静かな世界
金曜日、千尋は仕事帰りのエレベーターホールで路久と顔を合わせた。実のところ、最近彼が帰宅する時刻に見当がついてからは、仕事の都合が許せばそれにちょうどいい時刻の電車を選ぶようにしている。彼を意識しているのだろう、と指摘されればうなずくしかないのだけれど、自分でもどういう対象として彼を意識しているかはまだ判断を下していなかった。
控えめな友人を笑顔にしたいのか。大人しい年下の子を引っ張ってあげたいのか。それとも……ただ自分が彼の顔を見たいだけなのか。
「お疲れ様です」
「おかえりー」
いつものように丁寧に路久は挨拶をした。褐色がかった黒髪がさらりと揺れる。感情が上手く表情に表せない彼は、目だけを和ませる独特の笑みを見せた。
最初に飲みに行った日に敬語は不要、名前も呼び捨てでいいと伝えたはずだけれど、未だに彼は言葉遣いを崩さない。千尋が言ったことを無視しているのではなく、性格上崩せないのだろうな、と思う。もう少し仲良くなったらまたお願いしてみよう。砕けた言葉で話せるようになれば、もっと彼に近づくことができると思うから。
「ゼミはどう? グループの人とはうまくやれそう?」
「まだちょっとぎこちないです」
エレベーターの狭い空間の中で、彼の背中を見つめる。千尋とそう変わらない背丈で、均整が取れた身体は正に中肉中背といった体型だ。以前話したときに毎日鍛錬は欠かさないと言っていた。自由に身体を動かすには、やはり筋力はある程度必要なのだと。
小さなしびれに似た感覚が皮膚の上に走る。
あんな風に誰かと身体を密着させたのは久しぶりだった。子供のように背負われているというのに、後ろから抱きしめているように感じたのは、どこまでも千尋の下心のせいだった。彼の体温に千尋の心は甘い切なさを勝手に覚えてしまい、無意識のうちに首元に顔をうずめたくなって困った。
それより前、お互いに打ち明け話をした日。
――つらい気持ちって、その、ぶり返してくることが多いから……
風邪で弱っている身体を引きずるようにして、背を向けた千尋を呼び止めてまで口にした言葉。素直な言葉が千尋の心を震わせた。もう少しで彼に泣きついてしまうところだった。命を助けてもらい、酔い潰れたのを介抱してもらい、この上失恋の慰め役も彼に要求するのかと、さすがに千尋も理性が働いたので、かろうじて立ち去ることができたけれど。
あのとき振り向いて、感情のままに大泣きして彼に抱きついたらどうなっていただろう。路久と顔を合わせる度に、夜眠りにつく前につい考えてしまう。不器用にも背中を撫でてくれるかもしれない。そうしたらもうだめだな、一晩中離せないな――と不謹慎な想像も簡単にできる。
例の散歩は、今夜の予定だ。天気もいい。特に何かイベントのある日でもない。「せっかくだし、タワーに行ってみましょうか」と路久は微笑んで提案した。
楽しみだと思う気持ちには、たくさんの種類があって。
夜空を飛ぶという、初めての体験。普段は見れない高さ、角度から眺める夜の街。路久と二人で過ごす非日常の楽しい時間。そして、彼とまた触れ合えること。彼にもっと近づけるかもしれないという予感。純粋なものから不純なものまで様々だ。そういうわけで、千尋は羽を生やしてふわふわ浮かれている自分の心を自覚していた。
「千尋さん?」
前を歩く路久がこちらを振り向く。慌てて声を出す。
「あ、ごめん。何だっけ」
「あの、今日は一二時にお願いします」
「うん。準備して行くね」
応じると、路久ははにかむように微笑んだ。以前食事に誘ったときに見せた表情と同じ。
普段の表情が乏しくてわかりにくいけれど、基本的にこの子は他人を拒否する気持ちはないのだろうと思う。少なくとも千尋のことは拒否していない。さらに言わせてもらえば、一緒に過ごすことを喜んでくれているのではないかと思う。それが千尋にはとてもうれしい。目の前の彼を今すぐ抱きしめて、頭を存分に撫でてやりたくなるほど。
転がり出そうとする心を慌てて抑え、内心苦笑する。さて、どこに転がって行こうとしていたのやら――。
その夜、時間通りに千尋は路久の部屋を訪ねた。全身黒色(上着は紺だが)の服装。携帯電話も財布も自室に置いて、文字通り身一つの状態だ。
千尋を迎えた路久も、同じく全身真っ黒。いつか見たときと同じく、黒いゴーグルを首から下げていた。部屋で服装のチェックを受け、いくつか注意事項を伝えられる。路久から離れないこと。移動中は声を出さないこと。何か緊急事態が起きたときは、腕でも腹でもつねって知らせてほしい、とも。
「思い切りつねってもらって大丈夫です。その代わり絶対に声を出さないで」
てきぱきと準備を整えながら言う路久の口調には、普段の内向的な弱さや柔らかさがなかった。すると容易にほどけない表情もあいまって、作業に徹する職人のような、あるいは野生動物のような空気をまとうのだった。それに少々気圧されて、千尋もうなずくしかなかった。
そのあとは命綱の装着。路久が取り出したそれはベルトにワイヤーがついている代物だった。グローブをつけた路久の手が、手早くベルトをワイヤーでつなぐ。
「トイレとか、大丈夫ですか」
振り返った路久の顔が近い。ワイヤーの長さは一メートルしかなく、それ以上は離れられないのだ。
「うん」知らず、ごくりと唾を飲み込んでいた、
「じゃあ、時間もちょうどいいですし、行きましょうか」
ワイヤーでつながったまま、二人はまずベッドに腰を下ろした。千尋の脚の間に路久が座る形だ。腕を貸してください、と言われたので彼の首に回すと、そのまま鉢巻のような布で手首を縛られた。
「えっ、結ぶの?」
思わず上ずった声が出てしまう。「はい」と簡単な返答が返ってきた。
「ランヤードつけてるから大丈夫だと思いますけど、一応。脚もお願いします」
次は脚を路久の腰に回し、それをまた縛る。ほとんど彼にしがみついている状態だった。彼の筋肉の動きが全身に伝わってくる。耳の冷たさ、髪の匂いまで。平常心でいろと言う方が難しく、たちまち千尋の顔は熱くなった。
「痛くないですか」
「……は、い」
ていうかこれ、俺の心臓の音絶対聞こえてるよね。
動揺して早鐘を打つ胸を押さえることもできないまま、千尋は路久に背負われてしまう。行きますね、と路久は言い、部屋の照明を全て消しベランダへ出た。
春の夜のまだ少し冷たい空気が身体を包み込む。
「そういえば――」千尋が声を出すと、路久は「しっ」と指を口許に当ててそれを制した。どうしましたか、とささやき声で問うてくる。
「ごめん。窓は開けたままでいいのかなって……」
同じように息だけで千尋が話すと、路久はこくりとうなずいた。
「大丈夫です」
はっきりとした口調に、ぽかんと口が開く。
「え、でも、財布とか通帳とか……」
「絶対に誰にも見つからない場所に隠してますから」
くすっと笑う。少し得意げにすら感じられる言い方が意外だった。
まずは周りの状況を確認する。アパートのベランダに人はいないか。近くの道路を歩く人や車はないか。通りを挟んで向かいにある建物に人影はないか。いつか見たときと同じく、何かを探すような真剣さで丹念に辺りの景色に目を凝らす。千尋も一緒に確認作業を行った。千尋がうなずくと、それを背で感じたのか路久も少しだけ振り向いてうなずいた。
いよいよ小さな踏み台を使って手すりに立つ。ひゅうっ、と風の音がした。それだけで背筋がぞくりとする。目の前に広がる夜の街。地上六階。何十メートルの高さなのかわからないけれど、普通に落ちたら無事では済まないだろう。握りしめた拳に力が入って、解くことができない。
路久がゴーグルを装着し、深呼吸を始める。その胸郭が膨らみ、またしぼむのがはっきりとわかる。夜風が彼の髪を舞わせ、千尋の頬をくすぐった。人も車も動物の気配すらなく、静かだ。聞こえるのは風の音だけ。まるで何か儀式を始めるような硬い空気が満ち、千尋を緊張させる。三〇秒ほどの時間が長く感じられた。
「行きます。まず降ります」
微かな路久の声がした。その身体が屈み、次の瞬間、夜空に飛び込んだ。
ほんの一瞬の浮遊感のあと、冷たい風とともに圧倒的な悪寒が全身を駆け抜けた。落ちる。落ちる。落ちていく――息が止まる。内臓を置き去りにして足先から細く吸い込まれるような感覚。想像していたよりもずっと恐ろしく、頼りなく、あらゆる生存本能が悲鳴を上げて拒否反応を起こすようだ。実際には声も出ない。目を固く閉じ、歯を食いしばってこらえるだけで精一杯。
反して、着地は穏やかだった。
二人分の体重など感じていない足取りでふわりと着地し、またトランポリンのように上へ跳び上がる。拍子抜けして目を開けた千尋の視界に夜の景色が映るが、意識を向ける余裕もない。今度は空気の圧力に振り落とされそうになる。手足に結ばれた布を思い出して、その簡素さに遅まきながらぞっとする。
そうやって数秒間の上昇と落下を何度も繰り返した。
絶叫アトラクションの比ではなかった。何しろ命綱はたった一本のワイヤーで、安全装置に包まれているわけではない。娯楽のための乗り物ではなく、ただの人間にしがみついているのだ。彼の筋肉の躍動と呼吸音だけが確かで、頼れるものはそれだけ。
怖い。千尋は路久の首元に顔を押しつけてしがみつき、ひたすら上下動に耐えていた。どこをどう進んでいるのか見当もつかない。
しばらく跳躍を繰り返した後、路久は足を止めた。数歩歩いて勢いを殺し、ゆっくりと腰を下ろす。尻にひやりとコンクリートが接した。千尋は息をつきようやく身体から力を抜く。安堵した途端に手足が小さく震えだした。
「だいじょうぶ、ですか」
荒い息遣いのまま首だけで振り返り、路久がささやき声で問う。ひっきりなしに強い風の音がしていたけれど、これだけ至近距離に口と耳があれば十分聞こえる。千尋は震えを抑えようとするが、手足に力が入らない。
「ごめん。俺、ジェットコースターとか割と得意だから、全然平気だって思ってたけど」
「おれの、方こそ、すみません」ごくりと唾を飲み込んで続ける。「加減はしてるつもりなんですけど、普通の人がどう感じるかわかってなかった」
グローブをはめた路久の手がなだめるように千尋の肩や腕をさする。些細な労りがうれしかったけれど、そんなことで震えが止まるはずもない。
「帰りましょうか」
「ううん」
千尋は首を振った。「あの、もうちょっと行ってみたい。少し休めば大丈夫だから」
路久はゴーグルを上げた。千尋の顔をうかがっていたその目が、遠く夜の街へ向けられる。夜に染まる横顔。ネオンを映した瞳は黒く澄んでいた。そこには彼が普段は見せない、誰にも侵されない強さのようなものが宿っている気がした。
「わかりました。少し休みましょう」
そう言って路久は立ち上がり、少し移動してまた腰を下ろした。万が一にも人目につかないよう中央に移動したらしい。ようやく千尋にも辺りを確認する余裕が出てくる。座っているため下の様子は見えないけれど、周辺に視界を遮る建物は数えるほどしかない。どこかの高層ビルの屋上にいるようだった。
「ワイヤー、外さない方がいい?」
「はい、すみませんが……万が一、何かあったらいけないので」
とは言えこのままでは満足に腰も下ろせない。足を固定した布だけはほどいてもらった。
夜空には小さな小さな星がいくつか見える。
青黒い、静かな世界。黒い巨大な角材と化したオフィスビルは眠っているように見える。それも朝になれば照明がつき、何百人、何千人もの人が詰め込まれて仕事をするのだろう。反対に繁華街の辺りだろうか、派手なネオンが点滅するビルたちは明々と存在を主張し、窓からもれる喧騒はこちらに届く前に下界に落ちていく。つい数時間前まで千尋もそれらの中で生きていて、また明日も同じように生きるとわかっているけれど、どこか寂しく、心許なく、しかし一方で奇妙な開放感も感じていた。
人でないものが蔓延る闇の底で思いがけず温かい賑わいを見つけたような、あるいはどこか……世界の果てから最後の街を振り返るような。
なんとも言えない心地に揺さぶられ、千尋は路久の肩に頭を預けた。思考や感情よりもっと奥にある本能的な不安が絶えず身体を撫でるために――彼の呼吸と心音を感じて安心を得ようとしている。動物の子供と同じだ。路久は何も言わず、動かない。随分長い間そうしていた。
「……この街に、こんな静かなところがあるんだね」
言葉が勝手に口をついて出た。路久はうなずいた。彼は目の前の景色を、巨大な鉄を製錬する高温の炎を見るようだ、と表現した。
「おれはこういうとこが好きで。よくこうやってぼーっとしてます」
その言葉に納得した。夜の間だけ存在する静かな世界は、傍にいる青年の雰囲気と少し似ている。濁りのない、澄んだ……悪く言えば少々浮世離れしているような静けさに。
「こないだは、ごめんね」
彼の首元に顔を埋める。路久は何ですか、と問うてくる。
「路久ちゃんが風邪引いた日。俺、ちょっと態度悪かったから」
風の音だけが響く中で、二人共同じ景色を見やる。もう四月も半ばだというのに、夜の空気は冷たい。数時間後、太陽が昇りその熱が届くまで、どんどん冷えていくばかりなのだ。路久はしばらくしてから遠慮がちにささやく。
「もう、大丈夫なんですか」
「うん……。何かね、あの日はちょっと、意地張ってたかも。六歳も年下の子の前で泣くのは情けないじゃない?」
「そんなこと」
「路久ちゃんには助けられてばっかだし」
路久は首を振った。さらさらとした髪が揺れてくすぐったい。「年を重ねたら、つらいことにも慣れるってことですか」
「……慣れはしないよねえ」
正論を言われると、観念するしかない。だからこそあの夜、よっぽど彼に泣きつこうかと思ったのだから。
「もし、おれに何かできることがあれば、言ってください」
路久が首を巡らせて、何ともうれしいことを言ってくれる。黒い服に身を包んだ彼の頼もしさを感じたばかりだから、その言葉の意味するところを勘違いしそうになる。首に回した手に力が入らないように苦心して千尋は答えた。
「大丈夫。充分だよ。こんなにすごい景色を見せてくれたしね」
展望台や高層ホテルの最上階から見る美しい夜景とは少し違う。人間と自然と宇宙がそれぞれ作り出すものの大きさと小ささを肌で感じるような、畏れとダイナミズムに満ちていている景色。圧倒された心は自然とニュートラルに戻るのがわかる。
「ありがとう」
「いいえ、とんでもないです」
心からの礼には、いつもの謙虚な言葉が返ってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます