第93話 生臭坊主と乙葉


     ◇


 慶長十年六月十一日。

 摂津大坂城。


 この日の夜、一人の僧が密かに大坂城入りを果たしていた。

 名を天海といい、越前国にある平泉寺に僧籍を置く坊主である。


「坊主が妾に何の用かと思ったら、貞宗じゃないの」

「……淀殿におかれては、ご機嫌麗しく」

「今から寝るところだったんだけど」

「それは失礼を」

「……というか貞宗? 面倒臭いから気を遣わなくてもいいわよ。淀殿、だなんて」


 それこそ面倒臭そうにそう言われ、天海こと貞宗は面を上げた。


 大日方貞宗。

 これがこの坊主の本当の名でもある。


 元は武田家に仕えていた大日方氏の一門であったが、幸か不幸か色葉に出会ったことでこれに従わざるを得なくなり、その後は色葉が再興した朝倉家において、まごうことなきその最側近となっていた人物だ。


 色葉に対し、自身が一番の存在である、と自負する乙葉や雪葉ですら一目置かざるを得ない、最古参の将であった。


 朝倉家滅亡後は紆余曲折を経て徳川家康に仕え、しばらくしてから坊主になってしまった。

 その際に、かつての所領であり、所縁の平泉寺にその籍を置いたようだが、乙葉に言わせれば生臭坊主そのもの、である。


「では、乙葉殿」

「はいはい。なぁに?」


 気心の知れた相手である上に、古い顔なじみに再会できて、夜分であったにも関わらず乙葉の機嫌は悪くはなかった。


 乙葉は乙葉でこの大坂城の主をしている身の上であり、その過程においてはひとに恐れられるような所業も為してきたし、そもそも気の長い方ですらない。


 あの秀吉ですら、乙葉にはずいぶん気を遣っていたというくらいだ。


「千姫様……いや、色葉様はもうお休みに?」

「姉様ならいないけど?」


 その返答に、貞宗は表情を曇らせる。


「どちらかにお出かけになられているのか」

「うん。伊予に行きたいっておっしゃって、ずいぶん前に旅に出られたから。今頃は筑前にいるんじゃないかな? 伊予からの文には、狸を軍門に降したって自慢されてたし」


 筆まめな色葉らしく、乙葉や秀頼に対し、行く先々であったことをしたためて、大坂へと送って寄越していた。

 それによればとっくに四国は出たはずで、今は九州にいるはずである。


「伊予に向かわれたのに筑前におられると? しかも狸?」

「そ、狸。四国ってば狸に支配された国ってことで、有名だもの。それをあっさり平定しちゃったんだから、さすがは姉様」


 我が事のように、乙葉はにこにこしながらそう語る。


「はあ……。色葉様らしい。しかしいったい何をなされているのやら」

「貞宗って、相変わらずぼやいてばかりよね。そんなじゃ老ける……って、老けてないか」


 貞宗をまじまじと見返した乙葉は、以前と変わらぬ貞宗の容貌に苦笑した。

 この貞宗も、色葉に関わったが故に、最後の最後でひとをやめている口なのだ。


 しかも色葉が死した後に、である。

 どれだけ色葉に信頼されていたのかと、乙葉にしてみれば嫉妬を覚えずにはおれないほどなのだ。


「色葉様の呪いは健在のようでな」

「呪いって……またそういう言い方。姉様、怒るよ?」

「たまには常識というものを誰かが諭して差し上げねば、すぐにも人の道を踏み外すお方であるからな。それも致し方あるまい」

「ふうん」


 この辺りが、乙葉が貞宗に敵わないと思う理由である。


 あの色葉に対する諫言の類をもっとも行ってきたのが、この貞宗なのだ。

 乙葉などは、嫌われるのではないかと不安になり、反論などまずできなかった。


 しかし貞宗は色葉を恐れない。

 だからこそ、あの雪葉ですら貞宗に対しては敬意を抱くのである。


「坊主の皮を被った人でなしになっちゃったくせに、お説教が好きっていうのもねえ……。姉様もご苦労様」


 しみじみと、乙葉はそう思うのだった。


「それはともかく、姉様に用事だったの?」

「正式な親書は明日、秀頼様にお渡しするつもりであるが、その前に状況を説明しておきたくてな」

「親書? 徳川から?」

「そうなる。だがその前に、雪葉殿からの個人的な書状も預かっている。色葉様がおられないのであれば、乙葉殿に渡すが適当であろう」


 そんな貞宗の言に、乙葉は慌てた。


「ちょ、ちょっと待ってよ。妾が見ていいの? 雪葉から姉様への手紙なんでしょ?」

「内容は心得ておるから、問題はあるまい。それに、乙葉殿の意見も重要だ」

「でも……」


 困ってしまった乙葉であったが、しかし色葉はしばらく大坂に戻らない。

 予定を決めていなかったから、いつ帰ってくるかも分からない。


 そうなると、やはりこの手紙の内容は、確認する他無いだろう。


「これを」


 貞宗より一通の書状を差し出され、乙葉はしばし悩んだものの、結局は受け取らざるを得なかった。


 中身を確認し、その口元に浮かんだのは苦笑である。


「……雪葉ってば、もっと素直に徳川に助力して欲しいって、頼んでくれればいいのに」


 内容についてはその背後の情勢も含めて、乙葉にはすぐにも理解できるものだった。

 すなわち上杉家の処遇である。


 上杉景勝が鎮守府大将軍を自称したことは、すでに大坂でも知られている。

 これに対し、豊臣家中でもすでに議論が為された後だったからだ。


「ねえ貞宗。徳川は上杉を攻めるつもりなんでしょ?」

「此度のこと、陣触れの名分にはちょうど良いからな。幕府にしてみれば、いずれどうにかせねばならなかった相手でもある」

「でしょうね」


 さほど政治に強くない乙葉でも、それくらいのことは読める。


「……豊臣家では今回のこと、どのように捉えているのか?」

「まあ基本的にはうちって上杉びいき……というか、徳川のことを嫌っている輩の方が多いから。でも豊臣に断りもなく勝手に将軍を名乗ったことに関しては、憤慨している者も多いみたい。秀頼を蔑ろにしている、って」


 多少の反感は得たものの、それでも徳川よりも上杉に味方すべしという雰囲気の方が強いのが、今の豊臣家であった。


「では。乙葉殿個人の意見は」

「妾? うーん、別に何とも。人の世の官職なんて、さほど興味無いし。妾はそんなものよりも、姉様にどれだけ認められて近くに置いてくれるかっていう方が、重要だもの」

「なるほど。それは偽らざる本音であろうが、されど秀頼様の存在を中心に考えれば、無視するわけにもいくまい」

「それは……そうだけど」


 秀頼のことも絡めて考えれば、放っておけばいい、という話でもない。

 事実、家中では確かに意見が分かれているのだ。

 これをうまくまとめる必要は、ある。


「幕府としては、今回の上杉討伐の正統性を、豊臣家に承認して欲しい、というものだ。それだけで徳川に反感を持つ諸大名らの動きを、ある程度封じることはできる」

「今の豊臣に、そんな力が残ってるのかしら」

「太閤殿下の威光は未だに残っているとも。だからこそ、大御所は豊臣を恐れ、色葉様を差し出すを良しとしたのだろうからな」

「秀吉はもう死んじゃっているのにね」


 そう答えたところで、乙葉はやや考えを改める。

 自分とて色葉が横死した後、色葉が残した朝倉家に殉じようとしたのだ。

 そうそう理解できない話ではないと、思い直したのである。


「まあ……雪葉の気持ちは分かるわよ? 妾が秀吉のことを憎んだみたいに、雪葉は上杉のことを憎んでいたから。だから心情的には上杉を滅ぼしたいと思っているんだと思う。でも豊臣……というか、姉様の利害に反するかもしれないって、そう考えているんでしょう」

「その通りである」

「妾は別にいいわよ? だって可愛い妹の頼みなんだもの。上杉なんてどうでもいいし、雪葉が滅ぼしたいのなら、滅ぼせばいいって思う。妾から姉様に頼んでもいい」


 それは確かに乙葉の本音だ。


 姉妹という関係もさることながら、色葉をこの世に舞い戻らせたことに関して、乙葉は雪葉を高く評価もしている。

 それに報いるのに、労力を惜しむつもりはない。


「でも、結局は姉様が決めること。姉様が上杉に味方すると言うのなら、妾は絶対にそれに従う。雪葉には悪いけれど、それは譲れない」

「……雪葉殿とて同じように考えたからこそ、そのような文面になったのだろう。……やれやれ、やはり色葉様がいなくてはどうにもならんか」


 貞宗にしてみても、まさか色葉が不在とは思いもよらないことだったのだ。

 しかも長期の旅の最中。


 色葉らしいといえばそうであるが、いったい何をやっているんだか、という気分でもある。


「貞宗、眉間に皺寄ってるよ?」

「色葉様のせいだ」

「それは分かるけど」


 ともすれば不敬な発言に、しかし乙葉は怒りはしない。

 余人が発したものであれば、生かしておかないところではあるが。


「とりあえず、姉様には使者を送ってみるけど、ちゃんとした所在は分からないし、時間はかかるでしょうね」

「そうであろうな」

「その間、豊臣家は徳川にも上杉にもつかない。不干渉。差し当たってはそれでいい?」

「それしか無いだろう」

「じゃあそういうことで。治長にも言っておくから、うまくまとめてくれるでしょ」


 政治に興味が無く、その能力にも長けていない乙葉がこれまで大坂城の主をやってこられたのは、ひとえに豊臣の家臣たちのおかげである。


 中でも色葉が教育した大野治長などは、内向きのことにはこれまでそつなくこなしてきており、今や乙葉が最も信頼する側近だった。


「それにしても、妾も姉様について行きたかったなあ……」

「秀頼様の正室というお立場にも関わらず、好き勝手に出歩く色葉様の方がどうかしている。乙葉殿までそれに追従しては、家中の者も大いに困り果てることだろう」

「わかってるわよ。だから残ったんだし。くどくど言わないで。相変わらずなんだから」


 煩わしそうに舌を出す乙葉であったが、しかしそんなやりとりは昔を思い出し、懐かしくも感じたのである。

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