運動公園
翌日は母の車を借りて、昔よく両親に連れて行ってもらった運動公園へ向かった。途中スーパーに隣接する写真屋で、母からもらったフィルムの現像を依頼した。
用心のため実家から離れた店を選んだのだが、さらに申込用紙にはでたらめな名前と電話番号を書く。できあがりの時間を聞くと、アルバイトらしい店員は無表情で三時間後にはお渡しできます、と言った。
内心少々緊張していた路久だったけれど、フィルムの現像そのものは特に珍しくもなかったらしい。
運動公園は平日の昼間なので、幼児を連れた母親や、近くの保育園や幼稚園児の集団が遊んでいる姿が見える。広場の草原の真ん中で、試しに飛んでみる。特に変化はない。仕方なく近くの木陰に寝転んで空を眺めた。
わからない。何もわからない。
梅雨も明け、とうとう本格的な夏がやってくる。気温は高いが、木陰は風もあってほどよく過ごしやすい。空はよく晴れていた。薄雲が視界の端の方にかかっているくらい。子供たちの歓声や、その母親らの軽やかな笑い声が風に乗って届いてくる。
もう、飛べないのかな。どうしようもないのかな。
考えはもう随分前から行き詰まっている。考えることそのものに疲れていた。駆けずり回ってありとあらゆるドアを開けてみたつもりだったけれど、どこにも正解はない。
だったらもう、都合のいい正解なんて存在しないのだろうか。飛べなくても生きていくことはできる。それどころか、スポーツだったら全力で取り組める。ジャンプの加減なんて考えなくていい。あの動画共有サイトに上げられた路久の映像も永遠に幻になる。千尋も裕也も安心するだろう。鬱憤が溜まったら、あのジムのトランポリンで飛べばいい。そんな風に生きていくしかないのか。
あのフィルムケースの感触を思い出す。
けれど……。
目を閉じる。視界はそれで遮断できたけれど、思考はそうもいかない。
そのとき。
「きゃー、ごめんなさーい!」
甲高い声が聞こえて目を開けると、水色の何かが迫ってきて鼻にぶつかった。軽い感触。ゴムボールだ。転がっていこうとするのを片手で掴んで起き上がると、二、三歳くらいの男の子がこちらに駆けてきた。その後ろには母親なのか女性が二人ほど追ってくるのが見える。
「どうぞ」
近づいてくる女性二人には首だけで会釈し、近寄ってきた男の子にボールを返す。男の子はじっと路久を観察している。透明な瞳。小さな子供とはあまり接したことがない路久は戸惑った。
「……えっと、こんにちは」
「こんいちあ!」思った以上に大きな声が耳の奥まで刺さって、思わず顔をしかめる。
「すみませーん!」
母親がやってきて男の子をすぐに抱き上げた。その拍子にゴムボールがこぼれ落ちる。「ありがとうございます。ごめんなさい、うちの子が」
「いえ、なんともないです。大丈夫です」
どう対応すればいいのかわからない路久は、瞬きを繰り返しながらとりあえずそう言った。もう一度ボールを拾って立ち上がり、男の子に持たせる。
「たっくん、ありがとうは?」
「あいあとう!」
「どういたしまして」
ようやく何とか笑顔を作ってみせる。そこでふと、母親の後ろにいる女性に気づいた。
「……あ」
「路久ちゃん!」
見覚えのある美しい顔、聞いたことのある明るい声。ジェルネイルを施した指が路久を差す。驚いた。裕也の恋人の姉、蘭が目を輝かせてそこにいた。
久しぶり、なんでここにいるのー! と訊きながら路久の両手をとってぶんぶん上下に振る。隣の「たっくん」の母親には、路久を示しこの子幼馴染の友達なの、と説明している。
「お久しぶりです。ちょっと今実家に帰ってて、ここにはたまたま」
「ご実家、この辺なの?」
「いや、この辺じゃないんですけど、車で三〇分くらいのとこです」
「そうなんだ」
「えと、蘭さんは」
「今日は仕事休みだから、友達に会いにきたの」
ね、と蘭が笑いかけると、友人であるという「たっくん」の母親は楽しそうにそうそう、と笑ってうなずいた。彼女たちはこれから昼食を食べに行くらしい。蘭の手が離れたので、じゃあ、と頭を下げかけた路久に構わず蘭は尋ねた。
「いつまでこっちにいるの」
「えっと、今日帰ります」
「本当? 何時?」
「五時の新幹線で」
「えー! じゃあ私も同じくらい! ね、もし時間あったらお茶しよう」
「えっ、おれですか」
「路久ちゃん以外いないじゃーん。他に予定が入ってたら諦めるけど」
「はあ、いえ、予定はないです」
そんな調子で受け答えを重ねるうちに決まっていた。頭の中で蘭ちゃん何勝手なことしてんの、となぜか千尋の喚き声が聞こえる気がする。路久と蘭のやりとりを隣で見ていた友人はくすくすと楽しそうに笑った。
夕方四時に新幹線停車駅の中央改札で待ち合わせ。そのため予定より早く家を出ることとなった。帰省用のリュックを背負った路久を見て、母はため息ともつかない声で言う。
「本当、荷物少ないわねえ。そんなリュック一つで二泊三日なんて」
「そうかな」
「まあ、男の子ならそんなものかしら」
「じゃあ、次は夏休みか年末に帰るよ」
「はいはい。気をつけてね」
「それと、」
路久は手に下げていた紙袋から、一つの束を取り出した。写真だ。全部で二七枚ある。
「昼現像してきた。運動公園近くの写真屋さん。名前も電話番号もでたらめ書いたから、とりあえず大丈夫だと思う」
「…………」
母の表情がみるみる変わっていった。朗らかだった顔が驚いて固まり、手が口元を覆い、やがてくしゃりと歪む。
「全部二枚ずつ現像した。おれは焼き増し分もらってくから、ネガはそっちで持っててくれるかな。できれば、アルバムとは別のとこにしまってもらって」
目に涙をいっぱいにためた母は、黙ったまま何度もうなずく。そんな彼女の姿を見ていると、うなじの辺りがやたらとくすぐったくてたまらない。
父とは既に朝、挨拶を終えている。フィルムのことは、母が伝えるだろう。路久が何となく思うことだけれど、父はたぶん路久へ直接伝えたくなかったのだ。平日で仕事に出ているという理由も確かにあるが、二〇歳を過ぎた息子に対して自分の行為を見せびらかすような形になるのが嫌なのかもしれない。
くすぐったさに耐えられなくなり、路久は母の手を取って袋を持たせてやった。じゃあ、と手をおざなりに上げて玄関を出ようとした。
「路久」
涙に濡れた母の声。どきりとした。とっさに身体が動かない。
「ごめんね。小さい頃はあなたに我慢ばかりさせて。すごい力なのに、誰にも自慢できなくて。普通に飛ぶ練習も、どうしてこんなことしなきゃいけないのって随分嫌がってたのにね」
震える声が一度、息継ぎで途切れる。「ずっと考えてたの。あなたの能力にどんな意味があるのかって。何か意味があって生まれ持った力なら、私たちのやり方は正しかったのかって」
「母さん」
振り向く。母は息子の顔を見て強張った顔で微笑んだ。
「でもね、難しいことはもうわからない。あなたがこんなに大きくなって、信頼できる人も傍にいるなら、お母さんとお父さんはそれでいいの。能力の意味なんてなくていい。ただあなたの中にあるものだから。すごいことなんて何もしなくていい。あなたが楽しく毎日を過ごしてくれれば」
こんな風に涙を流しながら話す母の姿を見るのは初めてだった。能力の意味について、両親が何か考えていた……そういったことを語るのも。
「ありがとう。えっと……おれは、大丈夫だよ。毎日、楽しいよ」
どう答えていいかわからず、そう言った路久の頰を母は濡れた手で撫でた。
「気をつけてね」
「うん」
待ち合わせ場所に路久が着いたとき、蘭は既にいた。人が多く行き交う改札口でもすぐにわかった。美しい彼女が柱の近くに佇んでいると、取り立てて特徴もない地方の駅が、何ともドラマチックな場所に見えてくるのだった。目鼻の造形というより、全身に美しさの香りをまとっているような印象がある。その辺りの感性が鈍い路久でさえそう感じるのだから、世の男性のほとんどは、もしかしたら彼女と目が合っただけで運命を感じるのかもしれない。
これまで味わったことのない種類の緊張が身体に隙間なく張り付き、上手く動かない。果たしてこれは現実なのだろうか、これから彼女の貴重な時間を路久が共にしていいのだろうかと不安が募った。
すぐに駆け寄り遅れたことを詫びると、私が早く着いただけよ、と手を振る。
「微妙な時間だけど、路久ちゃんお腹空いてる? 何か食べる?」
「いえ、おれは全く」緊張により胃は自分を守るだけで精一杯だと言っている。
「そう? じゃあそこのカフェ入ろうか」
あっさりとそう言い、蘭は楽しそうに笑って歩き出す。路久は慌てて彼女の後に続いた。人が多く行き交う通路を横切って、構内のコーヒーショップへ入る。
店内は人が多かったけれど、まるで蘭が来るのを待っていたかのように端のソファ席が空いていた。飲み物を注文しながら、本当すっごい偶然よねえ、後で千尋に自慢してやろ、と彼女は笑う。路久の方はそうですね、と言いはしたが、これからこの女性とどんな話をして新幹線の時間までを過ごせばいいのかと、緊張の度合いが大きくなるのを感じていた。
「久しぶりってほどでもないけど、元気だった?」
席に落ち着いてから、注文した飲み物を一口飲んで蘭は気軽に言った。
「えと、はい」
路久も真似をして一口飲んだ後うなずくと、彼女がくすっと笑う。
「たっくんが言ってたよ」
「へ?」
「昼間のあの子。ボール投げちゃったでしょ。私と一緒にいた、友達の子供」
「ああ」
「たっくんがね、『あのお兄ちゃん、イタイイタイなの?』って」
意味がわからず首を傾けた路久を蘭は眺める。「たっくんには、路久ちゃんが何か痛みとか苦しさを抱えてるように見えたんでしょうね」
「え……」
「どう? 当たり?」
面白がるような目で聞いてくる。思いも寄らない方向からの質問に、路久は返答に窮した。
席の傍を制服姿の女子が数人、甲高い声で話しながら通り過ぎた。蘭は彼女たちが座る席を確認するように見届けてから、こちらに向き直る。そのときには表情が穏やかなものに変わっていて、路久を小さく驚かせた。
「……もしかして、千尋とのこと?」
何気ない口調だったけれど、なんとなく感じるものがあった。彼女は、そのことを気にして路久を誘ったのではないだろうか。緊張が吹っ飛ぶ。それで否定する声は大きくなった。
「違うんです。むしろ千尋さんには色々助けてもらってて」
「そう」
無言のうちに問われた気がして、路久はどうにか話し始めた。
「確かに、おれ今少し悩んでることがあって、それで実家に帰ってみたんです。千尋さんには本当に色々助けてもらったんですけど、でも、色々やってみてもこれといった解決策は見つからなくて」
「ご両親に話を?」
「いえ、言ってないです。そのために帰ったわけじゃなくて、何ていうか、その……手がかりでもあればと思ったんです。けどそういうのもなくて。それで、もうどうしたらいいかわからなくなって、どこも行き止まりっていうか。確かにそれで言えばちょっと疲れてました」
意外にも蘭は目を細めて優しい表情になった。瞳に何か感情が横切り、続く声も柔らかくなる。
「そっか。行き止まり……もどかしいね」
この間の飲み会のときとは随分印象が違う。そのとき初めて、そうかこの人は千尋さんよりも年上なんだよな、とぼんやり思った。
「あんまり考えすぎるとよくないし、たまには少し休んだほうがいいかも」
「はい」
休んだところで解決はしない。するわけがない。路久の頭の中ではそんな声が暗がりからいくつも上がっている。けれど蘭は事情を知らないし、ただ常識的なことを言っているだけだ。気遣いには感謝してうなずいておく。
「もしかしたら先に進んでるつもりが、頑張って同じところをぐるぐる回ってるだけってこともあるから」
「……そう、ですね」
「千尋にめいっぱい甘えちゃいなよ。好きな子に頼られたら、何でもうれしいでしょ」
慌てて路久は首を振る。
「そんなわけには。千尋さんもお仕事忙しそうですし」
好きな子というのはもちろん路久のことを指しているとわかった。そして蘭がそう言うということは、千尋が路久に思いを伝えたことを既に彼女は知っているらしい、と路久は考えた。きっと、幼なじみの四人の間ではいつでも色々な情報がやり取りされているものだろうと。
けれど実際には蘭は何も聞いていない。飲み会のときの二人の言動から推測しただけだった。結果、話が進むうちに会話の方向は自然と定まっていくこととなった。
「千尋のこと、どう思ってる?」
「どう……」
本人がいないところでそう訊かれたのは初めてだった。身体の内側で火が灯ったような心地がする。
「えと……好きです」
覚えず口から飛び出した言葉に、路久自身も驚いて口を押さえる。うふふ、と蘭は笑う。
「ずいぶんはっきり言うのね」
今度は恥ずかしさに顔がかっと熱くなる。蘭の質問の意図を吟味せずに、一番近くにあった言葉を発してしまった。慌てて言い直す。
「あの……すごく優しくて、尊敬できる、素敵な人だと思います」
「言い直さなくていいの。そっかぁ、好きなんだ。それはぜひ千尋に伝えてほしいな。あいつ飛び上がって喜ぶから」
そう言われると不安になって、路久は目の前のテーブルに目を落とした。
「自信がないんです」
「え?」
「この気持ちが、何ていうか……、恋愛っていうものなのかよくわからなくて。千尋さんの気持ちにきちんと応えられるのか自信がなくて」
あ、もうあいつ告白してたんだ、という蘭のつぶやきは路久の耳には届かない。
「恋って、どういうものなのか」
路久の真面目な言葉に蘭は思わずといった様子で笑う。少し恥ずかしくなった。
「なかなか哲学的な質問ね。そうね、わからないって感覚が私にはわからないな。そういうことで悩んだことないのよ。その瞬間わかるから」
「そうなんですか」
思わず身を乗り出してしまう。
「見た瞬間わかるの。あ、好きだなって。一目惚れに限らずね。昨日まで何とも思ってなかったのに何かのきっかけに、心を掴まれるっていうか」
自分の膝を見下ろして考え始めた路久に、蘭はコーヒーカップを取り上げながら言った。
「まあでも、人それぞれだけどね。私みたいな人もいるし、少しずつ気持ちが変わっていく人もいる。だから当てはめるのって難しいよ。どう思ってるかより、その人とどうなりたいかが大事だと思う」
中身を一口すすって笑う。
「いつも傍にいたいとか、手をつなぎたいとか、抱きしめたいとか、キスやセックスをしたいとか、逆にそんなもの何もいらないとかね。それができる関係を千尋と築くって考えるとわかるかな?」
美しい女性からきわどい(と路久は考える)言葉が出てきてどぎまぎする。
「帰りの新幹線の時間、千尋に連絡してる?」
「いえ、特には」
「連絡しなよ。会いたいでしょ?」
「えと……でも、」
「会いたくないの?」
そう問われて初めて、そういう気持ちを意識した。
「会いたい……です」
一度気付くと、むくむくとわきあがってくる。
「会いたいです」
「だったら教えるの。あいつ仕事片付けて飛んでくるから」
「いや、でも」
「うん?」
「それなら、おれ、自分で行きます」
路久の真っ直ぐな視線を受け止めて、蘭は柔らかく笑った。
一時間後。蘭と別れて新幹線に乗り込む。携帯電話を取り出して、『これから帰ります』と千尋にメッセージを送った。返事は数分後に送られてきた。仕事中のはずだが外出しているのだろうか。
『何時の新幹線? 迎えに行くよ』
『いえ、大丈夫です。でも、帰ったら会いに行ってもいいですか』
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