土曜日
翌日、起きた後はそれぞれの部屋に戻っていつも通りの一日を始めた。千尋は仕事、路久は大学だ。
路久が眠れたことで千尋は安心したらしく、よかったねと何度も繰り返した。その言葉に路久は笑顔で応じながら、けれど内心では密かに身構えていた。もし、これでもう今日から大丈夫、眠れるね、と言われたら、うなずける自信がなかったからである。あの夢は強力に路久の心を支配しているようなのだ。自分自身でも情けないと思うけれど。
幸い、そうはならなかった。アルバイトから帰宅すると彼から電話がかかってきて、「今日からうちのベッドで寝ない?」と言われたのである。
「えっ? い、いいんですか」
昨日彼を大変困らせたようだと察した路久は裏返った声で訊き返した。
「あ、えっとね、昨日みたいに俺も一緒にってことじゃなくて。いや、そりゃ俺も本音を言えば毎日一緒に寝たいんだけどさ」千尋はごにょごにょと二言目の辺りを歯切れ悪く吐き出し、続けた。「さすがに連日は俺も精神がもたないし。路久ちゃんがよければ、俺のベッドで路久ちゃんが寝て、俺はそっちで寝せさせてもらうのはどうかなって」
「……なるほど」
わいわいと大はしゃぎをしていた心を慌てて奥に押し込む。路久の方は夢とは違う場所で寝ることができるし、千尋は我慢する必要がなくなるというわけだ。
正直なところ隣に彼がいないのは不安が残る。けれど昨日満たされた心はまだしっかり路久を温めていたし、これ以上わがままを重ねるのは自分自身で許せなかった。相手の好意に甘えている自覚はあったから。
二人はお互いの部屋のスペアキーを交換し、そのまま相手の部屋に移動した。
「なーんか、鍵渡すってアレだよね。ま、隣なんだけどさ」
「あれ?」
「いや、何でもない」
昨夜と同じ、千尋のベッドに入る。柔らかい布団と彼の匂いに包まれて心から息をつく。
昨夜は突然泣きついてしまったにもかかわらず、突拍子もないお願いを千尋は承知してくれた。本当に路久は心から救われた思いだった。
――俺は路久ちゃんの味方だよ。
そう言って千尋は路久の頭を撫でてくれた。その感触は一瞬で他に何も考えられなくなるくらい心地良くて、温かくて。恐怖に強張った心が少しずつほどけていくのがわかった。これをしっかりと記憶しておけば、眠れないにしろ、多少落ち着いてベッドに横になれるかもしれないと思っていたのだ。
けれど――彼が出て行き、ドアが閉まった瞬間、部屋の空気が変わってしまった。悪夢を見た日に簡単に戻ってしまう。その変貌は唐突でしかも一瞬だった。そして千尋に会った以上、もう耐えられなかったのだ。一人ではなくなったから。
千尋を困らせている。それがわかったけれど、自分の要求を優先した。申し訳なかった。だからその代わり何を見返りに差し出しても構わないと本気で思った。
温かく安らかな、千尋の隣。頭を撫でてもらった感触。額に触れた彼の唇の感触。
ああいうのが、おやすみのキスっていうのかな。
まるで恋人のよう。
そのときはただ驚きと恥ずかしさばかりが大きかったけれど、思い返すとそれはとても甘美なものに感じられた。心地良くて酔ってしまいそうなほど。
大きな声では言えないけれど、路久の心の中にはそれを今も求める気持ちがあるのだった。今の今まで顔を合わせていて、こうしてベッドで寝ながらも部屋の主が傍にいないなんて。千尋が彼にできる最大の方法で路久の力になろうとしてくれているのはわかっていたけれど、少し淋しい。普段なら淋しさなど、感じた次には飲み込み耐えることが習慣になっているのに。
我慢ができなくなるから。
そう千尋は言っていた。その意味は路久にも何となくわかった。身体の触れ合い、結びつきというものだろう。平たく言えば、セックスのこと。
千尋さんは、おれとそういうことがしたいって思うのかな。
そう思い至ると、胸の奥がむずむずして、身体が熱を持ち始める。抱き合って眠ったことはある。それを裸で――。
想像するのは難しくなかった。何しろ二人がこのベッドで並んで寝ていたのはつい昨日のことだったし、それ以前にはそこのカーペットで抱き合って寝ていたのだ。そこから二人の衣服を取り払えばいいだけだった。
千尋さんが望むなら……。
熱い肌に直に触れる瞬間を想像するとぞくりとした。理性が慌てて飛び上がる。
なんてこと!
ベッドを借りておきながら、こんな恥ずかしいことをよくも想像できるものだ。不謹慎だと頭の隅に追いやる。けれどそれは次にはより鮮明になってまた現れる。肩は、腕は、腹が触れたら、その下は。あんなに脚を絡めてしまったらもう。それに、あの、柔らかい唇は。
状況も忘れて路久の頭の中には不謹慎な想像が絶えず生まれては消えていった。
玄関ドアが開く音に目を覚ました。頭が重い。当然だ。結局考え出したら止まらなくなり、能力とは別の理由で長いこと眠れなかったのだ。飛ぶ夢の恐怖を忘れていたという意味ではよかったけれど、結果眠れなければベッドを借りた意味がない。
「おはよう路久ちゃん、眠れた?」
千尋が顔をのぞき込んでくる。昨夜の今日でこれはいけない。みるみるうちに頭の奥にしまっていたものがよみがえって鮮やかに再生される。顔が熱くなった。
「あ、あの、はい」
「顔赤いよ? 大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
慌てて起き上がり、首を傾げる千尋の視界から逃れるように玄関へ向かう。ちょっと路久ちゃん、とすれ違いざまに腕を取られて飛び上がった。彼は路久の目を探るようにじっと見つめてくる。ますます心拍数は上がり、顔が火照った。
「本当に? 俺に嘘ついてもだめなんだからね」
「はい、あの、本当に大丈夫です」
今、路久の頭の中にある映像がそのまま宙に映し出されたとしたら、千尋はきっと驚くことだろう。普段の路久ならこんな想像は滅多にしない。したとしても、簡単に頭から切り離してしまえるものなのに。
路久のアルバイトの都合があり、遊園地に行く日は翌々週の土曜日と決まった。それまでは毎夜千尋の部屋で眠る。さらに彼は仕事が早く終わった日に手料理を振舞ってくれたりもした。忙しいのに申し訳ないと思うけれど、千尋の料理は大好物なのでうれしい。せめて後片付けは、と言い募って任せてもらった。
皮肉なことに、飛べなくなっても日常生活には何の問題もなかった。季節は梅雨に入り、雨が続く。毎年この時期は散歩ができない日が多いので、あまり気分はよくなかったけれど、今年は最悪だ。
飛ぼうとしても、普通の人間と同じようにしか跳べない。それはとても虚しく、同時に不思議で理解しがたいことだったので、大学のキャンパス内で意味もなく跳んでみたりした。不思議だ。
屋上で飛ぶ練習は続けた。ただし一時間だけだ。意味がないことかもしれないけれど、やらずにはいられなかった。今日は飛べるかもしれない。今日こそ取り戻せるかもしれない。祈るような気持ちだった。
身体の半分がちぎり取られたような痛みと、その空洞を埋めるように広がる千尋と過ごす時間。致命的な怪我を負い、点滴を受けながら生活しているような心地だった。かろうじて生きているのは点滴のおかげだったけれど、それだけでは怪我は治らない。自分の力で治さなければ。
そう思った後、これは怪我と言えるものなのだろうかと自問する。怪我が治癒するように、いつか回復するものなのか。
幸運にも与えられた力が、その効力を失っただけではないのか。だとしたら、おれは驕っていたのだろうか。
一人でいるとき、そんな思いが渦巻いて路久の心をかき乱すのだった。
二週間が過ぎ、七月に入って、遊園地へ行く当日となった。あいにく雨が降っていて、窓の外はどんよりと曇っている。千尋の家で目覚めた路久はそんな景色を眺めながら、雨が降ってもジェットコースターには乗れるのだろうかとぼんやり考えた。たぶん、あの種の乗り物に屋根はなかったはずだから、頭からびしょ濡れになってしまうのではないか。
後で千尋に聞いてみよう。起き上がりそのまま自分の部屋へ戻った。土日は千尋の方が寝坊しているのだ。路久はアルバイトがあるので起こさずにそのまま出勤することもあった。
「千尋さん、おはようございます」
布団越しに肩を叩き呼びかけると、彼は目を開けた。まだ焦点の合わない目でじっとこちらを見つめてくる。すると路久の方は、何か自分の心が試されているように感じるのだった。これだけ無防備な彼の姿を目の前にすると、なぜか最近、触れたくてたまらなくなるから。
「あのね、ろくちゃん」
挨拶もなく寝言のような声で話し始めた千尋だが、次第にはっきりした口調に変わっていく。「きのう、思いついたんだ。ジェットコースターなんかよりもっと近いもの」
「近いもの、ですか」
「そう」
うーんと唸りながら、もどかしそうに千尋は布団をぱたぱた叩く。思い出せないらしい。
「思いついたのが夜中だったから、連絡できなくて。起きたらすぐ言おうと思ってたのに……。あの、アレなんだ。アレ」
「あれ?」
「前、路久ちゃんが撮られちゃったときに、裕也が作った……」
「トランポリン」
「そう、トランポリン!」起き上がって千尋が声を上げた。
「あの動画、すごく路久ちゃんにそっくりだったじゃん? 自分の身体使って飛んでるし。だから、急で悪いけど、今日は遊園地じゃなくてそのジムに行ってみないかって」
「行きます」
はっきりとした声で路久は答えた。確信めいたものが頭の中を駆け巡る。そうだ。どうしてすぐに思いつかなかったのだろう。気が動転して冷静に考えることができていなかったのか。すぐにわかることではないか。
そしてやっぱり、千尋は路久の天使だ。嘘みたいに路久を導いてくれる。
ジムは駅から少し離れたところにあり、二人はレンタカーで向かった。二年前にオープンしたという新しいもので、トレーニング施設やヨガ教室、ボルダリングもできるという。受付でビジター料金を払い、簡単に着替えを済ませて早速トランポリンルームへ向かう。
子供連れや大学生らしいグループ、壮年の夫婦など既に多くの人で賑わっていた。広い室内にゆとりをもって二つずつの大きなトランポリンが設置され、周囲にはマットが敷き詰められている。子供も大人もはしゃいで飛び跳ねており、熱気と活気に満ち溢れていた。うわあ、と千尋が感嘆の声をもらした。
数分ごとに交代で飛ぶようにスタッフに誘導され、二人で列に並ぶ。初めての利用かを訊かれ、いくつかの注意事項が伝えられた。技や空中動作は別料金のレッスンでのみ教えているらしい。
「知らなかった、結構人気なんだね」
「意外ですね」
器用な子供はお腹やお尻を使って飛んでいる。もしかすると路久よりよほど自在に身体を操れているかもしれない。
そんな子供たちを見ていると、ドームで思い切り飛び回ったときの記憶がよみがえり、路久は既にうずうずしていた。そんな気持ちになるのは久しぶりだった。ここと空気が似ているのだ。
早く飛びたい。今ならあの天井に簡単に手が届きそうな気がする。
「はい、どうぞ」
スタッフに促されて台に上がる。そっと繊維部分に足を乗せ、印がついた中央へ進む。大きく深呼吸をすると、少しずつ気分が高揚してくる。
踏み込んで、まずは軽く飛んだ。
飛べた。空気が身体中をさらさらと撫でていく感触。けれど低い。話にならない。もう一度。すうっと真上に飛び上がり、落ちる。今度はもっと力を込めて。その次は全力で――飛び上がって、落ちる。次第に空気を自分の身体で切り開いていくような感覚が強まっていく。
確かに、似ている。
飛び方と落ち方が一定であることと、高さが足りないことが物足りないけれど、それを除けばかなり近い運動だった。いつもやっていた散歩を競技スポーツレベルとするなら、こちらは小学生のクラブ活動レベルと言ったところか。
気持ちがいい。久しぶりに味わう爽快感。いくらでも飛べそうな気がする。
あっという間に持ち時間が終わった。すぐ列に並び直す。千尋は飛ばずについてきた。
「どうだった?」
「楽しいです。すごく似てる」
「マジで! やった!」
千尋は弾けるような笑顔を見せた。まるで自分のことのように喜ぶ彼が路久には眩しい。うれしい気持ちが倍増した。
「面白いですよ。次は千尋さんもやってみてください」
「うん」
そうして何度も路久は飛び続けた。前後左右にも飛び、少し不安があった一回転も問題なくできた。繰り返して身体に刻み込む。思い出せ。思い出せ。飛ぶ感覚をもう一度取り戻せ。
夢中で飛び続けて一時間、さすがにへとへとになり、路久は列から離脱した。千尋はとっくに疲れ果てて観客となっていたことにそのとき気づいた。二人は苦笑して、休憩ののち帰ることにした。
「見た目よりずっとハードなんだねえ」
帰りの車の中で、千尋はため息交じりに言った。助手席で路久はうなずく。
「そうなんですよね。その辺りも似てはいます」
「どうだろ。いいヒントになりそうかな」
「そう……ですね、」
笑顔でそう言う千尋に、路久は考えを巡らせながら曖昧に首を傾げて答えた。
トランポリンから降りて時間が経つほどに高揚感は静まり、自分の身体が感じたものを冷静に分析できるようになっていた。
確かに似ている。感覚的にかなり近い。けれど飛び続けるうちに感じたことがあった。路久が飛んでいるのではないのだ。自分の身体を使っているけれど、トランポリンのスプリングの力を借りて跳ね上がっているだけ。そういうスポーツなのだから当然だ。
そう、結局トランポリンに飛ばせてもらっているのだ。気晴らしに飛ぶ分にはそれでいいけれど、実際は根本的なところが違う。
飛んでいる最中は集中してその感覚を吸収しようと思った。けれど、違うのかもしれない。もしかすると、トランポリンで飛ぶことに慣れてしまったら……飛ぶ力を二度と取り戻せなくなるかもしれない、とすら感じた。
「難しいところです」
長い沈黙の後、それだけを言った。
「そっか」
千尋には申し訳なかったけれど、短い返答しかできない。この微妙な感覚を誤解なく彼に伝えられる自信がなかった。路久の様子から何か察したのか、千尋もそれ以上は何も言わず車を走らせた。
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