おやすみ

 ――飛べなくなりました。

 路久はそれだけ言うと乱暴に涙を拭った。

「飛べなくなった、って……」

それがどういうことなのか、一瞬千尋は混乱しかけた。

「だめ、なんです。何度、やっても、いろいろ試しても、ふつうの、人みたいにしか、飛べない」呼吸が浅いせいか、言葉の合間に度々息継ぎが挟まれる。普通の人、とは。

「飛べなくなったってこと?」

不意に理解して千尋は声を上げた。路久は小さくうなずき、目を伏せる。また涙が頬をすべり落ちた。

 衝撃に千尋は言葉を失った。何ということだ。目の前の彼にとって何よりも大切な力。ドーム球場で飛び回っていたときの彼のあふれんばかりの笑顔が脳裏によみがえる。あれは、路久の心身にとってなくてはならない力なのだ。それが失われたなんて……信じられない。

 けれど、何よりショックを受けたのは路久に違いなかった。千尋を見た途端泣き出したのがその証拠だ。ずきりと胸が痛んで、目の奥が熱くなる。

「もう、どうしたら、いいか」

語尾が震えている。千尋はそれ以上言わせず、腕を伸ばして路久を引き寄せた。背中をさする。喉に何かつかえる感じがしたが、ぐっと飲み込む。とにかく、自分まで取り乱してはいけない。唇を噛む。

 路久は嗚咽をこらえながらさらに泣き出した。以前とは違い、千尋の身体にしがみついてくる。

 メッセージの返信がなかったのは、おそらくその日からすでに飛べなくなっていたのだろう。それから今日まで、たった一人で試行錯誤を繰り返していたに違いない。誰かに相談するという選択肢は初めから彼にはないのだから。どれほどつらかったろう。苦しかったろう。思うほどに目頭は熱くなった。路久との付き合いはそれほど長くないけれど、他の誰より千尋は彼のことを知っている。きっと自分の手足が奪われたも同然の思いだろう。

 しばらくして、路久の呼吸が落ち着いてくる。続けて背中をさすりながら声をかける。

「喉が苦しいでしょ。ゆっくり、一緒に深呼吸しよう」

路久は黙って従った。彼を気づかう意味もあったが、それ以上に実は千尋自身も苦しかったのだ。息を吐き切った後、唾を飲み込む。

「何があったのか、最初から話してくれる?」

 路久は千尋を部屋へ通し、先週の水曜日から起きたことを少しずつ説明した。千尋が予想した通りだった。久しぶりの散歩で突然飛べなくなった路久は、その原因や解決方法を探すため連日深夜から日が昇るまで屋上で飛び続けた。時間帯を変えたり、飛び方を変えたり、飛ぶイメージを視覚的に紙に描き、眺めながら取り組んでみたり。とうとう今日は、例の動画サイトに上げられた路久自身の映像まで観てしまったという。

「けど、原因はわからなくて」

話し終えると、路久はうつむく。千尋も何とも言いようがなく、途方に暮れた。彼だけが持つ謎の能力。そもそもそれが備わった理屈もわからないのに、それが突然消え失せた理由などわかるはずもないのだ。細かな検証も既にやり尽くしているというなら尚更。

 とりあえず千尋は友人として、また彼に思いを寄せる人間として気にかかることを口にした。

「毎日夜中から明け方までって……ちゃんと寝てる?」

「えっと、その……あんまり眠れなくて」

 最初にベランダから飛び出してそのまま落ちる夢を見て以来、ほとんど眠れなくなってしまったらしい。夜中ずっと身体を使い続けてやっと、くたびれて数時間目を閉じることができる、という。

「ご飯は?」

路久は困ったように首を傾けた。居心地が悪そうに目をそらしている。

 とりあえず、と千尋はそれ以上訊かずに続けた。「原因はわからないし、難しい問題だけど、まずはちゃんと食べて寝ることを一番に考えた方がいいと思う。身体壊しちゃうし、そうなると能力にも影響が出てくるんじゃない? そんな身体でバイトも行ってたら、へとへとになっちゃうよ。路久ちゃんに何かあったら俺、本当に心配だからさ」

路久ははっと目を見張った後、申し訳なさそうな顔をしてごめんなさい、と言った。千尋が彼に対する好意を伝えた影響もあったかもしれない。

「今日は何か食べたの? 食欲、ある?」

「いえ、えっと……」

それきり言葉が出なくなった路久の頭を、千尋はそっと撫でた。

「何か食べられそうなもの、買いに行こっか」

 本当は彼の好みに合わせた手料理でも食べさせたかったけれど、平日は料理もしなければ食材も準備していない。スーパーはとっくに閉まっていたので、コンビニで済ませた。うどんなら、と路久が言ったので、冷凍のうどんを二つ買った。

 路久の家に戻り、向かい合わせに黙々と麺をすする。目の前の路久の様子に注意しながら、千尋は頭の中で彼が食べられそうないくつかの献立を考えていた。さすがにお昼のお弁当を作ることは難しいけれど、夕食なら。幸い、彼は千尋を拒否することもないし、頼ってくれているようであるし。

 自分にできることなら何でもする。でなければ不安だった。

 路久は一玉食べきった。少し、顔色も戻りつつある。千尋が食器を重ねて流しに持っていくと、慌てた路久の声が追いかけてきた。

「あ、片付けはおれが」

「いいの。やらせて」

とはいえ人一倍気を使う彼が黙って見ている訳がなかった。千尋が皿を洗う隣で食器を水切りかごに片付ける。

「今まで意識しなくても飛べてた。それができなくなった……か」

「はい」

「どういう感じだろう。今まで通りやってもできないのか、やり方自体がわからなくなったのか」

路久は天井に目をやり考え込んだ。

「どう……なんでしょう。千尋さんは跳ぶときにそういうことを考えますか」

「とぶ?」

「えっと、ジャンプするときです」

「いや、考えたことないねえ」

「おれ、普通の人みたいに跳ぶときは結構神経使って、使う筋肉とその力の配分を考えてやるんですけど、飛ぶときは何にも考えてないんです。力加減は確かにありますけど、加減自体自然にやってるっていうか……」

「そっか、やり方なんて考えたことなかったのか」

片付けにはそう時間もかからなかった。二人はテーブルに戻って、さらに考え続けた。

「俺さ、路久ちゃんに散歩連れてってもらったじゃん」

うなずく。

「その時、こう落ちたり飛び上がったりする感じがジェットコースターみたいって思ったんだよね」

そうなんですか」

「乗ったことある? ジェットコースター」

「いえ、ないです」

「まあ、あっちは上下だけじゃなくて左右にも振られるから全く同じとは言えないんだけど、落ちて昇る部分は本当そっくりだった」

「なるほど………」

「一回乗ってみる? 飛ぶのと近い感覚を味わったらちょっと変わるかも」

「っはい!」

「俺も付き合うから、一緒に行こう」

千尋がそう言うと、路久は一度困ったように口を開いて何か言いかけたが、少しだけ微笑んで頭を下げた。

「ありがとうございます。助かります。よろしくお願いします」

遠慮がちな彼が、素直に自分に頼ってくれる。それだけで千尋はうれしくなる。この信頼を、絶対に手放したくない。違えなくない。

 眠れないという問題には、自分のかつての対処法を提示した。動画共有サイトに上がっているリラクゼーション音楽を流すのだ。波の音、川のせせらぎ、雨の音、そよ風に木々が揺れる音と鳥の声など。

「どれもすごくリラックスできるんだ。ほっとする。五、六時間あるやつなら流しっぱなしでいいし。URL送るから、好みのやつを流してみて」

「あっ、ありがとうございます」

「よし、じゃあ歯磨きしてベッド入って。もう能力の検証はやめとこう」

そう言ってスーツのジャケットを掴み鞄を引き寄せると、路久がはっと顔を上げた。その表情には迷子が保護者を求めるような不安が表れていて、千尋の心を引き止める。こんな事態でなければ、いくらでも甘やかしてやりたい――柔らかい布団で彼を優しく包んで抱きしめ、不安を感じる暇もないくらい口づけて。

 その衝動を飲み込むには数十秒の時間が必要だった。小さな痛みと共にそれを成し遂げた後、千尋は手を伸ばして彼の頭を優しく撫でた。

「大丈夫。俺は何があっても路久ちゃんの味方だよ」

路久は口を開いたけれど言葉は出ず、無言でうなずく。

 後ろ髪を引かれる思いで玄関へ向かう。覚束ない足音が続いた。

「じゃあ、何かあったら連絡してね。夜中でもいいから」

「ちひろさん、」不意に路久が呼びかけてきた。不安そうな表情が引き締まり、瞳に思い詰めたような光が現れていた。

「なに」

「……いえ、なんでもないです」

目を伏せる。明らかに無理をして押し込めているのがはっきりわかった。

「どうしたの? 思ったこととか言いたいことがあったら遠慮しないでいいんだよ」

しかし、路久は首を振った。

「いや、大丈夫です」

「本当に?」

「……はい」

これ以上は答えてもらえそうもないと思ったので、おやすみ、と言って、部屋を出た。路久もおやすみなさい、と応じた。

 少し強い風がジャケットの裾をはためかせる。千尋が自分の部屋の鍵を取り出したとき、不意に後ろからドアの開く音がして、ペタペタという足音が追いかけてきた。

「千尋さん」

路久だ。「え、どうしたの」

「あの、すみませんやっぱり、」

瞳の光はさっきよりも強くなっていた。なのに手は震えている。

「うん」

「あの、えっと、すごくわがままなことだとはわかってるんですけど、どうしてもお願いしたいことがあって」

「何? 言って。大丈夫だから。怒ったりしないから」

普段から控えめで大人しい彼のわがままなら、いくらでも聞いてやりたいと思う。

 路久は息を整えた後、小さな小さな声で言った。

「……一緒に寝てくれませんか」

「えっ」

思わず加減なしの声が出た。路久はうつむいて身を縮めている。通路の白い照明に照らされた耳は赤くなっていて、どきりとした。

「へ、変なこと言ってすみません。あの、けど今、おれ、情けない話なんですけど……目を閉じるとまたあの夢をみるかもしれない、って気がして。それに何か、あり得ないとは思うんですけど、眠ってて意識がないうちに、その、夢と同じことをするんじゃないかって」つっかえつっかえ、説明する。「バカなことだと思います。そんなことあり得ないってわかっているんですけど……」

あり得ないとわかっているけれど、怖くて目を閉じることができない、ということか。その夢は、千尋が考えるよりもかなり深刻に路久の心を蝕んでいるらしい。

「そ……れは、俺も協力してあげたい、けど」

内容が内容なだけに、千尋の返答もつっかえ気味になる。不覚にも顔が熱くなった。思いつめた彼の懇願の瞳を勘違いしてしまいそうだ。

 しばらく迷った末、正直に答えることにした。手招きをして耳打ちする。

「その、おれは路久ちゃんを好きだって言ったよね。それってそういう意味で好きな訳で、同じベッドで寝るとなると……わかるかな、なんて言うか、万が一色々我慢がきかなくなってしまわないか自信がないっていうか。そんなんじゃ路久ちゃんも安心して眠れないでしょう?」

路久は赤かった顔をさらに赤くして千尋を見た。そしてすぐに目をそらせる。恋愛経験がない彼が迂遠な表現を理解できるか少々不安だったのだけれど、言いたいことは伝わったようだった。

 路久はそのままあたふたと数分落ち着かないしぐさをしていたが、やがて千尋に向き直る。引き下がってくれるかと思ったが。

「えっと、それならそれでいいです」

「は?」

「が、我慢ができなくなったら、それはそれで、その、何て言えばいいか、つまり、千尋さんの好きなようにしてもらって。わがまま言ってるのはおれの方だから」

「何言ってんの!?」

彼には驚かされることが多かったけれど、これはある意味最大のものだったかもしれない。自分が言ったことの意味をわかっているのだろうか。いや、わかってないでしょこの子! ……それとも、わかった上で覚悟していると言っているのか。

 耳まで真っ赤になってそう言い放った路久。そわそわと落ち着かない様子からして、意味をまったく勘違いしているわけではなさそうだけれど。

 でも絶対わかってないでしょ。いや、違う。わかってるってのもおかしな話で。

 考え出すと思考がどんどん方向へ転がり始めてしまう。結局千尋は根負けした。

 裸足で飛び出して来た彼にここまで言われたら折れざるを得ない。こうなったら絶対に手を出さずに朝を迎えるのだ。


 路久の恐るべき「お願い」を承知した千尋は、自分の部屋で寝ることを提案した。決して下心からではなく、彼の見た夢に配慮したからだ。夢が現実になることへの恐怖は、路久自身のベッドで寝ることも一因かもしれないと考えられる。場所を変えれば夢とのオーバーラップも避けられる。

 しかし、風呂に入って寝間着に着替えた路久が現れると、途端に千尋は後悔した。まったくこれは。以前の飲み会の時よりもひどい。直視できない。軽いめまいを覚えた。

「どうぞ」傍のベッドを示して促してやる。身体の内側で響く大きな鼓動を悟られないよう努める。

「あ、ありがとうございます」

路久がそろそろと歩いてベッドへ向かい、おそるおそる横になる。掛け布団を整えてやると、彼はそれを引き上げて顔半分を隠した。

「あの」

「うん?」

「困らせてしまって本当にすみません」

どこまでどのように千尋を困らせているか、果たして彼はわかっているのやら。下心を見透かした上で煽っているのではないだろうかと思いたくなる。いや、これは都合の良い夢なのか。少々ヤケになって答える。

「大丈夫。困ってないって言ったら嘘になるけど、うれしすぎて困ってるだけだから」

 明かりを消して千尋もベッドに入る。路久の部屋のベッドよりは大きいけれど、距離をおいて横になれるほど広くはない。風呂上がりの身体はしっとりとしていて触れたみたくなるし、ボディーソープの香りがほのかに残っていてまったく悩ましい。軽く息をつく。あまり眠れないだろうけれど、仕方ない。酒も入っていないし、一晩くらいは大丈夫だ。本当に我慢できなかったら、容赦なく断るか、構わないというなら脱がせている。

 夜目にも路久がこちらを見ているのがわかって、千尋は苦笑した。

「安心して。何もしない」

「あの、俺本当に」

「路久ちゃん、それ以上は言っちゃだめ」

本当に困った子だ。黙らせるために額に唇を寄せた。驚きにぴくりと彼の身体が反応する。頬を撫でてなだめた。これくらいのごほうびはあってもいいだろう。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 路久はやがて目を閉じた。掛け布団越しに胸をとん、とん、と軽く叩いてやる。しばらくすると彼が目を開けた。千尋と目が合う。安心させるように笑いかけると、ようやく肩の力を抜いた。胸の上に置かれた千尋の手を包むように自分の両手を重ねる。先に布団に入った路久の手は温かかった。それからまた目を閉じ、数十分後に目を開けることを何度か繰り返した。千尋がいることをその都度確認しているようだった。そのうちまぶたが重くなり、少しずつ眠りに沈んでいく。それを確認してから、千尋も目を閉じた。



*****



 その夜は、夢を見なかった。

 暗い不吉なものに意識が引きずり込まれそうになるたび目を開け、隣に寄り添う人を探した。けれど探すまでもない。その人は既に傍にいた。それだけで増殖する恐怖が消えていった。それを繰り返すうち意識が途切れ、次に目を開けたときには朝になっていた。

 まだ少し鈍い、覚醒していない明るさの部屋。まどろみの波がすうっと引いていく。路久が目を開け首を巡らせると、傍に眠る人も目覚めた。

「おはよう」

その表情と声が路久の心に沁みわたっていく。光の雫を受け取るようにじわじわと胸のうちが明るくなる。

 ああ、この人はまたおれを助けてくれた。救ってくれたのだ。以前、彼のことを天使に例えたことを思い出す。本当に、彼は天から遣わされた何かに違いなかった。これまで出会った誰とも違う人。彼がいなかったら、これまでの数ヶ月間はどんなものになっていたのだろう。想像もつかない。

「おはようございます」

計り知れないほどたくさんの思い。すべてを込めてそれだけを言葉にする。千尋は目を細めて笑った。輝いているようにすら見える笑顔だった。

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