ベランダ
千尋の抱えている傷は、路久にとって途方もなく遠い世界の出来事だった。恋人どころか、友人さえもいない路久には想像もつかない世界。それでも涙を浮かべる彼を見て、驚き、焦った。何もできない自分をとてもはがゆく思った。そういった気持ちになるのは初めてだったかもしれない。
自分以外の誰もがどこかに大切に思い思われている人間がいて、お互いに支え合いながら生きている。そこに路久が入り込んだところで邪魔でしかない。ずっとそう思ってきたし、今でもそう思っている。
けれど、あのとき。真っ暗な空間をサーチライトが照らし出すようにはっきりと、瞬間的に思ったのだ。彼のために何かしたい、と。
ひどく自分勝手な思い。千尋だってきっとそんなものを求めてはいないだろう。わかったような気になって、大丈夫ですか、なんて。でしゃばりもいいところだ。自己嫌悪に全身がヒリヒリと痛む心地がする。
たぶん、おれが何かしなくても、千尋さんには支え合う大切な人がいて、その人が彼を慰め、癒し、励ますのだろう。そうやって千尋さんはしなやかに立ち直って生きていくのだろう。その役目はおれじゃない。求められてもいない慰めなんて余計なお世話じゃないか。ついこないだ出会ったばかりなのに馴れ馴れしいやつだと思われてしまったかもしれない。
わかってはいるけれど、その思いはしこりのように路久の心に残った。
丸二日眠った後、体調はすっかり良くなったので、日曜日の引越しのアルバイトは出勤した。
ビル清掃は路久の母親よりも年上の女性ばかりだが、引っ越しの方は幅広い年齢層の男性が仕事仲間だ。酒好きの班長は仲の良い社員やアルバイト達といつも仕事帰りに飲んでいるようだが、路久は誘われたときだけ行くことにしている。頻度は少ない。半年に一回くらいだ。初めは毎回誘われていたけれど、そのうちお声はかからなくなった。路久があまり表情を動かさず、話をしても面白くないからだろう。
「ガッコ行ってバイトして、全然遊ばねえのか」
「いや、でも大学生だろ? 合コンとか行くだろー」
数分返答に迷った末、趣味は散歩です、と正直に路久が答えると、周りの男たちは虚を突かれたような顔をした。それで、ああ見当違いの答えを言ってしまったな、とぼんやり感じた。たぶんそれ以降だ。誘われる頻度が激減したのは。
それでも仕事をする上ではそれなりに信頼されていることもまたわかっていた。引っ越しのアルバイトは人の出入りが多い。三年目の路久は結構古株なのだが、一日しか続かない学生アルバイトも多い。だから新人教育は主に路久の役目だった。
仕事のことなら、勉強のことならそれなりに理解し周りと最低限のコミュニケーションもとれる。けれど……。
涙を浮かべる千尋を見ても、一言も声をかけられなかった自分。指一本動かせなかった自分。
途端に胸がちくちく痛んで、路久は顔をしかめた。普段はあまり意識しないようにしている思いが、頭をもたげてくる。
おれは本当に、何にもならない、役立たずだ……。
千尋の部屋の「見守り」はとりあえずやめることにした。彼の身が心配であることは変わりなかったけれど、本人は事実を知って自制すると言ったわけだし、ただの隣人でしかない路久がこれ以上踏み込んでいいものではないと思う。
帰宅後、夕飯を食べ、時間になったら散歩に出る。いつも通りの日常だ。
着替えてベランダへ出ると、隣の部屋から複数の笑い声が響く。千尋の部屋だ。友人が遊びに来ているのだろう。そんな些細なことでさえ、今の路久には重い石を投げつけられたように心に響いた。考えてみれば、以前もこうして隣人の生活の気配を感じることはよくあったのだ。あの日まで意識すらしていなかったことだ。
おそらく酒を飲んでいるだろうことが、路久の胸にちらと不安を抱かせたけれど、他に人がいるのなら大丈夫だろう。千尋自身も気をつけると言っていたことだし。
色々あって二週間ぶりの散歩だ。いつも以上に周りの状況に注意する必要がある。とはいえ、やはり解放感は格別だった。日常のあらゆる出来事を打ち捨てて、ただただ身体を自在に操る喜びに浸る。
視界の中で川のように流れ去る街の光と、頭上にささやかに散りばめられた星たちの小さな瞬き。灯台のように輝き続ける月は低くて、力いっぱい飛べば手が届きそうな気さえする。冷たい夜気をいっぱいに吸い込むと、自分の身体の細胞一つ一つが洗われるような心地がする。風が髪の毛を根元から叩く。両足はどこの地面も踏みしめることなく、両手は空気を掴む。
気持ちがいい。
路久が路久であることを思い出すのは、いつもこの時だ。
おれはきっと、おれ以外の何者にもなれない。
心からそう思う。この爽快。身体中が喜んでいる。これを感じられない人間になってしまったら、路久はたぶん身も心も腐ってしまうだろう。
――おれにとって大切なものは、この散歩、この身体だ。
正しい答えなのかどうかわからない。けれど、それは路久の本当だった。
いつものコースを一時間ほど回って、自宅アパートに戻って来た。一旦屋上に着地し、ベランダの人影を確かめてから自分の部屋に戻るのが習慣だ。階下をのぞき込んだ路久は、はっと息を詰めた。
六階のベランダに、千尋がいたのだ。
まさか。
ぞくりと嫌な予感が一瞬で身体を駆け巡る。すぐに辺りを確認し、飛び降りた。彼の傍、手すりに着地する。
「ちひ――」
「路久ちゃん」
突然視界に現れた路久に驚きもせず、それどころか千尋は目を輝かせて路久を迎えた。
「やっぱり! 路久ちゃん散歩してるかなって思ってたんだ」
伸ばしかけた路久の手が止まる。どうやら懸念していた状況とは違うらしいとわかるまで、やや時間を要した。その間、ぽかんと千尋の顔を見ることしかできない。
「どうしたの」
「あ、いえ、その」
そうでなくとも顔を合わせるのは例の飛び降りの話をして以来なのだ。路久がでしゃばり、まるで彼の友人であるかのように馴れ馴れしい口をきいて以来。
けれど、彼のいつもと変わらない声と表情が、路久の心の中に淀むものこそ場違いなのだと示しているように思え、上手く言葉が出なかった。つい千尋の表情を窺うような視線を走らせてしまう。
「あ、うるさくしちゃってごめんね。友達と飲んでて」
その視線を勘違いしたか、千尋は一度背後を見遣った。彼の部屋ではまだ複数の人の声が少しだけ響いていた。カーテン越しに動く影も見える。
「……いえ、大丈夫です」
ようやくそれだけを言葉にして答える。外にいるから聞こえるだけで、部屋の中でも響く騒音というわけではない。むしろ一人でないことは路久にとってはありがたいことだ。
ほら、そう。千尋さんには一緒に飲んで話せる友達がいる。大丈夫。おれがでしゃばって色々気にする必要はない。
胸に微かな寂しさがよぎるけれど、路久にとってはもう慣れたものだ。一つ瞬きをして、それを胸の奥にしまう。ちくりと痛んだ。そうすると少しずつ調子も戻ってくる。人目につく前に自分の部屋のベランダに降りた。仕切戸越しに並ぶ。
「今日は晴れてたね。きれいだったでしょ」
「久しぶりなんで……その、楽しかったです」
「風邪はもう平気?」
「はい」
よかった、と千尋が笑う。
――千尋さんは、大丈夫ですか。
そう訊きたかったけれど、その笑顔を前に勇気は出なかった。訊いて、また背中しか見せてくれなくなったらと思うと怖気づく。
訊く必要はないんだ、と自分に言い聞かせた。大丈夫かどうかは千尋さんの心一つであって、おれがそれを気にしようがしまいが関係ないことだ。おれが気になるからというだけの理由で踏み込んではいけない。
「いつもどの辺回ってるの」
「えっと……いくつかコースを設定してるんですけど、今日は東側の方で」大型のショッピングモールの名を挙げる。「あの辺まで行って、ちょっと休憩して、ぐるっと国道沿いに戻ってくる感じです」
「へえー! ショッピングモールに行ったりするんだ」
「夜中は
「そっかあ、営業時間って遅くても九時ぐらいだもんねえ」
「はい」
「じゃあタワーにも行ったりするの」
「行きます。あっちはイルミネーションが灯ったりするんでイベントがある日は避けてますけど」
「イベント?」
「クリスマスとか、バレンタインデーとか、アーティストのライブとか、花火大会の日とか。遅くまで人がうろついてますから」
心を切り替えると、散歩のことを話すのは純粋にうれしかった。今まで両親以外の誰にも話せなかったことだから余計に思う。つい数分前に飛び回って見た景色や感じた爽快感がよみがえってきて、頰が緩んだ。千尋が興味津々で聞いてくれることも大きい。
「なるほど」
千尋は感心したようにため息をついた。
「よく考えてるんだねえ。人が来る要因って色々あるもんね」
「でもどれも行ってみたからわかることで、最初はコース設定のためにかなり飛び回りました」
「大変だったね」
「あの、でも、そういうのも楽しいんです」
思わずそう白状すると、千尋は柔らかく微笑んだ。
「いいなあ。俺も行ってみたい」
「…………」
心臓がとくん、と大きく鼓動する。
千尋の横顔。部屋の明かりが逆光になって輪郭を明るく描き出し、大きな瞳が夜の景色を穏やかに眺めていた。口許はほころんでいる。
路久の鼓動が少しずつ、次第に速く大きいものになり、身体の中でうるさいほど響き始めた。
唇を動かそうとして、乾いて固まっていることに気づく。こじ開けて舌で舐める。呼吸に声が乗らず、は、と息が漏れた。
「ち、千尋さん」
「ん?」
彼の顔が路久を振り向く。途端に顔が熱くなった。自分が何を言おうとしているのか全身で気がついて、慌ててブレーキをかける。
おれはいきなり、何を。
またでしゃばるつもりか。迷惑をかけるつもりか。
でも……でも、言いたい。
彼が行きたいと思っているのなら、本当にそう望んでいるのなら……。
だって、おれしか叶えられないことだから。千尋さんが望んで、他の誰にもできないことなら、おれにしかできないことなら、おれが……。
「あ、の、えっと、その」
――そっかあ……きっと今日はきれいだろうね。
うっとりとした顔で息を吐いたその顔を思い出す。そうだ。前も彼はそう言っていた。だったら、だったら……。
頭に様々な思いが浮かび上がってからまっている。
「い、いきませんか」
ついに声に出した。情けなくなるほど震えた声。相手はきょとんとした顔で小首を傾げた。ああ、言葉が足りない。だからその、つまり。
「さんぽ、行きませんか。ちひろさんも」
数度瞬きを繰り返した後、彼の瞳が大きく開かれる。
「えっ、……いいの? 行けるの?」
唾を飲み込みながらうなずくと、千尋は手すりから身体を乗り出した。期待に輝く瞳、心からうれしそうな表情。
「本当に? 行けるの? 俺も」
「よかったら、あの、今度、いつでも」
「行きたい! やった! 絶対行きたい!」
千尋のうれしそうな顔を見て、安心と達成感が路久の心にじわじわと広がっていく。心臓が騒がしく跳ね回っていた。初めて人を誘った。そしてその人はそれを快諾してくれた。うれしい。言ってみてよかった。なのに胸は絞られたように痛む。不思議な感覚だった。うれしいのに、胸が痛い。うれしくて、苦しい。
うれしい気持ちが強いと、苦しくなるのか。
自分の顔も自然にほころぶのがわかった。人を喜ばせることって、自分もうれしくなるのだ。
何より、自分が千尋を喜ばせることができたのが、路久にとって一番うれしかった。なんの面白味も取り柄もない自分が、彼を喜ばせることができるなんて――散歩の前に感じていた途方もなく虚しい気持ちが一瞬で吹き飛んでしまうくらいに。
翌週、ビル清掃のアルバイトがない木曜日に、大学を終えた路久は電車とバスを乗り継いで郊外のアウトレットモールへ向かった。目的は隣接するホームセンターだ。千尋を夜の散歩に連れていく準備をするためだった。
路久の能力は、筋力に基づくものではない。尤も、二一歳の今は五歳の頃より高く遠くへ飛べるようになったのは事実である。けれど路久自身の感覚としては、筋力はあくまで補助的なもので、ほとんどは脳内のイメージ……想像力、意識といったものが占める部分が大きかった。平たく言えば、できると思えばできるものなのだ。もちろん、筋力の増強や維持は不可欠だけれど。だからこそ今まで人助けだってできたのだ。不思議な力だと常々思う。
したがって試したことはないけれど、これまでの経験上、人ひとりを背負って飛び続けることはおそらく可能だった。路久の意識次第だ。
施設の広大な駐車場を横切る途中で、携帯電話が着信を知らせる。路久は驚き、上着のポケットの中のそれを取り落としそうになった。携帯電話など普段はろくに使わない。せいぜいアルバイトや大学での事務的な連絡や、両親としか話すことがないのだ。慌てて通話ボタンを押した。
「……はい、もしもし」
『もしもし、路久ちゃん?』
「はい」
千尋だ。心なしか、電話の向こうの声ははずんでいるように感じた。
『あのさ、例の件、服探してみたよ』
千尋との夜の散歩が決まった後、路久はその準備について彼に伝えていた。主に服装や所要時間、日時などだ。服装については確認して連絡すると言っていたのだけれど、こんなにすぐに回答をもらえると思っていなかった。
千尋さんも楽しみにしてくれているなら、うれしい。
そう思うと自然と顔がほころんでしまう路久だった。
『えっと、黒い服とパンツと靴下はあったんだけど、靴がなくて。あと上着は紺色でもいいのかな』
「紺色ですか」
『うん。でもぱっと見ほとんど黒にしか見えない感じ。あと黒はー……』通話しながらクローゼットか何かを探しているらしい。ごそごそと物音がした。『あ、ウインドブレーカーあったんだった。これちょうどよさそう!』
「それ、もしかして動いたらシャカシャカ音がしませんか」
『あ、するかも。ナイロンだから』
「ナイロンはやめた方が。ほとんど黒に見えるなら、紺でも大丈夫ですよ」
『靴は革靴じゃダメだよねえ』
「ダメじゃないんですけど、脱げたら大変なので……。あの、だったら靴は履かなくても大丈夫です。千尋さんが歩くことはないんで」
『あ……そっか。俺ずっと背負われっぱなしなのか』
「はい……すみません。万が一、何かあったらいけないので」
『確かにそうだよね』
色々手間かけてごめんね、と言う。路久には励ましにすら聞こえるほどだ。ようやく息をつく。携帯電話を握り直して、路久ははっきりと声を出した。
「……千尋さんの命を危険に晒すことは絶対にしません。命綱も付けます」
『そう言ってもらうと照れるなあ。ありがとう』
電話越しの彼の笑い声が心地よかった。
日時やその他のことを打ち合せて通話を終え、ホームセンターへ入る。いくつか物色した後、ランヤードというものを購入した。ベルトにワイヤーとカラビナがついていて、高所作業に使われるものだ。思ったより値は張ったけれど、構わなかった。千尋の命には代えられない。飛び始めれば彼には路久だけが頼りなのだ。それを思えば、慎重すぎるくらいでちょうどいい。
帰宅した路久は、その後千尋の部屋を訪ね、イメージトレーニングのため彼の身体を背負わせてもらった。当日でもおそらく問題はないと思うけれど、誰かと散歩するのは初めてなのだから、準備は万全を期したかったのだ。
「どうぞ」
言って、背を向けて屈む。「えっと……じゃあ、失礼します」千尋の声がして、彼の手が路久の首元に回り、背中に彼の身体が寄りかかる。おっかなびっくり、という様子だ。「行きますね」と声をかけてから彼の両足に手を回し、一気に背負う。「わ」と千尋が小さな声を上げた。
やはりのしかかる重量はずしりと重い。けれど、歩き回ることは難なくできそうだった。
「だ、だいじょうぶ?」耳元で聞こえる千尋の声は弱々しい。
「はい。全然問題ないですね」
そのままアパートの廊下を一周し、階段を一階分上り下りした。大丈夫だ。考えてみれば一度抱き上げて飛んだ身体である。腕の力だけで支えるならともかく、背負って飛ぶ分には問題ないだろう。千尋の部屋の前まで戻り、彼を下ろす。
「ありがとうございました」
「えっと、大丈夫そう?」
そう尋ねる千尋の頰は心なしか赤くなっていた。やはり年下の男におんぶされることに照れがあるのだろう。路久と目が合うと、そっと伏せたのが意外だった。
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