第92話 信濃上田城にて
◇
慶長十年六月七日。
信濃上田城。
真田家の居城である。
「うーむ」
当主である真田昌幸のもとに、真田信之を通して徳川家康の親書がもたらされていた。
ちなみに信之はかつて真田家の嫡男ではあったが、関ヶ原の戦いの折に分家して徳川家についており、現在では信濃国の佐久郡のみ領有している。
「父上、書状には何と」
尋ねるのは真田幸村。
昌幸の次男である。
「幕府が兵を起こす」
「やはり」
「そこで我らには、不干渉でいろと言ってきておる」
「不干渉、ですか」
意外そうに、幸村は首を傾げた。
「兄上を人質にして味方になれ、と言ってくるものばかりと思っておりましたが」
「家康にもそこまで誇りが無いわけではなかろうよ」
無論、信之のこともあるからそういう要請の可能性も十二分にあったが、味方になれと言われてはいそうですか、と頷く昌幸でないことくらい、家康とて十分に知り得ているだろう。
「で、その対価は?」
「幕府の一員として、本領安堵を認める、というものだ」
「それは……はてさて」
幸村は苦笑いする。
裏を返せば、やはり脅迫の類ではないかと思ったからだ。
「仮に幕府と敵対した場合、どうなりましょう」
「面倒なことにはなる」
「甲斐の景頼殿はお味方にはなって下さらないのでしょうか」
「それは難しいところであるな」
現在の真田家は信濃国の大半と、飛騨一国を領する大名である。
国力はまずまずであるが、実のところ周囲は幕領に囲まれており、唯一越後国のみが、上杉家の領するところとなっていた。
ただし、実際のところはなけなしの保険があると言っていい。
それが甲斐国を治める武田景頼だ。
景頼は真田家に仕えている朝倉景幸の実兄であり、過去の経緯もあって、真田家との関係はとても良好である。
それが頼りになるのではないか、と幸村などは思うのだが、昌幸にしてみればそこまで楽観視はしていなかった。
「何故ですか」
「確かに景幸がこちらにはおる。実の弟ではあるし、その縁が強かろう。されど、もしその弟と姉殿のどちらかを選ぶかと問われれば、景頼殿は確実に姉殿を選ぶであろうな」
「……色葉様のことですね」
「うむ」
昌幸はあの朝倉色葉がこの世に復活したと、信じて疑っていない。
幸村は父ほどではないにしろ、あの色葉ならばとそれなりに納得し、父の確信に追従してはいる。
兄である信之などはあまり信じていないようであるが、幸村は信之と違って色葉の小姓をずっと務めていたこともあって、あの姫の為人を良くわきまえていたからでもあった。
そしてその色葉は、景頼や景幸の義理の姉である。
「むしろ景幸とて、色葉様の命あらば、この真田を裏切るやもしれん」
「それは……」
ない、と言い切れないのがあの色葉の色葉たる所以だった。
「それはわしとて同じであるがの。あの御方には逆らえん」
「はあ」
この父をしてそう言わしめるのであるのだから、色葉の影響力は計り知れない、というものだ。
そしてその色葉は今や、徳川秀忠の長女として生まれ変わり、千という名を得て豊臣家にある。
「家康めのことだ。我ら真田だけではなく、豊臣にも使者を送って牽制していることだろう。もし豊臣家が上杉に付こうものなら、由々しきことになるゆえな」
「つまり豊臣家がどう動くか。それ次第、ということでしょうか」
「そうなるな」
現在の豊臣家の主は豊臣秀頼であるが、実際にはその母親である淀殿が、大坂を仕切っているといって過言ではない。
しかしその淀殿の正体は、あの色葉の妹だった人物だ。
そして色葉が大坂城にいる以上、色葉の意思が大坂の意思になることは、想像に難くない。
つまりそういうことなのである。
「なるほど。しかしそれはそれとして、実際のところはどうお考えなのです? あ、いえ、仮に色葉様の存在を抜きにした場合、父上はどうお考えになられるのかと思ったものでして」
「うぬ?」
思わぬ問いかけだったのだろう。
昌幸は白くなってきた頭を掻きつつ、改めて考え込んでしまう。
どうも色葉が絡むと、冷静な判断というか、自分の意思が二の次になってしまう嫌いがあり、真田家の当主というよりは、色葉の臣下だった頃の気分に戻ってしまうのだ。
「……そうじゃのう。面白くはないな」
ぽつり、と素直な感想を、昌幸は告白した。
「それは何に対してですか」
「無論、上杉だ」
その返答に、やはり、と幸村は思う。
昌幸自身とて成り上がることを望んでいるというのに、家康はもちろんのこと、景勝にまで出し抜かれたような形になったからだ。
その上、鎮守府大将軍を名乗り、幕府に比肩する存在であるかのように公然と振る舞っている。
ある意味で幕府に喧嘩を売り付けたのだろうが、しかし昌幸にしては面白くないはずである。
「一番良いのは徳川と上杉が潰し合いをしてくれることだ。どちらか弱った方に食いついて、真田の所領を増やす。これが一番ではあるが」
しかしそれこそが難しい。
それにはどちらかについて戦功を上げるのが手っ取り早いが、蝙蝠をした挙句にどさくさに紛れて所領をかすめ取った場合、心証が悪くなってしまう。
関ヶ原の戦いでの小早川秀詮が、いい例だろう。
つまり、最初の選択が全てを決するようなもので、これが難しい。
もっともそれは徳川と上杉のみでの話であって、今回はそれに豊臣家が入り、その意向を最優先にすると考えている以上、意味の無い思考ではある。
「まあそのような詮無きことは、今は考えんでもよい」
「は、申し訳ありません」
「それよりも、豊臣がどう動くか、であろう」
大事なのは、そこである。
豊臣、というよりは、色葉が、であるが。
「私には分かりかねますが、しかし今ほどの父上のご様子を見るに、同じように思われるのではないかと」
「む?」
つまり、今回将軍を自称した上杉家に対し、思う所があるのではないかと。
少なくとも感情的に、これを全面的に肯定しないのではないかと、幸村はそう言うのである。
「こやつめ。わしを鏡としおったか」
一本とられたと、昌幸は唸る。
しかし確かにあの色葉の気性ならば、快く思わないかもしれない。
そもそも家康が征夷大将軍の宣下を受けた時も、その頃の色葉はまだ徳川家にいて幼少であったが、それを抜きにしても豊臣家としては面白くなかったはずだ。
そして秀忠への世襲。
これも面白いはずがない。
ただし、存外身内に甘い色葉個人にしてみれば、実の父親や祖父の話であり、不快に思う要素は無いだろう。
負けないように秀頼を関白にしようとするかもしれないが、まだ先の話でもある。
むしろ、景勝が勝手に将軍職を名乗ったことこそ、不快に思うのではないか。
これも事前に豊臣家に相談があったのか、無かったのかで話は変わってくる。
今のところは分からないが……。
「とはいえ、あの景勝にしてみてはまこと意外であったな。昔からさほどの野心家とは思えぬでいたのだが、こうして振り返ってみると、実に腹黒かったと認識を改めざるを得ない」
今回の鎮守府大将軍自称もそうであるが、関ヶ原での立ち回りといい、豊臣政権下での勢力拡大や、それに繋がった朝倉家滅亡時の鞍替えなど、実にうまく世を渡ってきたと言えるだろう。
その点に関しては、昌幸も感心するところである。
が、素直に受け入れられるかどうかとは、また別問題だが。
「……ご家臣の直江殿の存在あってこそ、でしょう。他にも優秀な方がいるようですぞ」
「ふむ。直江か。家康に見事喧嘩を吹っ掛けたのは、天晴れと誉めてやる。戦場でもまあまあの采配だ。しかし謀略が過ぎるのは好かん」
「はあ」
そんな昌幸の感想に、幸村は呆れてみせた。
朝倉滅亡後、それこそ謀略を駆使して今まで生き残ってきたのは、まさに昌幸の手腕によるところである。
直江兼続なども同様であろうが、それを嫌うところをみると、一種の近親憎悪の類だろうか。
「ん? 他にも、と言ったな? 誰のことであるか」
「景勝殿のご正室・紅葉姫などは、先の出羽合戦において、自ら戦場に出て采配されたとか」
「……色葉様といい、大坂の乙葉殿といい、信之の嫁といい、その姫といい、どうにもお転婆の過ぎる女子が多いのではないか?」
「そうおっしゃられても」
「世の中変わっていくものであるな」
しみじみと、昌幸などは思うのである。
これまで政治、戦といえば、男の世界であったはずだ。
しかし現状、そうとも言えなくなってきている。
かつての朝倉家でもそうであったし、現在の豊臣家でも、その事実上の頭は女だ。
そして上杉家においても、そういった雰囲気があるという。
「……そういえば、秀忠の正室は雪葉殿であったか。これも尻に敷かれているとの噂。さもありなん。……ちなみにそなたはどうなのだ?」
「は? いえ、お徳は大人しくしてくれておりますが」
お徳というのは幸村の正室で、関ヶ原で戦死した大谷吉継の娘でもある。
「では幸村よ。この正念場、そなたが踏ん張るほかあるまいな」
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