暗転
あの動画の件以来、ほぼ二ヶ月ぶりに全身黒色の服を身につけ、路久はベランダに出た。初夏という言葉に相応しく、もう空気は生ぬるく、湿っぽい。
水曜日の午前三時。空はところどころ雲が覆っており、星はまずまずといったところ。当然ながら辺りは暗く、人や車の通りも皆無だ。
大通りの方で時折走行音が聞こえてくるのは大型トラックだろう。周囲が静かなせいか、昼間は聞き取れない音もよく響く。音に注意して避ければ大丈夫だ。
それは原付バイクも同じだった。この時間帯はちょうど朝刊の配達時間帯で、毎日同じ配達員が同じ地区を回る。彼らは街の変化に敏感なので出くわせば危険でもあるが、ルートは毎日同じだ。彼らがいないタイミングを狙って移動すればそれほど大きなリスクとはならない。
とにかく音に注意することだ。
そういったことは、事前にこの時間の街を歩き回った上で発見したことだった。裕也のアドバイスに従い散歩の時間帯を変えることにした路久は、より万全を期すためこれまでのコースを全て見直したのだ。動画の件が動きを見せなくなるまでの間、大学とアルバイト以外にやることはなかったし、散歩に関する準備を整えることは、飛べない不満を多少慰めることともなった。コースの見直し以外にも準備したものもあるけれど、それはこの時間帯の散歩が危険がないと判断できてから。次のステップだ。
久しぶりの散歩。新しい、初めてのコース。心は浮き立った。逸る気持ちを抑えて周囲を確認する。そのとき、隣の部屋のベランダが視界に入った。
からっぽのベランダ。部屋の主はベッドで眠っているだろう。わかっているけれど、不躾にも目をやってしまう。数日前、あれだけのことがあったから当然だ。
――俺、路久ちゃんのこと好きなんだ。
――君に恋してるってこと。
驚くべき告白。恐れ多いほどの感情。思い出すだけで頰が熱くなる。あのときの彼のぎこちない笑顔が頭から離れない。針で刺されたように胸が痛んだ。どきどきする。
切り替えて、落ち着かないと。
大きく深呼吸をして、心身を整える。色々な要因で浮き立つ心を鎮め、切り離す。昔から見慣れた数々の夜の風景を脳裏に再生させた。
さあ、行こう。
手すりを蹴って飛び出す。
次の瞬間、今まで感じたことのない違和感を覚えた。
――何だ。
悪寒。恐ろしいほどの寒気が全身を駆け巡る。
身体が重い。降下速度が違う。いつもなら降りるに従って速度が緩むはずなのに、どんどん加速していく。その上身体の制御が効かない。頭から指先までまったく、何一つ動かすことができない。物理的にというより、脳の指令が届かないのだ。極度の緊張。強張り。
何だ、これは。
――恐怖を感じている? まさか、おれが? どうして。
あっという間にアスファルトの地面が迫った。身体が叩きつけられ――
死 ぬ――
「がはっ」
唐突に路久は目が覚ました。激しい鼓動と息苦しさに喘ぐ。まるで深い潜水から上がったときのようだった。荒い息を吐きながらのろのろと上体を起こし、周囲を確認する。自分の部屋、ベッドの上。暗い室内に自分の鼓動の音だけが聞こえている。
今のは、夢?
寝汗で全身びっしょり濡れていた。力が入らず、再び布団の上に倒れこむ。
初めて味わう恐怖。本能的、圧倒的な恐怖だった。抗うことなど考えられない、反射的に身を竦めることしかできないほどの恐怖。思い返してぞっとする。
「なん……だ……?」
天井を見たままやっとそれだけもらすと、携帯電話のアラーム音が響く。心臓が跳ねるのがわかるほど驚いた。慌てて止める。午前二時四五分だった。
そうか。これから散歩だ。だから、散歩に行く夢を見たんだ。
納得したが、すぐに身体が動かない。夢の中で感じた恐怖は、まだ路久を縛り付けているのだ。
落ち着け。思い切り首を振り、それを払いのけるようにわざと勢いをつけて立ち上がる。ゴーグルを取って準備をし、いつも通りベランダへ出た。夢で見た手順と全く同じだ。唾を飲み込む。
気を緩めるとすぐに得体の知れない恐怖が足先からへばりつき這い上がって、路久の意識を侵食し始める。困惑する自分を嘲笑うようにぞくぞくと首筋を撫でていく。膝が震えた。
こわい。
胸を抑えると、鼓動は落ち着くどころか速さと強さを増していた。どういうことだろう。何が起こっているのだろう。
訳がわからず、ふらふらと窓際に腰を下ろした。
おれは今、飛ぶのが怖いのか。どうして。
両腕で自分を抱きしめながら自問する。あんな夢を見たのは初めてだ。散歩の夢を見ることはよくあることだったけれど、死の恐怖を感じたことなど一度もなかった。それは夢から覚めた後も同じだ。
これは何だ。一度飛んでしまえば解消されるものなのか。
そうも考えたけれど、飛び出した次には重力に引っ張られて地面に叩きつけられるイメージが鮮烈に頭に残っていて、立ち上がることができない。その情景に現実味がありすぎた。
路久はとりあえず部屋に戻った。自分の心が恐怖を受け入れるのを待ってから、まずは室内で軽く飛んでみることにした。天井にぶつかる衝撃に備え、座布団を二枚、頭に重ねて押さえる。
息を整え、飛んだ――足が着いた。数センチも飛んでいない。
「え」
もう一度。今度は力を込めて。しかし途端に重力に引っ張られる。今度は膝を曲げて思い切り踏み込んで……それでもあっという間に足が着く。ものを考える暇さえない。飛んだ瞬間にすでに落ちている。
まるで、普通に跳ぶ練習をしたときのように。
――まさか。嘘だ。
玄関を飛び出す。アパートの最上階まで階段を駆け上がり、屋上へ向かった。路久の住むアパートの屋上は閉鎖されているけれど、上がれないことはない。最上階の非常階段の上に、梯子のようにコの字型に埋まった鉄筋が続いているのだ。簡素すぎるそれを夢中で上がって屋上に降り立った。
辺りはまだ暗い。路久は周囲の建物に明かりが点いていないのを確認し、力一杯踏み込み、真上に飛んだ。けれど、同じだった。たかが数センチ、たった一瞬跳び上がっただけ。
「そんな、まさか」
違う。おかしいんだ。何かがおかしいんだ。
その後も路久は屋上で飛ぶことを繰り返した。助走をつけて。裸足で。腕を大きく振って。片足ずつを使って。考えられるありとあらゆるやり方を試したけれど、結果は同じだった。普通の跳び方だ。
日が昇る頃には身体も心も疲弊しきっていた。
どうして飛べないのだろう。
二ヶ月も空けてしまったことがいけなかったのか。深夜のこの時間帯がいけなかったのか。あんな夢を見てしまったからなのか。わからない。様々な考えが浮かんでは頭の中を圧迫した。額が熱い。脳の奥の方が重く痛み出していた。他の住人に見つからないうちに屋上から降り、自室へ向かう。
物心ついたときからずっとあった能力。無くなることなんて考えたことがなかった。それは以前に感じた通り、路久が路久であることの証明だった。
どうして。なんで。
まるで悪霊に取り憑かれたかのように身体が重い。倒れこむようにベッドに横になった後も、めまいのような混乱が続いた。その後ろから絶望的な宣告の足音が近づいてくる。
飛べなくなってしまった――?
日が高くなった頃、テーブルの上に置いていた携帯電話がメッセージの受信を知らせた。差出人は千尋だった。
『お疲れさま』
『いや、おはようかな』
『久しぶりの散歩は楽しかった?』
*****
転職して三ヶ月が過ぎ、新しい会社にも大分慣れてきた。顧客の引き継ぎも問題なく進んでおり、上司からは七月から営業目標も課すと言われている。法人相手のエリア営業という点では前職と変わりなく、千尋は久しぶりに気が引き締まる思いだった。それは、私生活の方でも同じで。
ついに、路久に思いを伝えたのだ。
正直なところ、彼が千尋に対して恋愛感情を持っていないことはわかっていた。というより恋愛自体わからないと言っていたから、思いを伝える気は当分なかったけれど。
――千尋さんは、不思議な人。優しい人……。たぶん、千尋さんみたいな人、世界に何人もいないんじゃないかなあ。
――だからおれは、千尋さんが世界でも本当に貴重な人だと思うんです。
路久はあのとき、千尋の心を(おそらく本人は全く意図しないところで)かき集めて残らず持って行ってしまったのだった。千尋はこれ以上ないほど驚かされ、そのために自分の気持ちを抑えることができなかった。結果、まったく格好がつかない形で告白してしまった。
『お前路久ちゃんのこと、ちゃんと家に帰したんだろうな』
飲み会の翌日、裕也から届いたメッセージ。体温が急上昇して、すぐに返信ができなかった。正直に言うべきか、ぼかしてしまうべきか。
『帰したよ。七時からバイトだって言ってたし』まずは事実だけ答える。
『朝六時に帰したとか言うなよ』
たぶん向こうは冗談で言っているのだ。軽い気持ちで千尋をからかおうと、それだけのこと。わかっていた。けれど、実際に路久を翌朝帰してしまった千尋としては汗が止まらない。
『朝五時』
嘘をついてごまかしたいと思うのは、自分の小さな見栄のためだとわかっていたので観念した。返信はすぐに来た。
『マジで? 付き合うことになったのか!』
『違う。二人とも寝落ち』
『起きたとき真っ
『違う! 脱いだりしてない! ただ二人とも寝ちゃっただけ!』
寝ちゃっただけ。
だけ、とも言い難い状態だったけれど、これ以上詳しく言う必要はないはずだ。必死に自分で自分を納得させる。一人きりの部屋で身悶えした。
『ほー、やるねえ』
『何にもなかったんだからね! 路久ちゃんに余計なこと言わないでよ』
思い出すだけで平静ではいられなくなるやりとりだった。
――こういうことを言うのは変かもしれないんですけど、千尋さんにそう言ってもらえて、おれ、本当にうれしいです。幸せです。
それが、格好がつかない千尋の告白に対して、路久が最終的に答えた言葉だった。恋愛に対して一切免疫がないからこそ、素直な反応が返ってきたのだろうと思う。友人もいないらしい彼は誰かの経験談を聞くこともない。常識的に見れば男同士――嫌悪の対象になるはずのことを拍子抜けするほどあっさり受け止めた。
ていうか、具体的に意識できてないだけかも知れないけど。
それはいい。しかし今落ち着かないのはまた別のことである。社内のトイレから戻る足取りは重い。席につくと、向かいに座る同僚が手を振ってきた。
「斎川さーん、部長から打ち合わせ四時って連絡がきたけど、行ける?」
「大丈夫です」返答が一瞬遅れた。
「資料は各自印刷で」
「はい」
先週の水曜日から散歩を再開すると路久からは聞いていた。だから当日昼休みにメッセージを入れてみたけれど、丸一週間経った今になっても反応はなかった。いつも返信には時間がかかる彼のこととはいえ、これほど空いたことはない。金曜日辺りは少し気がかりだった、という程度だったけれど、土日を挟んでも、丸一週間経っても返信がないのは、流石に黙っていられなくなってきた。
アルバイトや大学の勉強で忙しいのか、何かの不具合でメッセージがまだ届いていないのか。それとも――今になって千尋の告白に対して嫌悪感を覚えたのか。
いや。
それでも路久の性格上、人から送られたメッセージを無視するなんてあり得ない。あれほど誠実な彼だ、例え千尋のことを嫌いになったとしても、いや嫌いになったならかえってきちんと連絡をしてくるのではないだろうか。それをまだ迷っているのだろうか。
もしかしたら彼の身に何かあったのかもしれない。そこまで嫌われると言う想像をしたくないのかと自嘲しかけたけれど、考えてみればそちらの方が現実的な気がした。体調を崩したとか、散歩の途中で怪我をしたとか。考え始めると悪い予感がどんどんエスカレートして怖くなる。
いてもたってもいられない心地で、帰宅後千尋は意を決して電話をかけた。夜の九時。アルバイトも終わって路久も帰宅しているはずだった。五回目のコールでようやくつながった。
「もしもし、路久ちゃん?」
『……ちひろさん』
驚いた。声がひどくかすれている。そして確信した。彼が千尋を嫌悪したという考えは馬鹿で勝手な思い込みに過ぎなかったことを。路久の身に何かあったのだ。千尋はすぐさま玄関を出て隣の部屋のドアをノックした。
「路久ちゃん」
しばらく待つとドアが開いた。部屋の主が現れる。路久は明らかにやつれて青白い顔をしていた。なのに目は真っ赤で爛々と光っている。
「どうしたの。何があったの」
肩に触れて問う。路久は今にも泣き出しそうに顔を歪めて口を開いたけれど、何も言わなかった。そのままうつむく。
「具合悪いの? 怪我でもした?」
首を振る。
「まさか動画の件、何かあった?」千尋もこまめに例の動画の投稿者をチェックしていたが、別のところでもしかして。
「違います」
震える声で路久は言った。顔を上げ、千尋を見る。充血した茶色の目にみるみる涙があふれ、次々に頰を伝った。今まで必死に抑えていたのだろう。呼吸が浅くなり、肩で息をしている。声はさらに乾いた。
「あの……あの、」
「ゆっくりでいいから。どうしたの」
「……おれ、とべなく、なりました」
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