帰省

 今日帰ると連絡を入れると母は驚き、さらに二泊すると伝えると「だったら日曜までいたらいいじゃない」と当然のことを言った。土日はアルバイトが休めないのだと言おうとして、ふと学費はすべて両親が負担していることに思い当たる。「土曜はこっちで予定があって」と苦し紛れの言い訳をした。

 大学の講義とアルバイトを終え、そのまま新幹線に乗って一時間半。それからローカル線に乗り換えて四〇分。毎年夏休みと正月には帰省しているから、半年ぶりくらいだろうか。深夜の帰宅となったけれど、両親はまだ起きていた。

「おかえりなさい。晩ごはんは食べたの?」

 いつものように母は穏やかに笑って食事の心配をし、父はダイニングテーブルで晩酌をしていた。昔から変わらない光景だ。

「ずいぶん遅かったな」

「バイトの後新幹線乗ったから。あ、弁当食べてきた」

「じゃ、お母さんも飲もうかな」

「散歩はいいのか」

 当たり前のように父が訊く。酒を飲む前に散歩に行く習慣は、両親も知っていることだった。今までだったら言われるまでもなく荷物を置いて早々に出かけている。

「あ……うん、もう遅いから。疲れてるし」

一瞬迷ったけれど、とりあえず簡単な言葉で返事を済ませた。頭をかく。父は「そうか」とそれ以上は何も言わなかった。

 母がうれしそうに冷蔵庫からビールを取り出し、三人で乾杯した。突然の帰省の理由を伝えていなかったが、両親は特に何も訊かない。話題は路久の大学やアルバイトのこと、一人暮らしの様子などに終始した。実家を出て三年、こんな中途半端な平日に帰ってきたことはなかったのだけれど。

 アパートの隣人である千尋と仲良くなったことを伝えると、母が声を上げた。

「ほら、最初に挨拶しとけば、そういうときにも気安いでしょ」

「でも向こうはおれのこと覚えてなかったよ」

「最近じゃ、引越しの挨拶もやらないって言うからな」

「千尋さんは社会人だから、朝は時間帯も違うし、普段はあんまり会わないよ」

 それは嘘だった。つい数日前までは部屋を交換してベッドを借りてすらいたのだから。

 路久が言葉を切ると、テーブルには静けさが降りた。父を見る。母を見る。二人とも路久の顔を見守っていた。温かい感情が向けられていることがわかって、どきりとする。

「あのさ、千尋さんってすごいんだ」気がつけば、頭の中にあったこととは別のことを話し始めていた。

「おれ、ドジって千尋さんの前で飛んじゃったんだ。小さいときと同じ、洗濯物。それをまたやっちゃってさ。でも千尋さんは本当にすごい人で、素敵だねって言ってくれたんだ。秘密も守ってくれるし、色々助けてくれるし、ご飯食べさせてくれたり、とにかく何かと気にかけてくれて」

母は珍しく饒舌になった息子を楽しそうに見た。

「そんなにお世話になってるなら、何かお返ししなくちゃね」

「あ、うん。だから一回プレゼント買った」

「へえ! お前がそんな気が効くなんてな。金はあったのか」

「大丈夫。バイト代溜まってく一方だし」

父はため息交じりに言った。

「まあ、大学をちゃんと卒業できればバイトはいくらしてもいいけど、身体壊すなよ。本末転倒だ」

うん、と路久がうなずくと、母がプレゼントって何買ったの、とさらに質問が続く。結局風呂を済ませて自室に戻った時は一時を過ぎていた。

 かばんに入れたままにしていた携帯電話を見ると、千尋からの着信が入っている。電話すると言われたことを忘れていたわけではなかったけれど、予想外に両親との話が長引いてしまった。

『千尋さん、まだ起きてますか』

メッセージを送ってみたけれど返事はない。もう寝てしまったのだろう。

 窓を開けて外を見る。見慣れた夜の町の景色は変わらない。新旧とりどりの一軒家が並び、南側にはマンションの一群、東側には田んぼが広がり、その奥にはいくつか遠くの山々が連なる。明るい部屋の中からはよく見えないけれど、散歩をしているときは迷うことがなかった。満月の日は月明かりに少し躊躇してしまうくらいだ。かえって今住んでいるアパートの方が、ネオンやビルの明かりがあるため月明かりは問題ではなかった。

 夜の深み、というものがこの辺りは段違いなのだ。夜中の一二時に散歩をするという習慣は、この田舎町では十分通用すると改めて思う。

 夜気を吸い込む。澄んだ空気に少しだけ心慰められた。

 飛べなくなって、もう一ヶ月経つ。

 悲しくて涙を流して、苦しくてもがいて千尋を頼って。他に何か方法がないかと帰ってきたけれど。

 かすかなため息がもれた。窓を閉め、布団に入る。

 目を閉じ、千尋と一緒に眠ったときのことを思い返した。飛べなくなって以来の習慣だ。そうか、こうして布団に入っていれば、電話で声を聞くだけでも隣に彼がいるような心地を味わえるのかもしれない。それはいい。


 翌朝、千尋からメッセージの返信が届いていた。

『おはよう。ごめん、昨日は寝ちゃってました』

『よく考えたら、夜の新幹線だし、久しぶりにご両親に会ったんだから、電話する時間とかなかったよね。ごめんごめん』

いつものように優しい千尋の言葉。読んでいると、声が聞きたくなる。

『とんでもないです。おれの方こそ、電話に出れなくてすみませんでした』

『今日おれの方から電話します』

 布団を片付けて居間に出る。朝のニュース番組は軒並み終わっている時間で、父は既に仕事に出ていた。母はダイニングテーブルでノートパソコンに向かっている。家計簿をつけているらしい。路久を認めるとおはよう、と言い、朝食は冷蔵庫に取ってあると告げた。

「母さん、パート行ってないんだ」ごはんをよそい、斜め向かいに座って朝食を食べ始める路久。母は息子と目が合うのを待って、苦笑いをしてみせた。

「先月辞めたのよ。今は求職中。出かけるなら、母さんの車使っていいよ」

「うん……」

「あらもう、味噌汁くらい温めなさいよ」

椀が取り上げられる。

 実家で考えてみようと思い立ち帰ったはいいが、特に明確な計画があるわけでなかった。飛べなくなったことについて、おそらく原因が身体の問題ではないことはわかっている。トランポリンが証明してくれた。そうでないなら、内面、心……自分の意識の問題なのだろうか。

 とりあえず実家の散歩コースを回ってみようか。それとも昔行っていた運動公園に行ってみようか。卵焼きを口へ運びながら考える。

「アパートのお隣さん、本当に良い人でよかったね」

温めた味噌汁の椀を置くついでに、母が昨夜の話題を持ち出してきた。

「ん? うん。そうだね」

「お名前何だったっけ」

「千尋さん。斎川千尋さん」

「社会人って言ってたよね。おいくつなの」

「六個上だよ。二七歳」

「六個も上? じゃあもう立派な大人の方なのね」

「うん」

と答えて母の顔を見る。彼女の質問が単なる遊びのキャッチボールに過ぎないのか、そのうちど真ん中に何かしらの直球なり変化球なりを投げてくるつもりなのか計りかねた。それを察したか、母はふっと肩の力を抜いたように笑ってみせた。

「あなたがそんな風に誰かのことを話すのは初めてだったからね、気になったのよ。親として」

呆けたように自分を見る息子に、いたずらっぽく笑ってみせる。

「親に話せないお友達はいるかもしれないと思ってたけど」

「何それ」

「ガールフレンド。察しなさいよ、これくらい」

「はあ」

味噌汁をすする。

「で、どうなの」

「うん?」

「千尋さんは違うの?」

「なにが」

「とぼけないでよ。ガールフレンド。違うわけ?」

「な……!」

不意打ちだった。かっと身体が熱くなる。

「ち、ちが」

「きゃー何その顔! 赤くなっちゃって! うそ! 路久にもとうとう彼女できたわけ!?」

「そんなんじゃないよ!」

と言いはしたが、当の本人からは好きだと告白されている。さらに路久もそのことを好意的に受け止めているし、ここ最近の自分の心身の変化に気づいてもいる。それにしてもどうして母がそんなことを……路久の心を読みでもしないとわからない事情に気づくのか。すさまじい親の勘とでもいうのか。

 そう思いかけて気づく。千尋という名前――そうか、女性とも連想できる名だ。

「……母さん、千尋さんは男の人だよ」

咳払いをし、ひとまず誰の目にもはっきりしている事実を告げると、なあんだ、と母は残念そうに口を尖らせた。ではなぜ男性相手の話にそれほど動揺したのかと問われればもはや逃げ場はなかったが、幸いそれ以上追求されることはなかった。内心で胸をなで下ろしつつ食事を再開する。

 いつの間にかパソコンを閉じた母は、その上に頬杖をついて路久の方を見ていた。

「昔、お父さんがあなたに言ったこと、覚えてる?」

その質問を聞いて、母もそのことを忘れていなかったのだなと路久は理解した。

「……うん。千尋さんは、信頼できる人なんだ」



 自室に戻って着替え、部屋の中を見回した。タンスを開けて昔着ていた散歩用の服や手袋を確認したり、棚にしまってある本をめくってみたりするが、半年ぶりでは特に発見もない。日記でもつけていれば、過去の自分を振り返り、何かの材料になったかもしれない。

 そう思い手癖で机の引き出しを開き、中のノートを取り出す。方眼紙のそれは、実家での散歩コースを記録したものだった。簡単な手書きの地図で、注意すべき地点や休憩場所として適した場所などを合わせて記している。

 初めて夜の散歩に出たのは、小学四年生のときだった。両親が寝静まった後部屋を抜け出し、通学路に沿って家々の屋根を伝い、小学校まで行って帰ってきた。それだけでへとへとになり、しかしとても興奮したことを覚えている。その頃には家の中で飛び回るだけでは到底物足りなくなっていたのだ。

 その頃に習いたての地図記号を使いながら書き始め、数々の更新と改良を重ねて、最終的には基本のコース八本に分岐を含めて二〇本となった。実家にいる頃は毎晩このノートを開いたものだ。ちなみに現在住んでいるアパートにももちろん同様のノートはある。そちらはまだ書き始めてせいぜい三年の新しいものだ。

 初めて一人で夜空に飛び出したときのことを思い出すと、身体が疼いた。押し込めていた欲望が内側からわきあがってくる。それに誘われて椅子から立ち上がり飛んでみたが、一瞬数センチ浮いただけだ。ため息をつく。

 その下の引き出しを開け、高校の卒業アルバムを手に取る。どの写真も色褪せて見えた。実際の色味ではなく、路久の意識がそうさせるのだ。千尋と出会ってからの日々が細かなところまで鮮やかなのに対し、それまでの人生はなんだかぼんやりとしか思い出せない。千尋の存在が大き過ぎたことと、路久の人生が無味乾燥としていたことと、両方が原因だろう。

 ページをいくつかめくり、自分の写真を見る。当時笑顔で作ったつもりが二度も撮り直しになったことを思い出した。載っている写真もあまりいい写りとはいえない。ぎこちない笑顔。千尋が見たら何と言うだろう。路久ちゃん緊張し過ぎ、と笑ってくれるだろうか。


 ノックの音。返事をすると、「路久、ちょっと」と母が入ってきた。前置きもなしに手のひらを差し出す。

「どうしたの」

「これ、あなたに渡しておくね」

 母はなぜかすっきりとした、満ち足りたような笑顔を浮かべていた。手のひらの上には、小さな円筒形の白いプラスチック容器が乗っていた。中身が半分透けて見えている。緑色や黒、灰色か。

「お父さんが昔、フィルムカメラに凝ってたこと知ってるでしょ。そのときあなたを写したものよ」

「フィルム?」

「覚えてない? 五歳くらいかな。あなたが飛べるようになった頃に、海で撮ったの」母は目を細めて眩しそうな顔をした。昔話をするときによく見せる表情だった。「人目につかないように、冬の、日が出てすぐの時間帯にね。日の出を見ようって眠そうなあなたを連れて、夜明け前に車を走らせて」

 まったく覚えがない。路久は渡された容器を見つめた。

「あなたが思い切り飛んだ姿を撮りたかったんでしょうね。でも、現像するわけにはいかなかった。写真屋さんが目にするでしょう」

 はっとした。まさか両親が能力についてそこまで細かな配慮をしていたなんて知らなかった。思えば、家のアルバムに路久の飛ぶ姿が写っているものに記憶がない。いつ誰がアルバムを見てもいいように、二人はあえて写真を残さなかったというのだろうか。驚いた。

「だから今までずっとしまっておいたの。もしあなたが大きくなって、飛ぶ力のことを誰かに打ち明けるようなことがあったら渡そうって、お父さんと決めてたのよ。

 カラーフィルムだから写真屋さんでしか現像できないわ。しても構わないと思うならしてもいいし、嫌ならしなくてもいい。あなたが決めるべきだってね。……まあ、現像しないならお母さんたちに返してもらえるとうれしいけど。息子の大事な記録だしね」

最後の辺りで母は肩をすくめた。

「……知らなかった」

 小さなさざ波が身体の中で生まれ、寄せては返す。もう記憶にはない光景を脳は懸命に構築しようとしている。冬の早朝の海。きっととても寒かった。海風も強く、海面は濁っていた。父はかじかむ手でカメラを構えたろう。母はそんな夫と元気に飛び回る息子を案じて、水筒に熱いお茶を持ってきたかもしれない。けれど、その映像を脳裏に描くことはできなかった。代わりにただただ優しい波が身体中を飲み込んでいく。

「だから昨日、千尋さんの話を聞いて、お父さんと話したのよ。だったら渡そうかって」

「……ありがとう」

 ようやくさざ波が通り過ぎた後、路久は言った。母は腰に両手を当てた姿勢でうんうん、と満足そうにうなずき、それ以上は何も言わずに踵を返した。

「母さん」

 路久はフィルムケースを握りしめ、声を上げた。

「うん?」振り向いた母は瞬きを繰り返す。

 ――おれ、飛べなくなった。

 ――向こうでちょっと事情があって、二ヶ月くらい散歩をやめてたんだ。それから久しぶりに飛ぼうとしたら全然飛べない。普通の人みたいにしか跳べなくて。原因も対処法もわかんなくて……。

 右手を握りしめたまま、床に目を向ける。

 言えない。

 こんな大切なフィルムを受け取った後に言えるわけがない。両親がこれほど細やかに路久を支えてくれたのに、当の本人はなんて不甲斐ないのだろう。自分自身に嫌気が差す。

「どうしたの」

「いや……」

一瞬、様々なことが頭を巡った。どれかひとつを掴もうと手を伸ばした頃には全て消えてしまっていた。

「何でもない。出かけてくる」

「車使う?」

「ううん。自転車」



 その日は自転車で実家の散歩コースをすべて回って終わった。通る場所によっては少々の懐かしさはあったけれど、それ以上の感慨はない。両親がしてくれたことと、フィルムのことが頭を占めていて、ただただがむしゃらにペダルを漕いで回った。

 夜、時間を見計らって千尋に電話をかける。声を聞くのは二日ぶりで、別に珍しいことでもないのに、もしもし、という彼の声にきりきりと胸が痛み、熱くなる。今すぐ彼の元に飛んで行って泣き出してしまいたい。まるきり幼稚な気持ちがわきあがる。

「こんばんは」

「昨日はすみませんでした」

「気にしないで。俺も新幹線の時間のこと考えてなかったし。ご両親とは話せた?」

「はい。千尋さんと仲良くなったことを話したら、喜んでました」

「え、俺のこと話したの?」

「家族以外でおれの力のことを知ってるのは、千尋さんと裕也さんだけなんで」

「そっか……そうだよね」

「それで今日、母からフィルムをもらいました」

「フィルム?」

 昼間の母とのやりとりを千尋に伝えると、彼はしばらく言葉をつまらせた。

「……すごいね。そんなところまで考えてたんだ」

「おれもびっくりして、自分の親ですけどすごいなって思いました」

「リスクがありそうなところをしっかり考えて、路久ちゃんと路久ちゃんの秘密を守ってたんだね」

守る、という表現は少し気恥ずかしい。はあ、と応じる言葉は曖昧になった。

「でも、本当に路久ちゃんのご両親って感じする。路久ちゃんも、俺と散歩するときすごく念入りに準備してくれたでしょ? 同じだ」

「え、そうですかね」

「だって」千尋が笑い声をたてる。「服の色から素材から、靴も履かせない徹底ぶりだもん。今の話聞いて、俺そのことを一番に思い出したよ」

「すみません。それは、」

千尋は謝ることじゃないよ、と言った。彼の笑い声に路久もつられて笑ってしまった。

 そうか、そんな両親に育てられて今の自分は形成されているのかと不思議な気持ちで思った。親に似ている、なんて言われたことは物心がついて以来なかった。十代の頃はこんな変な力を持った自分は両親と本当に血が繋がっているのかと疑ったこともあったのだ。

「フィルム、明日現像しようと思います」

 ひとしきり笑い合った後、路久は言った。迷いや恐れは初めからなかった。千尋に出会う前なら、あの動画の事件の後すぐだったら、迷ったかもしれない。怖くて現像に出せなかったかもしれない。けれど、今は怖くない。どうしてだろう。

 今は飛べないから。それは理由の一つとしてある。

 それに。

 ――俺は路久ちゃんの味方だよ。

「うん。楽しみだね」

 静かな、温かい声で千尋は答えた。

「できあがったら、千尋さんに見せたい」

「俺も見たい」

二人でくすくすと笑い合う。結局その後も、千尋は能力について一言も訊かなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る