二日間
トランポリンを体験した後も、やっぱり路久の能力は戻る兆候を見せなかった。一方で多少ストレスは解消され、それが心身にいい影響をもたらしたらしい。夜はたぶん大丈夫だと思います、と千尋に報告してきた。それで、二人のベッドの交換は三週間ほどで終了した。
「色々甘えてしまってすみませんでした。ありがとうございました」
千尋の家で夕食を食べた後、鍵を返して路久は頭を下げた。少し淋しそうに見せる笑みが、まるですべてが終わった後の挨拶のように聞こえて、千尋は戸惑った。
「ううん。大したことはしてないよ。でも……」
路久はあの日以降、表情のない顔で考え込んでいることが多くなった。トランポリンではあれほど満ち足りた笑顔を見せていたというのに。きっと能力について考えを巡らせているに違いなく、話して欲しいと思いながら、千尋は訊くことができずにいた。聞いたところでお前に何ができるのかと言われれば返す言葉がない。どうしようもないこととはいえ、自分の無力さが嫌になる。
「あのさ、他にも色々やってみない? 駄目もとだけど。今度こそジェットコースターに乗ったりとか、あとバンジージャンプとか。テレビで見たけど、逆バンジーってぱっと見近いなあって思ってさ」
あえて明るい口調で話してみる。けれど、彼の表情は変わらなかった。かえって笑顔が優しく穏やかなものになるので、なぜかこのまま彼が自分から離れてしまうのではないかという根拠もない予感が胸に渦巻いて、苦しくなる。
「千尋さん」
その声ははっきりしていて、何かの宣告のように千尋の心に響いた。
「本当に色々ありがとうございます。おれ、少しまた一人で考えてみたいと思います。千尋さん仕事もあるのに煩わせてばっかりだし。甘えてしまった分は必ず何かの形でお返しするので」
本当にすみません、とまた頭を下げる。無力感と淋しさが急速に千尋の胸を満たし始めていた。
「お……」声が哀れっぽく濡れそうになって、慌てて咳払いする。「お返しなんて水臭いこと言うのやめてよ。俺は煩わしいなんて思ってないんだから。たくさん甘えて、頼ってくれたらうれしいし。俺は路久ちゃんが好きだから、力になりたいと思ってるだけだよ」
「千尋さん、本当に優しい」
目を伏せて言ったその言葉は、思わず出た独り言らしかった。くすっと笑った表情はどこか大人びていて、千尋の感情を加速させていく。
「おれ、明日から実家に帰ろうと思うんです」
「え」
「大学、ちょっとサボっちゃうんですけど。引越しのバイトは連続で休み取れないし、平日しか時間取れないんで。一回実家帰って、自分自身のこと整理したいと思って」
千尋の頭の片隅では、大学生がアルバイトを休めないために講義をサボるとは本末転倒ではないのかという声がしていた。けれどわかっている。彼にとって何よりも大切なことのためなのだ。
「いつまで?」
問う声はやや尖った。感情が高ぶってだんだん表情が取り繕えなくなってくる。
「土曜にはバイト出なくちゃなんで、二泊ですね。金曜の夜には戻ります」
たった二泊。なのにどうしてこんなに淋しいのだろう。とうとう千尋はうつむいてしまった。この三週間、彼の部屋で彼のベッドで寝ていたからだろうか。それとも、今目の前にいる路久の態度のせいなのか。
違う。
俺が路久ちゃんにとってもう何の役に立たないとわかったことが、淋しくて悲しいんだ。
「千尋さん?」
千尋の様子がおかしいことに気づいたのか、路久が顔をのぞき込んでくる。子供のように唇を尖らせて不満そうにしている表情を見つけ、あ、と声が出た。
「……電話していい?」そのままの顔で路久を見、千尋は言った。
「はい、もちろん」
心身を全面支配しそうなほど高ぶってきた感情をため息にして吐き出す。なんとか眉間のシワをほどき、穏やかに見えるであろう表情を作ることができた。
「気をつけて行ってきてね」
「それで、平日なのに俺が呼び出されたってわけかよ」
次の日の夜。千尋は裕也と大衆居酒屋に来ていた。お互いの職場から比較的近く、安さが売りの店だ。綾がおらず、手っ取り早く飲みたいときに使っている。塩分も彼女の大敵なのだ。
路久が実家に着く予定時刻は既に聞いているから、それまでの穴埋めに裕也を引っ張ってきたのだ。
路久がいないところでこれまでの数週間のことを裕也に打ち明けることは悪い気がしたけれど、千尋にとっては藁をもすがる思いだった。けれど事情を聞いた裕也にもこれといった解決策がないとわかると、そのうち自分の思いのはけ口が欲しくなって話の方向がずれてしまったのだ。
肩をすくめる裕也に、千尋は弱音を吐いた。
「だって、何かめっちゃ淋しいんだもん。なんで? 急に達観した大人みたいになっちゃってさあ。ついこないだは子供みたいに弱ってたのに」
「たった二日だろ? 付き合いたての中学生カップルじゃあるまいし」
「付き合ってないからこそ余計淋しいんだってば」
「よくわからん」裕也はいつもの平静さで突き放した。枝豆を咀嚼しながら皮を皿に放る。「淋しいのは単に路久ちゃんと会えないからだろ? それもたった二日。仕事してりゃ紙切れみたいに飛んでく日数じゃん。そもそも子供みたいに弱ってたのを助けて、達観した大人みたいになるまで回復させたのはお前だろ」
「そうだけど。あっさりしすぎっていうか、路久ちゃんは淋しくないのって」
「だからそれは単にお前の下心、欲求不満ってことだろ」
「せめて恋心って言ってよ。確かにそれもあるけど、それだけじゃなくて、たぶんこれ以上俺に頼っても仕方ないって思われたんじゃないかって」
とうとうテーブルに頬を預けた千尋を裕也はじっと見つめ、やがて言った。
「……お前本当たまーに消極的になるよな」
「え?」
「いいや。じゃあまあ、例えばそうだな、お前が得意な……お前の特技って何?」
「え? えー…………縦列駐車、とか?」
千尋の返答に裕也は閉口する。どうやら正しい答えではなかったらしい。
「……そこはお前料理って言っとけよ。まあいいや。
じゃあ、そのお前が得意な縦列駐車がある日突然上手くいかなくなって、あーその、原因も対処法もわからないうちに路久ちゃん助手席に乗せて大通り沿いの店でも行かなくちゃいけなくなったとする。どうだ? 路久ちゃんの前でミスって何回も切り返して、みっともない姿を見せるのは嫌じゃないか」
「それは確かに、嫌かも」
目を伏せる。大したことじゃないにしろ、いい大人が車の運転操作であたふたしているのは格好がつかない。
「そういうことだよ。レベルは雲泥の差だけどな。今回の事態は本当に大変なことだ。お前が心配するのもわかるし、俺だって同じだ。けど、あんまり心配されると逆にみじめな気持ちになっちまうことだってある。試行錯誤してる最中はダサい姿ばっかり見せることになるしな。どっちにしても俺たちにはわからない範囲の話だ。求められれば可能な限り協力するのは当然として、路久ちゃんが自分でなんとかするって言うなら見守るしかない」
「……うん」
「最悪、能力が取り戻せない可能性もある。そのとき路久ちゃん自身がそれを受け止められるかどうか。幸い日常生活上の問題はないから、あとは本人の心次第だろう」
「そんなの駄目だよ。絶対に駄目。あれは、路久ちゃんにとって本当に大事なものだから。数日飛ばないでいると身体が疼くって言ってた。気持ち的にもストレスなんだ」
理不尽だと声が大きくなると、負けじと裕也の口調もきつくなる。彼はビールのジョッキを力任せにテーブルに置いた。大きな音が響く。
「俺もそうならないで欲しいって、マジで思ってるよ。あの力は本当にすごいし、これから先何にでも活かしようがある、夢みたいな力だ。けど、お前が路久ちゃんのことを好きで、路久ちゃんを支える役目を引き受けようと思うなら、あらゆる可能性を考えとくべきだろ。本人の代わりに、最高の場合から最悪の場合まで一通り」
「でも考えてたら、それが現実にならないか怖いよ」
「今お前が弱気になってどうすんだ。考えるだけなら何の影響もないだろ。本人の前で口にさえ出さなきゃ。だから今、感情だけで話すのはやめろ。『もし飛べなくても関係なく君が好きだ、路久ちゃんは路久ちゃんで価値は変わらない』とか軽はずみなこと絶対言うなよ」
「言わないよ。そこまで馬鹿じゃない」
はっきりと言い放つと、裕也は軽く息をつき、眼鏡を外してレンズに跳ねたビールの泡を拭き取る。初めて複雑な感情の端を瞳ににじませた。
「路久ちゃんもかわいそうだよな。真面目でいい子なのに、こんなつらくて難しい問題ばっか起こってさ。この上能力を取り上げられるなんてことになったら、本当、残酷な話だよ」
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