
窓を流れる街の風景――時折現れる高層マンションや大型のショッピングビルやオフィスビルが、金曜日のことを思い出させる。不思議な能力を持った青年、路久と共に夜の散歩に出かけた時のことだ。
あの後数回移動したが、結局タワー行きは中止し、アパートへ戻った。一度経験した今なら千尋も理解できる。何百メートルという高さの建物に上るのだ。一回の跳躍で届きはしないだろう。十数回跳躍してようやく上ることはできても、下りるときの恐怖は想像を絶する。周辺に同じくらいの高さの建物などないのだから、重力に任せて一気に下りていくことになる。人が砂粒のように小さく見える高さからの落下。上りの何倍もの覚悟が必要になるだろう。死なないとわかっていても、落下それ自体に耐えられそうになかった。常人の域を超えた路久の力、そして彼自身の身体能力や感覚に改めて感嘆する千尋だった。
部屋で装備を解きながら、路久は申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「すみませんでした。無茶な提案してしまって」
「全っ然。お互い初めてのことでしょ。わかんなくて当然だよ」
ランヤードが外れる。すべての拘束から解放されて、ほっと息をつく。ずっと身体を強張らせていたのでかなり疲労も感じていた。すぐには立ち上がることもできず、ベッドに座ったまま路久の動作を見ることしかできない。
幸い口は動かせた。
「普通なら絶対できないことだし。慣れたら今度はもう少し遠くまで行けると思うから」
両手を握ったり開いたりしながら千尋がそう言うと、路久は声を上げた。
「え、今度って」
「だめかな」
「だめっていうか、その、怖くないんですか」
「さすがにタワーは怖いけど。帰りはちょっと楽しかったし。ショッピングモールくらいは行ってみたいな」
顔を上げると、目の前の青年はあっけにとられた様子でこちらを見つめていた。
「やっぱりだめ?」
「いや、あの、だめってことないですけど……」
「だったら、また行きたいな」
駄目押しに笑ってみせる。冷たい風に当たり続けたせいか皮膚はこわばっていたけれど、笑顔を作ることはできた。路久は大きく目をみはった。
あの静かな世界の心許なさや不安と、彼と寄り添って得た安心をまた感じたいと千尋は思っていた。どうしてだろう。安心を得るために不安を感じたいなんておかしな話だ。それともあのとき彼の瞳に宿っていた強さに惹かれたのだろうか。わからない。
とにかくあの場所で千尋の胸に生まれたのは初めての感情で、それをまた確かめたいと思ったのだ。
「えっ、これ人? すごくね? 飛んでんのこれ。ビルを飛び移る怪しい生物だって」
舌足らずな声が千尋を現実に引き戻した。
「いやいや、絶対加工してんだって。ジャンプした影とかと合成すればこんなん余裕で作れるし。そうとう画質荒いじゃん」
中学生の二人組が携帯電話をのぞき込んで熱心に話しているらしい。
「あ、ここあれだ! すげ」街の名前を口にする。「あいつんちの近くなんだって」
「マジか。つーかよくわかったな」
「一階のカラオケの看板映ってたってさ」
「こんなんどこから見つけてきたんだ」
「ちょ、もっかい再生してよ」
「どうせ加工動画だって」
「めっちゃリアルじゃん。マジ飛んでるみたい」
「あいつ最近怪しい動画ばっか見まくってんだよなー」
――ビルを飛び移る。地元。人間。飛んでる。
断片的な言葉が千尋の耳から脳に浸透して、意識の外だった何かが次第に迫ってくるような感覚がした。微かな警鐘が響いてくる。視界を占める景色の流れが少しずつ緩やかになっていく。がつん、がつんと頭に響く音。千尋は改めて二人の中学生へ目を向けた。
次の駅に到着する旨の車内アナウンスが流れ、やがて電車が止まった。中学生たちは鞄と大きく膨らんだサブバッグを抱えて電車から降りる。発車のベルに我に帰った千尋は、慌てて電車を降り、彼らを追いかけた。
『ビルを飛び移る怪しい生物! 人間か? UMAか?』
動画共有サイトにそんなタイトルの映像が投稿されていた。かなり画質の粗い夜の街。そこにビルやマンションのシルエットを次々に飛び移る人影のようなものが確かに映っていた。携帯電話のカメラでかなり拡大して撮った映像のようだ。手ブレもひどい。けれど確かに飛び移る黒い影は、鳥やこうもりには到底見えなかった。
『月を撮ろうとしたら動くものが見えたので撮りました これどう見ても人間にしか見えない 人間だったらヤバすぎる 明日デジ一で張ってみます もうちょい鮮明に撮れるはず』
中学生たちから明らかに不審な目を向けられながら、千尋はなんとか彼らが見ていた動画のURLを教えてもらい、次の電車で出勤した。朝礼にはぎりぎり間に合った。黒々とした不安に胸の中を撫で回されながら午前中の仕事を終え、昼に会社を離れてようやく動画を確認したのだ。血の気が引いた。
――路久ちゃんだ。
動画投稿主が加工して作ったものでない限り、こんなことができるのはこの世でただ一人、あの青年しかいなかった。中学生たちが話していたカラオケボックスの看板も一瞬だが端の方に映っていたので、街のどの辺で撮られたものか千尋にもわかった。路久はほとんど毎晩散歩をしている。一目につかないよう細心の注意を払っているとはいえ、完璧ではないのだ。
公開されたのは今日の午前〇時半。こういう動画共有サイトには疎いが、再生回数を見るに、まだそれほど多くの人の目に晒されたわけではないように思える。今のうちになんとかしなければ。
でも、どうやって?
不安と恐怖が目まぐるしく身体の中をかき回す。指先が冷たく固まってしまい、携帯電話を床に落としてしまった。定食屋の油汚れが落ちきれていない床。慌てて拾い上げると、注文していたカツ丼が運ばれてきた。ふわりと漂う甘いタレと卵の温かい匂いがわずらわしい。
とりあえず、一刻も早く路久ちゃんに知らせないと。
数ヶ月前、初めて路久の能力をこの目にしたときのことを思い出した。この世の終わりのように愕然とし、震えていた彼。このことを知れば、どれほどの不安に苛まれることだろう。見ず知らずの人間が自分の秘密を隠し撮りし、誰もがアクセスできる場に晒しているなんて……。
路久の携帯電話に連絡を入れたけれど、つながらなかった。授業中で電話に出られないのかもしれない。夜話をしたい旨メッセージを送っておいて、カツ丼をかき込んだ。
仕事を終えた後、千尋はそのまま路久を訪ねた。不思議そうにこちらを見つめながら部屋へ通してくれた青年に、慎重に事情を話し動画を見せる。彼の顔からみるみる血の気が引いていき、千尋の胸は痛んだ。
「これ……俺です」
か細い声で路久が言う。
「ここカラオケの看板映ってるけど、昨日近くを通ったんだね?」
しばらく画面を見つめていた路久が、やがて小さくうなずく。
「とりあえず今日は……散歩行かない方がいい」
「……そう、ですね」
「こういうの、たぶん削除依頼ができるはず」ネクタイを緩め、パソコンの前に座り直す。動画サイトを開いていた路久のパソコンで別ウィンドウを開き、インターネット検索を始めた。「本人の同意なしに撮ったんだから、肖像権? とかプライバシーとか個人情報とかに引っかかるはずだよ。まだ再生回数も大したことないし、今のうちに削除できれば見た人だってすぐ忘れる」
横目で見ると、路久は膝を抱えてうつむいていた。千尋の言葉に返答する余裕すらないようだった。無理もない。カットソーから伸びた白い首がやけに痛々しく、抑えきれない動揺がしきりに上下する肩に現れていた。千尋は歯を食いしばり、ごくりと唾を飲み込んだ。
「大丈夫だよ路久ちゃん」
勢いよく肩を抱く。びくりと身体をこわばらせて路久が顔を上げる。真っ赤な目で表情を歪めていた。普段の表情の乏しさを思えば、今どれだけ彼がショックを受けているかは明白だった。力いっぱい肩を掴んで千尋はさらに強い声を出す。
「この動画教えてくれた子たちだって、どうせ加工動画だって言ってた。嘘だって。だから大丈夫。絶対路久ちゃんに辿り着ける人なんていない」
手を離し、画面に集中する。すみません、という路久の微かな声が聞こえた。
いくつかのネット記事やブログ等を調べた結果、サイト運営者へ削除依頼ができるとわかったので、すぐに専用ページで手続きを始める。
けれど、途中で千尋の手は止まってしまった。
「ちょっと待って……」
キーボードから手が離れる。気づいた事実に背筋が冷えた。
「千尋さん?」
傍で心配そうな瞳を向ける路久を見、すぐに画面へ目を戻す。何か不穏な影が近づいてくる足音――違う。自分の鼓動だ。内側から聞こえてくるほどに大きくなっている。すぐに携帯電話を取り出した。通話履歴から相手を選んで発信する。
『はいはい』
二コール目でつながった。のんびりとした裕也の声。腕時計を見る。もう酒が入っているかもしれなかった。
「裕也、教えて」
『何だよ急に』千尋の尖った声に、裕也は明らかに面食らった様子だった。だからといって構っている場合ではない。
「本人に無断でその人の動画をネットに上げたら駄目だよね?」
『ああ、うん』
「上がってたら削除依頼できる」
『そうだな』
「それってさ、顔が映ってなきゃ駄目なの? 映像が暗かったり、粗かったりして、ちょっとでも見えにくかったりしたら――」
『なに馬鹿なこと言ってんだよ。当たり前だろ』
裕也の冷静な一言が、千尋の言葉を遮った。
『顔が映ってないのにどうして本人だってわかるんだ』
はっとした。あまりにも当然のことを言われて返答ができない。
『そいつがよっぽど特徴的な頭してて、後ろ姿だけで特定できるってんならまだわかるけどさ。それだって仮にそうだとしても、この世にたったひとつしかない髪型なんてあるわけない。本当に本人なのか? そいつの真似をした別のやつかもしれない。顔が映ってなけりゃ一〇〇パーセント断定なんかできないんだよ、そんなこと』
そうだ。当然のことだ。当たり前、ごく真っ当な……常識。
でも、路久は。
『どうしたんだよ急に。何かあったのか』
「……何でもない。わかった」
それ以上の返答も聞かず、千尋は電話を切った。パソコンの画面から目を離すと、路久を見る。相手の声は聞こえずとも会話の内容は推し量れたのだろう、押し黙ったままこちらを見つめている。
「駄目だ……」
「千尋さん、」
千尋の声は、路久に応じるというより喚くような口調になった。
「削除依頼するには、自分のどんな姿が映っているか具体的に申告しなきゃいけない。それが第三者から見て確実に本人だとわからないとプライバシーの侵害とは認めてもらえない。モザイクとか、顔がきちんと映ってない場合は対象外なんだよ。この動画……画質が荒すぎるし、映ってる路久ちゃんも小さすぎる。しかもゴーグル付けて行ってるでしょ? これじゃあ目鼻立ちがはっきり映ってるとは言えない。これが路久ちゃん本人だって確実にわかるのは、この世で俺と路久ちゃんしかいない」
路久がはっと目を見開き、千尋を凝視した。
問題点はまだある。千尋の口は思いつくまま声を出すことを止められなかった。
「そもそも……削除依頼をするのは、プライバシーの侵害って言うのはさ、その動画に路久ちゃんが映ってるからだよね」
「はい」
「ってことはさ、削除依頼すること自体、あの動画に映ってるのは路久ちゃんだって認めることになるんじゃ……」
「えっと、どういう」
控えめな路久の声。千尋は湧き上がる感情のままにテーブルに肘をつく。荒い音がした。路久が身を縮める。千尋は唇を噛んで落ちてくる頭を支えた。
「そうだよ。動画を投稿した人からすれば、プライバシーの侵害だって理由で削除を求められたとしたらどう思う? 投稿した動画に映ってる人間は実在する、見間違えじゃないってことになっちゃうじゃん」
弾かれたように路久が顔を上げた。
「『その動画は私のプライバシーを侵害しているから削除してください』なんて言ったら、相手は『そうかこの動画に映っているのはお前か』ってわかる。それで、もし悪意がある人なら別のSNSとかで『加工したものじゃない。本人から削除依頼が来たホンモノの動画です』って流すことだってできる」
路久が息を呑んで言葉を失う。
「くそっ」爪を噛む。
千尋が言葉を切ると、部屋には重い沈黙が下りた。
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