第2話 織田家の家督
◇
天正十一年六月二十七日。
織田家当主であった織田信忠の訃報は、織田家を震撼させたといえる。
信忠はかつて天正十年四月三日に、実父である織田信長を岐阜城にて自害に及ばせ謀反を成功させ、強引に家督を継承していた。
そのため今回の横死に対し、世間では信長の祟りなどが噂されたこともあったが、しかし織田家中ではそれどころではなかったといっていい。
当然の流れとして、家督継承問題が発生したからである。
織田家の一門衆において、その序列の第一位は信忠の弟である織田信雄であり、第二位は信長の弟である織田
そして三位は信長の庶子で三男である織田信孝。
四位が信忠の従兄弟である津田信澄。
その後は、信長の弟である織田
しかし信澄はすでに討たれてこの世におらず、信雄と信孝の間で兄の後を巡り、熾烈な争いが起きようとしたのである。
順当にいけば、序列一位で信長次男であった信雄が継ぐのが道理だ。
が、信忠の仇討ちである山崎の合戦に、信雄は参陣できていない。
これは信雄の所領である伊勢の兵力を、信孝が四国征伐軍として編成し、全てをもって出陣してしまったことにより、動かせる兵力がまるで無かったからでもある。
一方の信孝は、実は信雄よりも早く出生している。
しかし庶子であったことにより、信長はその後すぐに生まれた信雄を次男とし、信孝を三男とした。
ただし信長は信孝に対して目をかけていたようで、庶子でありながらその待遇は破格で、なおかつ信孝に比べて信雄の方が明らかに能力で劣っていた節がある。
そのため信孝としても自負があり、素直に兄の家督継承を認めるわけにはいかなかったのだった。
そういった事情の中、この二十七日に
だが、この事態を家臣達が事前に憂慮していたことは間違いない。
特に織田家重臣であった
すなわち信忠の庶子、
三法師は信忠の側室の子であったため嫡子ではなかったが、それ以外に信忠に子がいなかったことから、重臣らはこれを担ぎ上げることにしたのであった。
これにより信雄と信孝は矛を収めざるを得ず、話し合いの結果、三法師が織田家の家督を継ぐことが正式に決定された。
だが三法師は未だ幼少である。
そのため信雄と信孝が三法師の後見人となって、
また織田家の所領については、信雄がそのまま伊勢を任され、信孝は新たに尾張を任され、勝家が岐阜城、恒興が
そしてそれまで三河を預かっていた勝家の代わりに、一益がこれを拝領することになる。
非常に大雑把ではあるものの、この時点での織田家の状況はこのようなものであった。
これで織田家の家督相続が一件落着したとは言い難く、火種は常に燻っていたといっていい。
この織田家の内情を横目で見ていた秀吉は、まず三法師の守り役となった堀秀政に接近。
次いで池田恒興を懐柔し、更に信雄と信孝の対立が深まっていくと、信雄をも取り込んで、勝家や一益、信孝と対立することになっていく。
ただ秀吉にも一つだけ予想外のことが、この清州会議で決定されていた。
朝倉家との関係について、である。
話し合いの結果、織田家は朝倉家との同盟継続を決定。
その証として柴田勝家と、色葉の
◇
一方、本能寺の変によりもっとも混乱したのは朝倉家であったといえる。
朝倉家の当主は朝倉晴景ではあったものの、その実、妻である朝倉色葉との二頭体制であったといっていい。
それがうまくいっていたのは、常に色葉が晴景を立てていたからであるが、しかしその影響力は間違いなく家中一であったといえる。
また、一度織田信長によって滅亡した朝倉家を色葉が再興したこともあって、その求心力は強く、その死は朝倉家に深刻な打撃を与えたといえた。
生前、色葉は自身の影響力の強さを憚って
そして目下の懸案となったのが、その家督についてだった。
「……やはり、今はご隠居様にお出になっていただく他あるまい」
朝倉家の重臣らは
まず城に集まった
要請に応えて北ノ庄に入った景鏡は、急遽甲斐より駆け付けることになった色葉の
それが七月七日のことである。
「
家臣筆頭である頼綱の問いに、答えたのは名指しされた大日方貞宗の家臣、
「……未だ傷が癒えず、一乗谷から動けぬのです」
「深手であったと聞くからな」
困ったものだと、頼綱は腕を組んだ。
「ちなみに
「念のために
「然様であるか……」
昨年、朝倉家の家臣筆頭であった堀江
そのため頼綱が家臣筆頭となっていたものの、かかる事態に頭を抱えていたことは言うまでもない。
姉小路頼綱は元・飛騨の国主であったが、朝倉家と武田家が同盟した後に真っ先に攻められて、色葉に服従することとなった。
のちに色葉を
特に色葉にこき使われていたのは誰もが知っていたことであったので、むしろ周囲に同情されていたほどである。
そんな頼綱には家中の信頼も厚かったが、その頼綱に勝るとも劣らない重臣が、色葉の側近を務めていた大日方
彼は元武田家臣ではあったものの、色葉が越前国に入る前からこれに仕え、まごうことなき最古参の将である。
頼綱以上に色葉にこき使われた人物であったが、しかし頼綱と違って色葉に直言できるほとんど唯一の家臣でもあり、色葉の義妹である朝倉
しかしその貞宗は色葉と共に京の本能寺にあり、色葉の遺命に従ってその介錯を務め、
決死の脱出の際に全身に傷を負い、一時は危篤にまで陥ったとされるが、今ではどうにか落ち着いているらしい。
だが会議に出席できるほどには回復しておらず、結局頼綱が主導で取り纏めるしかなかったのである。
「……まず真っ先に決めねばならないのは、朝倉家の家督についてでしょう」
控え目に、しかし誰もが思っていたことを口にしたのは、若狭の国主である武田元明である。
朝倉家に仕えて日は浅いものの血縁関係があり、また最近の戦では立て続けに功を上げていたことも手伝って、家中での地位は上昇しつつあった。
「そうではあるが、しかしな……」
困ったように、頼綱は上座にいる景鏡を見た。
実のところこの件は先延ばしにしたくて、頼綱らは景鏡を北ノ庄に呼んだのである。
家督継承の問題は家中を乱す要因にもなる。
確かに早々に決めねばならないが、しかし藪蛇になることもあるだろう。
上杉家や武田家のお家騒動をすぐ傍で見てきた朝倉家としては、あまり触れたくないことでもあった。
とはいえ、放置もできないのも確かである。
「殿は、如何お考えか」
「順当にいけばよかろう」
しばし黙って耳を傾けていた景鏡であったが、一同を見渡し、答えを返す。
「そう仰せられましても……」
困ったように、頼綱は顔を曇らせた。
確かに順当にいくことこそが、一番家中に乱れが無い。
無いが、話はそう簡単でもなかったのだ。
「……確かにお世継ぎは、お一人しかございませぬ。されど
討死した晴景には遺児である朝倉小太郎がいたが、その歳は三歳。
そしていったん当主の座に返り咲いた景鏡は、すでに齢六十近い。
かなりの高齢であり、孫である小太郎が元服し、政務を見ることができるようになるまでの時間を考えれば、あまりに危ういとしかいいようが無かった。
数年ならば問題無いかもしれない。
だがもし景鏡に何かあった時にはどうするのか。
「失礼ながら、殿にはお子がおられます。それについては、どのように」
あとがき↓
https://kakuyomu.jp/users/taretarewo/news/16816700429483166716
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます