第113話 雪葉の苦悩


     ◇


 慶長十年八月十五日。

 武蔵国江戸城。


 この時点で那須にて敗退を喫した幕府軍の一部は、家康と共に江戸城に帰還を果たしており、鎮守府軍の更なる侵攻の噂により、城内外は大騒ぎになっていた。


「……そうですか。殿は河越城に」

「はい。河越は武蔵の中央に位置し、古来より軍事上の要衝としてあった地です。江戸を守るために、上様は自ら城に入ることを望まれたと聞き及んでおります」


 藤田信吉の言葉に、雪葉は小さく頷いてみせた。

 普段から冷たい表情であるというのに、今では冷気すら漂わせる雰囲気に、信吉はただただ己の不徳を呪うのみで、頭を下げる。


「申し訳ありませぬ。このような次第になるとは……!」


 信吉の隣では、華渓が共に頭を下げていた。


 華渓は色葉に仕える侍女であったが、かの本能寺の変において色葉が滅んだ際に、共に滅ぶことになった存在である。

 それは色葉によって妖となったことに、由来する。


 その後、色葉が復活し、妖気を取り戻したことで、滅んでいた真柄直隆らと共に復活。

 そして色葉の強い要望により、自身ではなく雪葉の侍女として、江戸に送り込んでいたのだった。


 今となっては亡者の類である華渓も、色葉に出会うまではひとの子であった。

 そしてその肉親こそが、まさにこの瞬間、幕府に対して刃を突き付けてきている、上杉景勝に他ならない。


 景勝は華渓の実弟なのだ。

 だからこそ、華渓は雪葉に対して罪悪感に苛まれていたといっていい。


 一度朝倉家を失った雪葉は上杉家を憎んでおり、その上杉家が今度は徳川家を滅ぼすべく軍を進めているのだ。

 その心境を察するに、華渓は恐怖しか覚えることしかできなかった。


 一方の信吉は、元上杉家臣であった男だ。

 つい最近まで上杉家の重臣であったが、同じ重臣であった直江兼続との確執などから出奔を余儀無くされ、縁の深かった雪葉に身を寄せることになったという経緯がある。


 信吉にしてみれば、上杉家に対してもそれなりに忠誠心は持ち合わせていたこともあり、徳川との抗争は全く望むところではなかった。

 今日、このようになったことこそ、忸怩たる思いがあったのである。


「頭を上げなさい。別に、あなた方の責任、というわけではありません」


 雪葉としては、真実そのように思っていたのではあるが、しかし発せられる声は自分でも自覚できるほど、冷たいものだった。

 この状況を不愉快に思っている自分がいると、分かってしまう。


「女子供はいったん江戸を離れ、小田原、もしくは駿府まで避難すべきという声も出ております。念のために、お仕度を」

「そのつもりはありません」

「されど」


 首を縦に振らない雪葉へと、信吉は困ったように隣の華渓を見やる。

 その華渓に抱かれているのは、小さな幼子だ。


 昨年生まれたばかりの雪葉の子で、名を竹千代という。

 父親は徳川秀忠であり、紛うことなき徳川家の世継ぎである。

 その乳母を、華渓は拝命していた。


 竹千代の乳母の選考にあたっては、何名かの候補があり、例えば稲葉正成の継室であった斎藤福なども、その最有力となっていたという。

 しかしこれに強硬に反対したのが、雪葉である。


 才知においては見るべきもののあった福であったが、しかしかの明智光秀に由来する出自が、雪葉の反感を買ってしまったからだった。


 そのためこの話は立ち消え、雪葉の薦めもあって、華渓が拝命することになったのである。


「……雪葉様。竹千代様のこともあります。命があれば、従わねばなりません」


 華渓の言葉に、雪葉はじっと竹千代を見返した。

 自身の子としては、五人目に当たり、夫である秀忠にしてみれば、待望の男子であった。


 そしてこの子を産むにあたり、雪葉は酷く身を削ることを余儀無くされてもいた。

 それだけに、他の子たちとはまた違う、特別な感情を持っていたといえる。


「避難の準備は滞りなく進めるように。竹千代と初のことは、華渓に任せます。西に向かい、もし江戸に……いえ、幕府に変事があった際は、大坂の乙葉様を頼りなさい」

「雪葉様は」

「わたくしは河越城に向かいます」


 決然たる意志を示す雪葉の言葉に、華渓と信吉は困惑したように顔を見合わせた。


「噂によれば上杉の主力は、二手に分かれてこの江戸を目指しているとのこと。そしてその主力は河越方面を指向しているとか……。危険でございますぞ」


 信吉の言に、しかし雪葉の表情は何一つ変わらない。


「竹千代と初さえ無事であるのならば、江戸などどうなっても構いません。ですが殿は、お救いせねばなりません」

「上様ならば、諸将がこれを守っております。滅多なことは無いかと」

「殿は姫様の父君なのですよ? 何かあれば、姫様が悲しみます。それだけは見過ごせません」


 それは恐らく真実である。

 色葉は殊の外、あの平凡な秀忠のことを好いていたようで、実に良く懐いていた。


 それが家族の愛情の類かどうかはともかくとしても、自身を育て、少なくとも秀忠にとっては愛情を注ぐ対象であったことを自覚していた色葉が、それなりに報いようとした結果であったことには違いない。


 だから関ヶ原の折も、なるべく秀忠が討死しないようにと自ら動いていたものである。


 とはいえだからと言って、色葉のことが雪葉が河越に向かうという理由の全てであったかといえば、それは疑わしい。

 欺瞞であると、雪葉自身も半ば承知していた。


 単純に雪葉が秀忠を見捨てられない――それに尽きるのであるが、それを公然と認めることが、今の雪葉にはできないでいたのだ。


「姫様……とは、千姫様のことですか」


 雪葉の言葉の一瞬戸惑った信吉も、すぐに納得した。

 信吉は色葉の復活を未だ知らないが、雪葉が自身の子の中で特に千姫に対して特別な感情を持っていることは、十分に察している。


「確かに上様も、千姫様のことを殊の外可愛がっておられたと耳にしますが。されど、雪の方様に何かあれば、それこそ千姫様が悲しむのではありませぬか?」

「雑兵の千や二千如き、物の数ではありませんよ」

「そ、それはそうかもしれませぬが」


 凍えた雪葉の声に、信吉は背筋を冷たくした。


 家康が本能寺の変の折に伊賀越えを強行した際、雪葉が鬼のような活躍をしたことは、徳川家臣で知らぬ者はいない。

 何せ重臣の大半が、あの時同行していたからだ。


 そのため雪葉に恩を感じている者は、実は少なくない。


「いけません。雪葉様」


 しかしそれを窘めたのが、華渓であった。


「今の雪葉様は、本調子ではないとお見受けいたします。藤田様のおっしゃる通り、雪葉様に何かあれば、私は大坂で顔向けができません」


 華渓の言う通り、雪葉は現在、その力を一時的に大きく落としている。

 男児を出産するために、自身の妖気を損なわせる必要があったからだ。


 時がたてば回復する見込みはあったものの、雪葉はそれを敢えて自身で阻害していた。

 秀忠にもう一人を、と考えていたからである。


 別段、自分自身が欲しかったわけではない。

 あくまで秀忠のためだけに、そう思っていたのだ。


「……承知しています。それでも、気は変わりません」


 断言する雪葉に、華渓としてはもはや従うしか無かった。


 こうして華渓は江戸城からの避難の準備を始め、まずは雪葉との縁の深い大久保忠隣の居城である小田原城を目指すことになる。


 しかし五日後には侵攻してきた鎮守府軍を幕府軍が国府台にて迎え撃ち、これに敗北。

 そのまま江戸城は包囲され、雪葉は江戸城脱出の機会を失うこととなった。


 人知れず、雪葉は臍を噛んだのである。

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