第94話 牢屋の心地
◇
慶長十年六月二十日。
この日、幕府より正式に、奥州征伐の陣触れとなった。
その陣容は、
■江戸幕府軍…兵力計十万七千余騎
〇上野方面軍…兵力一万三千余騎
先鋒 :武田景頼
二番手:大久保忠隣、大久保忠常
三番手:井伊直孝、大須賀忠政、藤田信吉
〇会津方面軍兵力五万余騎
先陣…兵力一万二千余騎
先鋒 :藤堂高虎
二番手:水野勝成
三番手:新庄直定、真田信之
本営…兵力三万八千余騎
前備 :土井利勝、酒井忠世
本陣 :徳川家康、徳川秀忠
後備 :本多正純、立花宗茂
〇越後方面軍…兵力二万九千余騎
一番手:松平秀康、松平忠直、松平忠輝
二番手:前田利長、前田利光
三番手:京極高次、京極高知
〇常陸方面軍…一万五千余騎
本陣:本多忠朝、里見忠義(忠義は幼少のため、実質は正木時茂)
ざっくりとではあるがこのようなもので、三方面より上杉領への侵攻を目指したものであり、その総勢は十一万に迫るかという大軍である。
一方、これに対して上杉家も大動員をかけ、対抗の意思に余念が無かった。
その陣容は、
■会津鎮守府軍…兵力計七万七千五百余騎
〇越後守備軍…兵力一万一千余騎+七千五百余騎=一万八千五百余騎
先陣 :斎藤景信
本陣 :上杉照虎
後詰 :直江兼続、前田利益、平林正恒
〇会津守備軍…兵力四万五千余騎
先陣…兵力一万五千
先鋒 :本庄繁長、大宝寺義勝
二番手:水原親憲
三番手:清野長範
本営…兵力三万余騎
前備 :最上義光(右翼)
:南部利直(左翼)
本陣 :上杉景勝、山岸尚家
後備 :紅葉、最上義康、戸沢政盛、津軽信枚
後詰…兵力四千余騎
本陣 :津軽為信、津軽信建、石田重成
〇その他…兵力一万余騎
佐竹勢:佐竹義宣
このようなもので、幕府軍には届かないものの、鎮守府軍も八万に迫ろうかという大軍を繰り出して、大戦を予感させたのである。
/色葉
慶長十年六月十九日。
幕府による陣触など知る由も無かったわたしたち旅の一行は、その前日である十九日に、筑前国を出立していた。
目指すは毛利家の本拠地である、萩である。
とはいえ急ぐ旅でもない。
わたしはその途中、長門国長府にてしばし滞在することになる。
その長府に着いたのが、六月二十九日のことだ。
もちろんここも、毛利領である。
ここを治めているのは毛利秀元。
当主である毛利輝元の従兄弟だ。
長門国豊浦郡を領している秀元は、毛利家にとって西側を守る重要な役どころとなっており、ちなみに東側の守りは岩国を治める吉川広家、といった具合である。
まあそんなことはどうでもいい。
わたしが長府に立ち寄ったのは、無論、平家の連中と一杯やるためだ。
みんな呆れていたけれど、知ったことじゃない。
だってあの酒はとても美味だったし、この先飲めないかと思うと実に残念ではないか。
「では、お供仕りますぞ」
そんな中、奇特なことを言ってのけたのは、新参である後藤基次である。
あの平家の者どもの宴など、同じ亡霊の類のはずの直隆らでも敬遠するような代物だったのであるが、どうにも基次は怖いもの知らずであるらしい。
「ん、いいぞ? わたしの家臣どもは、どうにも臆病でつまらないからな」
気を良くしたわたしは暴言を吐きつつ、基次と朱葉を伴って、例の酒宴に招待された。
……招待というか、押しかけではあるけれど。
「まことに奇怪。されど元は同じひとなれば、臆すに及ばず」
などと言って、堂々と酒宴に参加した基次のことを、わたしは素直に感心したものである。
そんなこんなで道草を食っていたわたしたちが、目的地である萩に到着したのは、六月二十九日のことだった。
「……何だか落ち着かないです」
そう言うのは、わたしの小姓である畠山千代保だ。
千代保は化け狸の子である千狸を抱きかかえつつ、どこか不安そうにきょろきょろしている。
「何やら殺気だっている様子」
とは伊達成実。
伊予に立ち寄った後、あの伊達政宗が強引に宛がってきた伊達家の重臣である。
「確かに何か妙な雰囲気だな。重成、千代保の傍にいてやれ」
「はい」
素直に頷くのは木村重成。
わたしの夫である豊臣秀頼の小姓上がりの側近で、まだ若いがわたしの旅を心配した秀頼に命じられてかどうかは知らないが、同行を願い出てくっついてきたのだ。
ちなみに他の面子は、千代保と同じくわたしの世話係である朱葉に、あとは護衛の面々。
真柄直隆、直澄、隆基に加え、山崎景成といった具合である。
わたしや朱葉を抜きにしても、十二分の戦力だったといえるだろう。
「……何やらきな臭いが、せっかく萩まで来たんだ。さっそく名所巡りをするぞ」
そう意気込んでいたわたしであったが、世の中とはままならぬもの。
思わぬことというものは、常に起こるものであるらしい。
◇
「……私は我慢なりません。主様を、このような場所に……」
「ああ、怒るな怒るな。たまにはいい経験だぞ?」
怒り狂いかねない朱葉を宥めつつ、わたしはごろんと横になったまま、呑気に天井を眺めていた。
「……千狸は無事でしょうか」
しょぼん、としながらそう口を開く千代保は、このような状況下にあって、予想外に気丈だったと言っていい。
「ん、大丈夫だろう。あれは普通の狸じゃない。あとでちゃんと合流できるだろうさ」
「だと……いいんですが」
殊の外、千狸を気に入っている千代保からすれば、心配でたまらないのだろう。
面倒臭がり屋のわたしが千狸の世話を千代保に任せたこともあって、責任も感じているのかもしれない。
「労せずして宿が見つかったんだ。今夜はここで一泊と洒落込もうじゃないか」
さて。
何があったのか、である。
萩に到着したわたしたち一行は、まず誰もが城下の物々しさに気づいていた。
そういうわけで、心配性な景成と、新参の基次がそれに同行して、まずは情報収集にあたったのである。
それはいい。
その間、わたしたちは茶屋で団子などをかじりつつ、二人の帰還を待っていたのだったが、その前に思わぬことになってしまったのだった。
一言でいえば、御用になってしまったのである。
「……景成め、下手を打ったな」
わたしたち一行はそれなりに目立っていた上に、景成らがあれこれ聞いて回ったことが災いして、不審者扱いされて取り締まりを受けた、というのが正確なところだ。
景成は一応、わたしの身分を告げたようだけど、信じてもらえなかったらしい。
むしろそのことが、余計に不信感を煽ってしまったのだろう。
あの剣術馬鹿め。
もう少しうまくやれというものだ。
そんなこんなで同心どもに取り囲まれて、はい御用、である。
もちろん、相手は武士とはいえ、わたしからすれば雑兵の類だ。
暴力に訴えればいくらでも切り抜けられただろうけど、豊臣家に嫁いだ徳川の姫が、地方の城下で殺戮を欲しいままにしたとなっては、さすがに外聞が悪い。
秀頼に怒られてしまう。
というわけで、ぐっと我慢したのであるが、我慢できなかったのが朱葉で、これを宥めて事なきを得るのに苦労した、というわけだ。
やれやれ。
そういうわけでわたしたちは今、取り調べを受けるために、一時的に牢に放り込まれている状況だった。
男どもとは分けられて、である。
いくら待ってもお呼びが無いところを見ると、男どもの方から重点的にやっているのだろう。
「景成はあとで折檻してやるとして……ああ、こら。せっかくの可愛い顔が台無しだぞ?」
寝転がるわたしの視線の先には、眉間に皺を寄せて不満をどうにか我慢している朱葉の顔がある。
つまり、朱葉に膝枕をさせているからなのだけど、わたしが触れていてやらないと、どうにも暴発しそうで困る。
「そんなことより、これはどういう状況だろうな? 城下はぴりぴりしていたし、物々しかったし、だからこそ余計に警戒されたんだろうけど」
「……思い当たる節はあります」
「ん、そうなのか?」
「この萩で史実通りに歴史が動いているのであれば、ちょうど今頃、毛利家において騒動が勃発しているはずですから」
「騒動?」
わたしは小首を傾げる。
例の本は無くなってしまったが、かといってあの本に書かれていたことが消えてなくなってしまったわけではない。
全て、朱葉が記憶している。
だから歴史の勉強をするには、朱葉と話すのが一番いい。
朱葉も基本、わたしとおしゃべりをしたがるので、聞けばいくらでも話してくれるし。
「はい」
「どうせ暇だ。話せ」
「かしこまりました」
朱葉が頷く。
わたしとしゃべれるとなって、ほんの少しだけ機嫌も良くなる。
そんな朱葉の説明によると、萩城普請に関わる事件が勃発している可能性が高いという。
毛利家の本拠といえば、関ヶ原の戦いの前までは、広島城だった。
毛利輝元が築いた城である。
しかし敗戦により、毛利家は大幅な減封となった。
周防国・長門国の二ヶ国のみ、領有を認められたのである。
もちろん、その二ヶ国に広島城は含まれない。
そこで輝元は広島城に代わる新たな本拠地として築かせたのが、その萩城だった。
慶長九年には一応の形にはなったようで、正確には未だ完成に至らず、ではあったものの、ともあれ輝元は萩城に入城したらしい。
使える場所から使っていこう、という算段で、これはよくある話だ。
わたしが大坂に入る前に立ち寄った越前でも、新たな北ノ庄城は未だ普請中ではあったものの、すでに使われていたしな。
萩城では輝元が入城した後も、当然普請は続けられていたわけで、現在もその最中である。
そんな中、一つの事件が発生した。
萩城二の丸東門の普請に使う予定であった五郎太石が、何者かに盗まれたのだ。
ちなみに五郎太石とは呉呂太石ともいい、城を築く際に石垣の裏に楔として詰めた細かい石のことをいう。
この五郎太石を用意していたのが毛利家臣・天野元信で、これも毛利家臣の益田元祥の手の者が盗んだと主張。
これが揉めに揉め、同じく毛利家臣である熊谷元直を巻き込んでの大騒動となったらしい。
あおりを受けて萩城の普請は遅れるし、主である毛利輝元は、我が父・徳川秀忠の征夷大将軍就任を祝うために、わざわざ江戸に向かうはずだったのに、その予定まで遅れるというぐだぐだな状況に陥るという、体たらくだったようだ。
それがまさに今、起きているかもしれない、ということである。
「ふうん。わたしの存在のせいで、ずいぶんこの世界を搔き乱したはずなのに、史実と変わらず進むところもあるのは、相変わらずか」
これはたまに思うことであるけれど、不思議なことでもある。
何だかんだで秀吉は天下をとったし、家康はそれを乗っ取る寸前まできているしな。
流れはともかく、結果だけを見れば、わたしの知る史実とさほど遜色ない、といった感じだ。
もっとも。
わたしがこうして生まれ変わりを果たした以上、再び搔き乱されていくのかもしれないが。
「……それはともかく、ということは輝元の奴、父上に会いに行っていて今は萩を留守にしているのかな? 輝元に身元を確認してもらうのが、一番手っ取り早いんだが」
毛利輝元とは、大坂城で何度か会ったことがある。
わたしの祝言にも顔を出していたしな。
「まあいいか。牢屋に入るというのも、そうそう経験できるものでもないだろう。将来、話のネタが増えていい。なぁ、千代保?」
「そうですね」
千代保などは頷いてくれるが、朱葉は仏頂面のままだ。
やれやれ、である。
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