第24話 進化に良し悪しはなし
レーモンの弱い呟きは、諦めを含んでいる。
言葉では、妖精は従わせられない。安全と安寧の思想から生まれたレーモンは、争いごとを好まない――全ての妖精に対話を挑んで、娯楽よりも安寧を取ってもらうように交渉していたのだ……。ほとんど相手にされなかったが。
言葉では、無理だ。
安全よりも刺激――危険を選ぶのが今の妖精だから。
だから、最初から言葉は届かないと決めつけていた。
かと言って、力づくではレーモンの存在の否定だ。本末転倒である。
安全と安寧の思想で生まれた大妖精が、争いを生んで危険に晒すなど、真逆をいく失敗作だ。
レーモンは相手を傷つけられない。
人に任せることでしか、できないのだ。
そんな彼女は言葉しか交渉術を持っていない。なのにその重要な声が小さくなるというのは、唯一の武器であり、強みを放棄していることでもある。
彼女の減速能力は、思考回路まで及ぶのに――。
反射的に言い返してしまう言葉を吐き出すまで、時間を遅らせることができる……。
それは、聞いた言葉をじっくり考えることができる時間を稼げている、とも言えるのでは?
「――やめてっっ! 妖精はっ、争うことを望んでいないんだからっっ!!」
レーモンが生まれたのがその証明。
エミールが生まれたことは、別に争いを望んでいるわけじゃないのだ。
ただ進化したい。かつて人が知能を持ったように……ただそれだけの願望だ。
妖精は、人間を支配したいとは、一度も思っていないのだから。
「悪意に飲まれて自分を汚さないでッ! その力は人を傷つけるもの!? ――違うでしょう!? 大切な誰かを守るための力なんじゃないのですか!? そうでしょう!?」
僅か、だった。
サソリが振り上げたハサミが、止まった気がした。
「だったらさっさとその手を緩めて、正気に戻りなさい――ッ!
こんなことをあらためて言わせないでください、バカものぉッッ!!」
そして、サソリのハサミが向きを変えて、黒衣の鏑木に向いた。
『……メリィ』
サソリの姿が消えていき……、
好意に影響を受けた妖精が、親友の名を呼んだ。
「鏑木もメリィも、絶対に取り戻すから、待ってなさい」
大地を踏みしめ、小さな少女が拳を握る。
―—妖精・レイディが、まずは悪化から立ち直った。
……そして、レイディだけじゃない。
大妖精・レーモンの言葉は、悪化した妖精たちの心に、きちんと届いていた。
本来ならば、届いたとしても妖精たちの心に染みるまでに時間差がある。
そこへ至るまでに悪化が浸食して、声は結果的に届かなかったのだが……。
レーモンは見える世界の全てを減速させていた。彼女の言葉を聞き、自身の中で噛み砕いて理解するまでの時間は、悪化した妖精たちの中にあったのだ。
誰もが好き好んで悪化したわけじゃない。
他人の悪意に流され、自身の意見を出す前に体が勝手に動いてしまっていただけ。
レーモンの説得が通じなかったのは、人間世界にいるだけで妖精たちは少なからずの影響を受けていたからである。
悪化していなくとも、場に流されていた。楽しい空間が隣にあるのに、一方的な意見の押し付けで身を引けと言われて……、頷く妖精が少ないのは頷ける。
レーモンは説得が下手だったわけじゃない。
まあ、上手であるわけでもないが、しかし理不尽なことは言っていなかった。
人間は悪意を常に放出している。妖精はその悪影響を受けやすい……、悪化すれば妖精のみならず、人間にも迷惑をかけてしまう……。
結果的に死者を出してしまうことにも繋がるのだ……。
だから対策が取れるまでは、人間が少ない森の奥深くにいてほしいと……これだけだ。
頑なに嫌だと言い張るのもそれはそれでおかしい……、拒む側に問題がある。
誰のために言っていると思っている?
レーモンは最初から最後まで、妖精を守りたかっただけなのだから――。
だからレーモンは、説得の場を間違えただけなのだ。
人間の世界で説得をすれば、すぐ隣に誘惑があれば、言葉など振り払われる。
いくら前例を出しても、他人が言っているだけだと無視する者は少なくない。
だから、理性がある時……メリット、デメリットを提示された上で、レーモンの説得を聞けば、きっとみんなは選んでくれるはずだ。
誰だって死にたくない。
誰だって、理由なく人を傷つけたくはない。
長い時間を生きる妖精にとって、
数十年、森の奥へ引っ込むくらい、できないことじゃないのだから。
きっとみんなが選ぶ――。
今はまだ、人間世界にいるべきではない、と。
『……こんなことをしている場合じゃない』
尾を引いていた妖精たちが、一斉に色を取り戻した。
悪化したことで黒く染まり、変化していた化物の体が、黒煙となり散っていき……、
――白い光を取り戻して、小さな姿で薄羽を震わせ、地面に足をつける。
彼女たちの視線は、鮮やかな羽を持つ一人の青年へ向けられている。
――鏑木竜正。
彼に自覚がなくとも、彼の善意に助けられていた妖精は多かった。
近くを通り、彼の善意を浴びることで救済される者もいた。
肩に腰かけるだけで悪化を防ぐことも日常茶飯事だった。
直接、彼と会話をしなくとも、鏑木竜正という青年は、妖精たちの中では有名人だったのだ。
善意を生み出すためだけの機械のような存在だと思っている妖精は、誰一人としていない。
彼がまだ小さかった頃から、その成長を見届けている妖精だっているのだ――。
そんな彼が妖精と同化し、この世界から消えかかっている……。
であれば、そう思っているのは、レイディだけじゃない。
引き戻す。
他人の意見に流されない、自分自身の感情で、立ち上がるっっ!!
『――(鏑木)竜正(ちゃん)(くん)を、返して(なさい)ッッ!!』
黒く浸食していた世界が、やがて白く染まっていく。
善意が悪意を食い始めた。
世界が変わろうとしている……いや、人の、妖精の心が変わり始めた。
勢力の逆転。
それは、エミールとレーモンの戦力差だと言えた。
「……妖精が望んだ進化とは、こっちなのではないですか? エミール」
「こっち、ってのは?」
「悪影響を受けない心の強さを持つ……、純粋無垢ではなくなることです」
「ふうん……、なくはないけど――だけどそれってさ、性格が悪い妖精が、自分のことを『悪化したから』と、理由に使えなくなったことを意味しているよな……。
純粋無垢でなくなれば人間と一緒だ。悪意に染まらないけど、自分で悪意を作り出してしまう心への進化は……進化と呼べるのか?」
たとえば森の奥深くでも、悪化することが起こり得る。
人間と関わっていなくとも、化物へ成ることだって――。
「別にそういう進化でもいいんだけどね。勘違いしていると思うよ、レーモン。
アタシは別に、正しい進化を求めているわけじゃない。進化していればそれでいいんだ……。
どんな結果であれ、現状の個体からさらに先の姿を見られたらそれで良かった。だからさ、レーモン……、アンタと『正しい』『間違っている』の討論をしたいわけじゃないってことさ」
「エミール……ッ、なにを!?」
エミールが鏑木竜正の腕を掴んで、自身の頬へ、彼の手の平を近づけた。
「さっき見たんだよ……、この手の平にある口が、吸い込んでいるところをね……。
悪意も善意も物質も全て、なにもかも。……この先にはなにがある?
吸い込んだものはぐちゃぐちゃになるのか、それともそっち側に別の世界でも広がっているのか――。進化を求めて生まれたアタシには、確認する理由がある」
ぴた、とエミールの頬がくっつき、手の平の口が歯を立てた。
「レーモン、アンタの言葉じゃあ、探求心は止められないよ」
そして、回転し、ねじった複数の糸のように細くなったエミールが、鏑木竜正の手の平に吸い込まれていった……。
それから、訪れる静寂。減速する世界が元の速度を取り戻した。
だが、エミールがいなくなったからと言って、解決ではない。
根本的な解決はしていない……。
鏑木竜正はそのままだ。
エミールを失った今、救う目途が、まったく立たなくなった!
黒い瞳の中の赤い点が動いた。
羽化した鏑木竜正が腕を伸ばし、手の平を開いた。
「まさか……ッ、みんな、伏せてッッ!!」
レーモンの叫び声に反応できた者は何人いただろう。
奈多切と華原は互いに掴み合って、その場で伏せて堪える……だが、
小さい妖精たちは、まるでブラックホールのように吸い込んでくる力に、抗えずに――。
数多の妖精たちが、鏑木竜正に吸い込まれた――もしくは、捕食された。
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