第114話 小田原城にて


     /色葉


 慶長十年八月三十日。


 豊臣秀頼率いる西国軍は、東海道を無事に進軍し、この日に小田原城へと着陣した。

 そこでわたしは思わぬ者達と出会うことになる。


「大きくなったな」


 少し後ろに座す華渓に促されて、その幼女はぺこり、と頭を下げた。

 名を初、という。


 わたしの妹で、四姉妹の末妹に当たる人物だ。

 雪葉の子である。


「あねうえさま、なのですか?」

「ん、そうだ。お前の姉だ」

「おはつにおめにかかります。はつ、ともうします」


 一生懸命練習したのだろう。

 やや緊張した面持ちで挨拶をする初を見て、わたしは笑顔をみせた。


 可愛いものである。

 まだまだ幼いものの、やはり雪葉に似て、怜悧で美しい。

 珠や勝と一緒で、良い母親を持ったが故、かな。


「千、という。しかし時が経つのは早いものだな」


 初は慶長七年の生まれで、今ちょうど三歳くらいだ。

 わたしが徳川家を出て豊臣家に入ったのが慶長八年であったから、赤子の頃の初のことは当然見知っている。


 しかし初にしてみれば物心つく前であり、わたしと会うのは初めてのようなものなのだ。


 そしてもう一人。

 華渓が抱く、乳幼児をようやく脱するか、といった年頃の男児には、もちろん一切の見覚えなど無い。


 しかし誰であるかはすぐにも知れた。

 これが昨年生まれたという、わたしの弟だろう。


 名を竹千代、という。


「お抱きになりますか?」


 華渓にすすめられて、一瞬逡巡したわたしは、しかし首を横に振った。


「ん……いや、やめておこう。うまくあやす自信が無い」


 昔、小太郎――秀景を抱いて、よく泣かれたことを思い出して、遠慮しておくことにした。


 そういうのは苦手だったからな。

 無理なことはしないに限る。

 もちろん、少し抱いてみたいという気持ちはあったけど。


 しばし初と話し、華渓にも近況を確認した上で、初と竹千代の二人は他に連れてきた侍女どもにいったん任せて、わたしは改めて華渓と二人切りになった。


 そうなった途端、華渓は床に額を打ち付けるほど深々と、頭を下げたのである。


「申し訳ございません! 雪葉様をお連れすることが叶わず……!」

「雪葉が決めたことなんだろう。お前のせいじゃない」


 わたしが小田原城にて華渓らと再会できたのには、理由がある。


 関東情勢は幕府方にとって思わしくなく、江戸城も危険ということで、避難できる者はまずこの小田原城目指して落ち延びてきたのだ。


 その主目的は、徳川家の嫡男である竹千代を危機から遠ざけるためである。


「しかし意外と言うべきか、何というか」


 以前の雪葉ならば、何をおいてもわたしを優先させる――そういう姿勢だった。


 そのためには何を犠牲にしようと厭わない。

 そういう性格である。


 でも今回は、明らかに秀忠のことを優先させている。

 もちろん、非難されるべきことでもない。


「父上も、あれでなかなかどうしてうまくやったものだな。うん、悪い傾向じゃない」


 乙葉もそうだが、雪葉も家庭を持つようになって、色々と変化があったのだろう。

 それはいい。

 いいのだけど、今回は少々厄介ではある。


「華渓、話しにくいから頭を上げろ」

「……はい」

「で、状況を詳しく聞こうか」


 小田原にまで進軍する最中、先々の情報はそれなりに掴んではいた。

 そもそもにして、江戸への援軍には松平忠吉率いる先発隊がおり、これがまず関東に入って鎮守府軍と矛を交えている。


 が、戦況が芳しくないことは伝わっていた。

 というか、すでに敗北している。


「叔父上は父上と違い、戦上手なはずなんだがな」


 結局のところ、その忠吉の病状がかなり悪いことが敗因の一つとなっていたことは、疑いようも無い。


 話によれば、先発隊は満足な統制がとれないまま、従軍した諸大名の判断で進軍することとなり、それを待ち構えていた鎮守府軍に捕捉され、各個撃破されていったという。


 いくら足並みが揃わなかったとはいえ、西国の諸大名やその配下とて、戦国の世を経験した猛者が残っている。

 そう易々とはやられるはずもない。


 となると、敵が一枚も二枚も上手だった、ということになるのだろう。

 ともあれ敗退した先発隊は、一部は江戸城に入ったとのことだった。


「江戸城は包囲を受けていますが、未だ落城の報は届いておりません。河越城も同様です」

「……父上は、河越城にいるんだったな?」

「はい」


 やれやれ、だな。


 わたしがつい嘆息などしてしまったのは、状況が余計にややこしくなっていることを悟ったからである。


 わたしがわざわざ軍勢を率いて関東までやって来たのは、幕府を救うためなんかじゃない。

 あくまで雪葉や秀忠を救うためだ。


 妹や弟はすでにこの小田原に避難しているのだから、残すは雪葉と秀忠だけでいいことになる。

 この二人が江戸城にいるのならば話は早かったのだけど、雪葉は江戸城に、秀忠は河越城にいるという。


 そして二つの城は、鎮守府方の包囲下にある。

 二人を助けるには、敵の主力と別動隊、これら全てを駆逐する必要があるのだ。


「最悪雪葉だけでも、と思っていたが、こうなるとな……」


 わたし個人としては、江戸城にいる雪葉を優先して助けたい。

 が、ここで問題になってくるのは、雪葉の意思である。


 雪葉が秀忠を優先させているのは明白で、となると、秀忠を救わない限り、雪葉は自分一人の脱出を潔しとはしないだろう。

 事実、その機会をふいにしている。


 つまり雪葉のやつを満足させるには、まず秀忠を救わねばならないのだ。

 そしてその秀忠がいる河越城には、敵の主力がいる。


 上杉景勝だ。

 当然、手強い相手だろう。


「雪葉云々は抜きにしても、先に江戸城を解放する方が正しいんだが……。父上め、こういう時だけ甲斐性を発揮しなくてもいいのにな」


 何と言っても、江戸は幕府の本拠地だ。

 ここが落とされると、幕府の権威は確実に失墜する。


 その幕府の頭は秀忠なのだから、江戸城に帰還して然るべきだったのだろうけど、どういうわけか河越防衛の任を買って出たのだ。


 ……まあ、合理的に考えると分からないでもない。


 幕府にはまだ、家康がいる。

 その家康は江戸城に入っているのだから、ひとまずはそれでいいと考えたのだろう。


 というか、秀吉が死んだ頃の家康の発想と同じくするものだ。

 あの時、家康と秀忠は伏見にあったけど、秀忠を速やかに江戸に帰還させている。


 これは不測の事態に備え、徳川家の当主とその後継者を離れさせておくことで、どちらかに何かがあっても、残った方が健在ならばなんとかなる、という考えだ。


 これは本能寺の変で、わたしと晴景が同時に滅んだことで、その後の朝倉家があっさりと滅んだことを教訓にしているのだろう。


 正しいが、今回に関しては江戸も河越も死地となっている。


 家康としては、とにかく二つの城で粘り、西国からの援軍をもって一気に打ち払うつもりだったのだろうけど、先発隊はすでに敗退。

 残すは我らのみ、という体たらくだ。


 この後発の援軍部隊がどう動くかで、幕府の運命は定まるだろう。


「うーん……父上が河越に残ったということは、父上だけを救い出しても今度は父上の意思を尊重できなくなる、ということだな。となると、やはり戦って勝たねばならないのか……。しかし……」


 豊臣家が率いてきたこの援軍全てをもって、まず河越城に向かう。

 その上で敵主力と戦い、これに勝利する。


 それだけならば自信はあったが、そもそもにしてまずそれが実現できるかどうか、難しい。

 確実に諸将に反対されるだろうからだ。


「兵権が無い、というのは面倒だ。自分の好き勝手にできない。しかもこのやり方は、最善とは言い難い自覚もあるしな……」


 本来なら、江戸城を囲っている敵別動隊を先に駆逐して、江戸城を解放してしまうべきなのだ。


 ただし、河越城の救援が間に合わなくなるかもしれない。

 それでは意味が無いのだ。


 やはりここは、やるしかないか。


「念のために手を打ってはあるが、それが間に合うかどうか、だな」

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