意味

 結局実家に帰ったけれど、何も変わらなかった。飛べない。

 ――あなたの能力にどんな意味があるのかって。

 母の言葉を思い出していた。能力の意味。仮に意味があったとすれば、能力がなくなった今は、どういうことになるのだろう。その意味はもうなくなってしまったというのか。

 新幹線から見える車窓はすぐにトンネルに阻まれて見えなくなってしまう。路久は目を閉じ、考えに沈んだ。



 アパートにたどり着いたときには夜の八時を回っていた。千尋からは七時前に『俺も仕事上がるよ』と連絡が来ていたので、彼はすでに帰宅しているはずだった。

 エレベーターを上がって六階の通路に出ると、視線の先に人影があった。

「千尋さん」

思わず声を上げていた。駆け出す。スーツ姿で鞄から鍵を取り出しかけていた千尋は、声に気づいて顔を上げた。路久を認めて一度目を丸くし、それから笑顔になった。大きな瞳が豊かに輝く。薄桃色や新緑の色の気配をまとう、優しい笑顔。

 ああ、千尋さんの誕生日がいつか、まだ訊いたことがなかった。頭の片隅で思い出す。けれどそれもすぐに押しのけられた。圧倒的な感情の嵐が胸から全身へ、指先に至るまで駆け巡るのだ。

 ――心を掴まれるっていうか。

 蘭が言っていたことが、おぼろげにわかった気がした。千尋に会ったらまず、能力のこと、実家でのこと、フィルムのこと、蘭に会ったことなどを話そうと思っていたのに。そんな事情などまるで無視して、今までにないほど強く、急速に一つの気持ちが織り上げられていく。千尋さんと、どうなりたいか。――全部だ。全部、彼がいい。どんなときも、何をするとしても。

 その気持ちに最後まで従っていれば、路久は千尋に飛びついてしまうところだった。けれどさすがに生来の遠慮深さがそれを許さず、あと一歩のところで足が止まる。彼を捕まえようとした両手は中途半端に胸元に留まった。千尋はそんな路久の様子を瞬きを繰り返して見つめていたけれど、すぐにまた笑顔になった。

「おかえり、路久ちゃん」

「ただいま帰りました」

 それだけ言葉を交わして路久は千尋を見つめ、彼もこちらを見つめた。路久はリュックを背負ったまま、千尋は家の鍵を手にしたまま。それだけで心が満たされていく一方で、欲張りな器はどんどん大きくなっていく。それはとても複雑な心地だった。むずむずして、思わず身体をよじりたくなる。胸をかきむしりたくなる。

 以前、思いを込めて見交わすことで相手に伝われば早いのに、と願ったことを思い出した。今ならきっと、路久の心は千尋に伝わるはずだ。だって千尋の瞳が何を伝えているか、路久にははっきりとわかるから。

「千尋さん」

「はい」

 改まった路久の呼びかけに、千尋も改まった声で返事をした。

「手を、貸してください」

千尋は少し驚いたように口を開きかけたけれど、黙って鞄を足元に置き家の鍵をスラックスのポケットに入れ、両手を差し出した。その手をそっと取り、屈みこんで自分の額を押し当てる。少しひんやりとした千尋の手。身体中にじわじわとわき上がってくる感情が路久に実感をもたらす。

 そうだ。ずっと、千尋に触れたかった。

 喉の渇きが癒えるときとよく似ていた。目的を果たした後もその手を離したくなくて、今度は唇を寄せる。こんなことを誰かに教わったわけでもないのに、そうしたくてたまらなくなったのだ。

「……路久ちゃん、」

 不意に千尋の手に力がこもった。彼は路久の手を掴み、もう一方の手でポケットから鍵を取り出した。自宅のドアを開ける。それから足元の鞄を取り上げ、路久を強引に中へ引っ張り込んだ。

「わ、」

 ドアを閉めそこへ路久を押し付けるようにして抱きしめる。驚いたけれど、それは路久も望んでいたことだったから、いっそううれしくなった。

 ――抱きしめたい、という気持ち。

 ああ、やっぱり同じなんだ。両腕を彼の背中に回して抱き返す。

「……駄目だよ路久ちゃん、心臓にわるい」

千尋が耳元でかすれた声を出した。

「すみません。今、わかったんです。あのときの千尋さんの気持ち」

「え?」

「好きです」

 唐突な言葉。けれど意図せず口から飛び出したものではなかった。それを彼に伝えたかったのだ。

「千尋さんが好きです。前から好きだったけど、なんか、何ていうか、今は千尋さんが好きでうれしくて、ものすごくうれしくて、でもうれし過ぎて苦しくて、くすぐったくて……手に触れたらおさまるかなって思ったんですけど」はあ、と思わず吐息がもれた。「だめです。今も苦しい。それになんかふわふわする」

話すうちに路久は自分が何を言っているのかわからなくなってきていた。身体が熱を持ち始める。鼓動が早い。唾を飲み込んで口をつぐむと、千尋もふっと息をつく。

「俺も路久ちゃんのことが好きだよ。好きで、苦しい。たぶん同じ。いや、俺はもっとひどいよ。そろそろ忍耐が切れそうなんだから」

「あっ、そういう感じ、たぶんわかります」

「嘘。俺がどんだけ我慢してきたか知らないでしょ」

千尋はそう言うと、腕を緩めて少しだけ身体を離し、鼻先が触れそうな距離で路久を見つめた。彼の瞳は先ほどよりももっと強い色をしていて、路久の心をかき立てる。

「好きだよ」

 千尋がゆっくりと顔を近づけてきて、反射的に目を閉じる。ふっと気配を感じた次には彼の唇が路久のそれに重なった。温かい、初めて感じる柔らかさ。何ともいえない甘い感触に肌が粟立った。そのまま抱きしめ合う。

 大きくなりすぎた気持ちが、身体を内側から破り飛び出してくるのではないかと思うほど強く暴れて、また圧倒的な速さで満たされていく。触れるだけでは足りない。千尋の真似をして何度もついばむうちに、乾いていたお互いの唇は潤いを取り戻していった。

「ん……ち、ひろ……さん」

「少しはおさまった?」唇を離して千尋が訊く。「俺はまだ全然足りないけどね」

 からかうような口調だけれど、瞳はまったく真剣だ。彼の心臓がどくどくと激しく鼓動しているのが密着した身体から伝わってくる。前髪からのぞく額には汗が浮いていた。路久の方も身体が熱い。

「そう、ですね。少しは」

とは言ったものの、千尋を抱く手を離す気はなかった。そのまま、路久は彼の耳元にささやく。本当は最初に言いたかったこと。

「おれはもう、飛べません」


「……路久ちゃん」

 千尋がぱっと腕を緩めて路久の顔を見つめた。眉根を寄せて悲しそうな顔をする。彼にはそんな顔をしてほしくはない。

「実家に帰っても何もわからなかったし、やっぱりだめだった。でも、それでいいんです」

「そんな」

「母が言ってたんです。この力にどんな意味があるのかずっと考えてたって。何か意味があって俺に備わったものだと思ってたみたいです。だから、帰りにそのことをずっと考えてました」

 この力に意味があったということは、失ったとき、その役目を終えたのだろう。この力を失ったときに、路久が得たもの――。

「おれが思うに、たぶんこの力は、千尋さんを助けるために備わったものだったんです。あの日あのとき、千尋さんを助けられるのはおれしかいなかった。でも初めてだったら、あんなにうまく行ったかわからない。だから最初に助けたあの人は予行練習みたいなものだったんだ」数ヶ月前の自分を状況を思い返しながら続ける。

「その後、おれが洗濯物を追いかけちゃったとき、それが千尋さんだったから自然に受け入れてもらえた。その後のことも、動画の件も、いつも千尋さんがおれを助けてくれたんです。あなたがいるから、おれは今こんなに大切な人がいて、うれしすぎて苦しいくらい好きな気持ちが自分にあるってわかったんです」

話すうちに、路久は自分の考えに少しずつ確信を持っていった。

 飛べなくなった日、この世の終わりかと思えるほど打ちのめされた。絶望した。これほどひどい仕打ちは他にないと思った。けれど今、千尋と引き換えにその力を返してやると言われても到底うなずけない。

「だから、今はもうその役目を終えたって、そう思います。もう、大丈夫です。そう思ったら心が軽くなりました」

穏やかな声で路久がそう言うと、千尋はますます悲しげに顔を歪めた。その瞳に少しずつ涙がはりつめていき、路久を驚かせた。

「……だったら俺は、路久ちゃんの人生を狂わせた最低野郎じゃないか」

「どうして」

「俺が酔ってバカみたいに飛び降りなきゃ、君は力を失わずに済んだんだ。俺がいなけりゃ、君は今夜いくらでもどこへでも飛んでいけたんだ」

千尋の腕が力を失って下がる。路久は慌てて彼を腕に手を伸ばした。

「違う。どこに飛んでいけたとしても千尋さんがいないなら同じです」

 路久には千尋の涙の意味がさっぱりわからない。どうして彼はわからないのだろう。「おれの人生は狂ってなんかいない。この力はおれに千尋さんをくれたんだ。誰よりも何よりも大切な千尋さんを」

 千尋の目から一筋、涙がこぼれ落ちた。彼が涙を流すのを見るは初めてだった。以前、あれほどはりつめていながらこぼれることがなかった涙。路久はそれがとても貴重なものに思えて、覚えたばかりの口づけを彼にした。

「千尋さん、好きです」

「あんなにすごい力の代わりが、俺なんかでいいの」

涙に濡れた声が震えている。

「千尋さんが言ったんじゃないですか」路久は不意におかしくなって言った。「千尋さん自身がどう思ってるかなんて関係ないんですよ。おれの気持ちはおれのものです」

 目を丸くして路久を見直した千尋は、しゃくり上げながらようやく言った。

「俺にとっても君は、誰よりも何よりも大切な人だよ」

そんな彼を路久はもう一度強く抱きしめる。こんなに強い衝動が自分の中に潜んでいたのかと思うと不思議な気がした。不思議で……それすらもうれしい。

 具体的なことは何一つわからないけれど、ただ、彼をもっと感じたいと思った。



 そのまま二人は千尋の部屋に上がった。荷物を置いて、カーペットの上でまた抱きしめ合う。

頬をすり寄せると応えてまた彼がキスをくれる。うれしくなって路久も応じた。

 もっと方法はあるのだ。口を開けて舌を絡ませ合う生々しい感触と時折もれるお互いの熱い吐息、角度を変えるたびにちゅ、ちゅ、と立つ音が強く身体に作用する。

「はあ、ぁ……んっ」

「くるしくない? 鼻で、いきして」

 口づけを深くしていくうちに、下半身が鼓動と共に重く疼く。心身が求めるものにブレーキをかける理由を考えられなくなった。もっと身体ごと彼に触れたい。焦がれるような欲望は、散歩ができないときと少し似ていたけれど、大きさは桁違いで抗いがたい。果たしてこんな制御しがたい大きな気持ちを千尋も持っているのだろうかと思い、その答えはすぐに与えられた。

 するともう、我慢できるはずがなかった。千尋が路久の服の中に手を入れて捲り上げると、路久の方は彼のネクタイをほどき、シャツのボタンを外す。お互い性急に相手の服を脱がし、肌に触れる。千尋の肌は滑らかでしっとりと湿っていた。触れた瞬間、しびれるような欲情が細胞を押しのけるように突き上げて路久を動かす。以前想像していたよりもずっと激しい。彼の身体の隅々まで触れて確かめ、口づける。千尋はそんな路久の手を取り、指を一本ずつ口にくわえて舐めしゃぶる。熱くやわやわとした口内の感触に一瞬で溺れ、力が抜けた。

「千尋さん、……」

千尋は濡れた瞳でうっとりとした笑みを見せると最後にいとおしそうに手のひらに頬ずりし、唇を寄せた。その手を引いて傍のベッドへ行く。

 ベッドに入って、もっと色々なことをした。誰にも見せてこなかった行為を千尋の手に任せ、路久も同じように彼を愛撫する。

 思考がどんどん単純化する中で、皮膚の感覚は敏感になっていく。甘く荒い息を首筋に感じ、それだけで快感を覚え震えるほど。汗が頬を伝うと、お互いにそれを舐めとった。しょっぱいね、と笑いながら。

 ただただ、目の前の千尋に夢中になった獣のような自分。意識を持って行かれないように、路久は彼の名を呼び続けた。

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