3章 フェーズ・バック/二文字の鉄槌

第20話 進化の扉

「「――せんぱい(先輩)っ!?」」


 鏑木竜正の体が芋虫の体内へ。元々、太い巨体だ、人間一人を飲み込んだくらいでは、蛇のように体が膨らむということはない。


 だから飲み込まれた鏑木がどこにいるのか、彼の形を保てているのか、外側からではまったく分からなかった。


 先に動いたのは奈多切恋白だ。


 通用するはずがないと分かっていても、元に戻った小柄な体のその小さな拳を握り締めて、ぶよぶよの芋虫の体を叩く。


 が、蚊でも止まったのかと一切気にしていない芋虫は、身を震わせるだけだった。


 ごろん、と転がった芋虫の体が奈多切のつま先を踏む。


「……っ」と声を漏らした奈多切は、咄嗟に靴を脱いで後退する。

 足が絡まり、尻もちをついた……。もしも判断がもう少し遅ければ、芋虫の全体重が乗っかっていた……、トドやセイウチが乗っかってくるのとは訳が違う。


 しかも小柄な奈多切では、這い出ることもできなくなっていただろう……。

 それ以前に乗られた段階で、体の骨が片っ端から折れているはずだ。


「エミールッ、先輩をッッ!!」

「様子を見よう、恋白」


「様子を見る!? 飲み込まれたのよ! 中で消化されてしまうかもしれない……ッ。

 それに先輩は肩に噛みつかれていた――大量の血を失えば失血死する可能性だって出てくる! 

 待って事態が好転するとは思えないッ!!」


「……ねえ、奈多切……、でも妖精は、悪化して化物になったとしても世界を誤作動させるだけで、直接、人体に影響を与えるわけじゃないでしょ……。

 今まで悪化した妖精を何度も見てきたけど、被害に遭った人間が、妖精の手によってどうこうなった例はない……」


 妖精の手で人間が死ぬことも、怪我をすることもなかった……。人間同士のいざこざによって怪我をすることはあれど……、発起こそ妖精であるが、人間が関わっていなければ、人間の体が傷を作ることはない。


 つまり、化物とは言え、妖精に飲み込まれた鏑木竜正がこのまま体内で消化されることはないはずだ……たぶん、きっと。


 華原湊も確信があるわけじゃない。だから曖昧なことしか言えなかった。

 確信がない以上、様子を見るという選択は、もう彼女にだってできなかったのだ。


 さっきまでとは状況が変わっている。


 ……悪意しか向けられない人生だと思っていた……。


 これまでがそうだったし、これからもそうであると……でも、それを壊してくれた人がいる。


 せんぱい。


 手段でしかなかった告白だったけど、遅れて、その言葉に本気が乗った。


 嫌悪じゃない。あるはずがなかった好意を向け、見てくれている人がいる……。

 そんなの、こっちこそ、意識しないなんてこと、できるわけがなかった……ッ。


 それに、化物に飲み込まれる寸前、彼は気づいていたのだ。

 化物が近づいていることも、大口を開けていることも……。

 避けようと思えば避けられたはずだ……なのに。


 彼は避けなかった。


 逆に立ち向かうように一歩近づき、大口の中へ視線を向けたのだ。


 もしも――、

 彼が信条としている通りに動いたと言うのであれば。


 懐のさらに奥まで理解し、肯定か否定をする。

 つまり、鏑木竜正は友人である妖精・メリィを救うために、捕食されることを望んだ。


 それが相手を理解することに繋がるのかは分からない。

 それでも一度、食べられてみるのが鏑木竜正という男だ。



「体内で消化されることはない、って、知っていた……?」


 世界を誤作動させることが上限だとすれば、確かに鏑木が消化されることはないとは思うが……、誰かがそれを正しいと言ったわけではないし、言ったとしてもそれを信用できるわけがないはずだ。

 ……まあ信用するよね、せんぱいなら。と、華原湊は呆れながらも分かってしまう。

 ああいう人だから、こっちも信用できてしまうのだ。


 信用されたければ信用しろ。どんな嘘みたいな言葉でも受け入れる。

 疑り深い以前にまず判断を迷うことさえない華原にとっては、絶対にできない行動だった。


 ……鏑木竜正を助け出すためにはなにが必要だ? 

 知識だ、知恵だ、力だ――自分一人ではどうしたって用意できないものもある。


 他人を貶めることでしか人と繋がれなかった華原は、少なくとも鏑木竜正とは繋がることができる。彼からの好意を受け止めることができれば、そこで両想いになることも……。


 そうなのだ。

 だから自分は、人に悪意以外で見られることがこれで証明できた……不可能なことじゃない。


「たぶんせんぱいは、食べられた後のことを考えていないと思う……、今も中で戦っているんだと思うんだよね。

 妖精の子を深く知り、理解して内側から悪意を浄化しようとしてくれている……じゃあ、あたしたちは、外側からこの子の戦力を削ぎ落せばいいはずでしょ?」


「華原……ッ、元はと言えば、あなたのせいで……ッ」

「ごめんなさい」


「謝って済むことじゃ――え、謝っ、て……?」


 頭を下げた華原は、

 それから自分よりも目線が下がった奈多切の両手を掴み、彼女に詰め寄った。


「あとでいくらでも謝る。罵ってくれて構わないっ、殴ったって、文句なんか言わないわ! ……だからお願い、今だけは――せんぱいを取り戻すために協力して!!」


「……先輩を、騙してたあなたがどうして今になって…………、あ、そう。そうなのね。

 分かったわよ、気持ちは痛いほど分かるもの、奪われたくない人だから……っ」


 互いの気持ちを察した二人は、言いたいことは山ほどあるが、それでも今、緊迫した状況で伝えている時間はない。だからひとまずは棚上げにする。


 先輩を想う気持ちはどちらも強い。その溢れ出る好意が、魔法の源だ。


 そして、魔法を使うには、妖精の力を借りる必要がある。


 傍らには大妖精、エミールとレーモンがいる……。


「あのぶよぶよの体を押して、吐き出してくれるなら楽だけど……」

「強い衝撃を与えて中にいるせんぱいに傷がついたら……え?」


 華原が気づいた。目を疑っていると、芋虫の体に亀裂が走り、その亀裂から白い光が漏れている……、まるで芋虫から『さなぎ』を飛ばして蝶へ羽化するように――。


 その薄羽が色濃く鮮明に世界へ姿を現し、芋虫の体が割れて開いた――。


 中から出てきたのは、手だった。


 染めた金髪と、一糸纏わぬ筋肉質の体。だが大事な部分は黒衣のような模様で隠れていた。

 下半身と、上半身の右半分は黒衣であり、左半分は白く発光している体だった……。


 背中には蝶のような鮮やかな色をした羽。さらに、亀裂が入った首と顔。

 黒い瞳の中にある赤い点――、その見た目は鏑木竜正、そのものである。



「せんぱい……?」


 しかし、彼は見下ろして確認した二人の少女に、声をかけなかった。

 かけられなかったのだろう……。

 目の前にいる鏑木竜正が、元々の中身までそこに一緒にいるとは限らない。


 魂がなく、外側だけが再利用されているとしたら?


 この鏑木竜正を動かしているのは、じゃあ妖精・メリィ……、ということになるのでは?



「――はっ、あひ、ひははっ! メリィだから、なのかな? ちょうど芋虫型だったから蝶として羽化したのか? ……これは他の妖精でも試してみないと分からないかもねえ……。

 人間と信頼関係を築き、妖精が悪化した後、それでも好意を向けてくれている人間を取り込むことで進化した……? 

 なんであれ、妖精という種族は人間と接することでということだ。前例がないこれは間違いなく、『進化』したと言ってもいい!」



「エミール……?」

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