第91話 雪葉の憂鬱
◇
慶長十年六月一日。
武蔵江戸城。
「竹千代にはお会いになられましたか」
「うむ。実に大人しい子ではあるが、無事に育って欲しいものだ」
江戸幕府第二代将軍である徳川秀忠は、正室である雪葉へと、重々しく頷いてみせた。
秀忠と雪葉の間には、すでに何人かの子がいるが、待望の男子を授かったのが、約一年前のこと。
秀忠はそれはもう喜び、即座に嫡子とされ、その幼名も秀忠の父である家康が、かつて名乗っていたものと同じものを与えられるという優遇ぶりだ。
「しかしのう、早くも我が手元には竹千代と初しか残らぬとは、何とも寂しいものだ」
ややしょぼん、として素直に心境を吐露する秀忠を、雪葉まじまじと見返していた。
この幕府の代表者たる将軍職を務める者としては、威厳が足りないとも感じなくもない。
父親である家康や、松平秀康や松平忠吉といった他の兄弟らと比べると、どうしても凡庸に映る秀忠である。
それに加え、雪葉はあの朝倉色葉をよく知っている身の上であるので、余計にその差異は感じずにはおれない。
そのせいか、雪葉の秀忠に対する態度は自然、厳しいものになったが、しかし見損なっていたわけでもないのだ。
その誠実な人柄は評価に値したし、何よりあの色葉が秀忠を父として認め、そのような態度で接している。
そして雪葉自身も、少なからず情が移っていたのも確かだった。
多少……というか、かなり無理をしてでも、雪葉にとっては難儀した男児の出産という最大の貢献を秀忠に対してしようと思ったのも、そういう理由によるところが大きかったのかもしれない。
「みな、元気にしていると耳にしております」
「うむ、うむ。であろうの」
秀忠と雪葉の長女である千姫は豊臣家に、次女である珠姫は加賀前田家に、三女である勝姫は越前松平家に嫁いでしまっている。
誰もがまだ幼少であり、全てが政略結婚の結果だった。
「勝もこうも早くいってしまうとはのう……」
三女の勝姫などは、結婚相手が身内であることもあり、さほど急がせる必要も無かったのであるが、その相手である松平忠直が強く望んだことや、豊臣家にいる千姫の後押しもあって、早々に越前に輿入れしてしまったのである。
自身の五人の子のうち、すでに三人が親元を離れているわけで、子煩悩な秀忠にしてみれば、寂しいことこの上無かったと言っていい。
雪葉にしてみても、あの色葉を手放すのは断腸の思いではあった。
我ながら不遜であるとは思うものの、色葉の親の役を得て、ずっと手元に置くことができていたのである。
ある意味で、これ以上無い幸福な時間でもあった。
しかし一方で、かつて色葉を救えなかったことが常に自身を苛んでもいたので、素直に喜びを喜びとして表現することはできなかったのであるが。
「……殿、しゃきっとされて下さい。仮にも将軍なのでしょう」
「う、うむ」
「その将軍なのですが、上杉景勝様も将軍を名乗ったとか」
その問いかけに、秀忠は多少意外そうに雪葉を見返した。
生活態度には口うるさい雪葉であるが、政治のことにはまず口を挟まない。
それが普段の雪葉であったからである。
「……そのようであるらしい」
「戦になりましょうか」
「なる。……であろうな」
上杉景勝が鎮守府大将軍を自称したことについては、幕府内でもかなり問題になっていた。
これをこのまま見過ごせば、容認したも等しいと主張する幕臣が多かったこともあり、その後の上杉家との外交交渉も不調のままで、このままではいずれ衝突することは避けられない情勢になりつつあったのだ。
というより、会津への出兵はほぼ幕府内で固まっていたといっていい。
大御所である家康にしてみても、奥羽の上杉家は頭の痛い存在であり、これを放置していては、せっかく開いた幕府も盤石な体制と言い難かったからである。
西の豊臣家と、北の上杉家。
この二つが、家康が自身の存命中にどうしても解決しておきたい問題であったことは、疑いようの無い事実であった。
「お雪は戦は嫌か?」
「いえ」
「む?」
思わぬ返答に、秀忠は意外な顔になる。
女子はあまり戦を望まぬものであると、勝手に思い込んでいたからであるのだが、普段から二人の間に政治的な会話はほとんど無かったため、そのあたりの雪葉の考えは秀忠もさほど把握していなかったのだ。
「好きというわけではありませんが、必要ならば致し方ないことでしょう」
あっさりと言い切る雪葉に、秀忠はあらためてその経歴を思い出すに至っていた。
雪葉の見た目は自身とさほど変わらない若々しいものであるが、それは出会った時からまるで変わっていない。
老けることが無いのだ。
その理由は人に非ざる存在に所以する。
実年齢は怖くて聞いたことが無いが、恐らく家康よりも遥か以前に生まれた存在だろう。
雪葉は秀忠が生まれた頃に勢力を誇っていた越前朝倉家に仕えていた存在であり、戦に出たことも少なからずあったそうで、秀忠などよりもよほど戦場を知っているともいえる。
その武勇も尋常ではなく、かつて命を救われた家康や、今は亡き井伊直政、そして大久保忠隣なども認めていた人物でもあったのだ。
「さようか。……うむ。では……そうじゃな」
秀忠は少し悩んでから、意を決して相談を持ち掛けることにした。
実はどう切り出そうか、悩んでいたところでもあったのである。
「上杉とは遅かれ早かれ戦になる」
「はい」
「されどこのまま攻め込むには、都合が悪い」
「そうなのですか?」
「そうらしい……いや、そうなのだ」
上杉家の軍事力は、関ヶ原の戦い以前に比べても強大になったことは、疑いようもない。
しかしそれは徳川家にしてみても同じこと。
あの戦いを機に、西国の諸大名は幕府に従ったこともあって、総合的には上杉家を圧倒しているだろう。
これは間違いない。
「まともに戦えば、勝てる。戦力はこちらが上であるからな。とはいえ、問題が無いわけでもないのだ」
それが大坂の豊臣家であり、また信州の真田家であった。
豊臣家は西国大名の中では幕府の傘下に無く、単純な立場でいえば徳川家と同等かそれ以上である。
何しろ主家筋にあたるお家だからだ。
真田家に至っては、完全に敵性の存在である。
「そこで、豊臣家のことなのだが……」
切り出したところで、雪葉の鋭い視線が向けられ、秀忠は緊張してしまう。
雪葉に対して豊臣家の名前を出す時は、どうにも慎重にならざるを得ないことがままあった。
特に千姫が輿入れして以降は、余計にである。
雪葉が産んだ子の中でも、あの千姫のことを殊の外気にかけていることは、疑いようの無い事実であったからだ。
「上杉とて現状の不利は弁えているはず。となれば、当然幕府の背後の攪乱を狙ってくるであろう」
「……つまり上杉が、豊臣家と結ぶ……と?」
「あり得る話であろう」
今では力関係は逆転しているものの、徳川家にとっても上杉家にとっても、豊臣家は主家に当たる。
徳川と豊臣とは婚姻関係があり、友好関係を築いてはいるが、関ヶ原の一件もあって豊臣家中に幕府に対して不満を抱く輩が多いことは、自明の理だ。
となると、どうなるか分からない。
「もし両家が結べば、当然真田などこれ幸いと追従してくるだろう。そうなれば上杉征伐どころではなくなる」
「……関ヶ原の再演になってしまいますね」
「うむ」
そういう情勢も踏まえて、上杉家は敢えて戦の名分になりかねない将軍職の自称などを行ったのかもしれないが、かといって幕府としては放置もできないのだ。
それこそ権威に関わるからである。
「つまり、上杉はこちらがどう動くか、待っているのでしょう。……嫌なことですね」
動かないなら動かないでよし。
それにより幕府が容認したという風評にもっていけば、自称した将軍職に権威付けをすることができる。
また出兵を試みた場合は、実に難しい采配を要求されることになるだろう。
こちらがどう動くかまるで舌なめずりをしているようで、雪葉の言うように、嫌らしいことである。
「そ、そこでなのだがな」
秀忠からすると、ここからが本題であった。
気を引き締める。
「大坂にはお千もおるし、そなたの姉君もおられる。今の大坂は、実質姉君の管理下にあられるのだろう。であれば……」
そこまで言ったところで、雪葉の表情が目に見えて悪くなった。
千姫や淀殿を政治に巻き込むことを、雪葉が嫌がっているのが一目瞭然である。
「こ、これは須和殿……い、いや、父上も言われておったことでな。うん。是非ともお雪に大坂への口添えを頼みたいと、つまりはそういうことで……」
雪葉の反応に、秀忠はつい言い訳じみた弁解をしてしまう。
機嫌が悪くなると、普段以上に厳しくなるのが雪葉なので、できれば家内平和のためにも避けたいところであったのだ。
とはいえ、避けて通れる話題でもない。
自身の立場であれば、公を優先させなければならないことは明白だったからだ。
「……大坂に、ですか」
一方の雪葉にしてみると、秀忠が見て取ったように、その要請は喜んで受けられる類のものではなかったと言っていい。
相手は色葉と乙葉。
どちらもかつての自分の姉である。
そもそもにして、自身の意思を優先させることのできる相手ではないのだ。
そうである以上、これはお願い、ということになる。
つまり、我が儘を言うに等しい。
自身を未だに妹であると思っている雪葉にしてみれば、実に心苦しいことであった。
昔を思い出す。
雪葉は滅多に我が儘の類を口にしたことは無かったが、それでも個人的な頼み事をしたことはある。
すると乙葉などは、むしろ嬉々として聞いてくれたものだった。
普段は対抗心の強い二人であったが、だからこそ、ともいえる。
そして色葉も同様だ。
難事であっても、意外に何とかしてくれようと骨を折ってくれた。
その最たるものは、道満丸の助命だろう。
今では上杉照虎と名乗っている彼は、かつて色葉によって殺されるはずだった人物だ。
その命を受けたのが、雪葉である。
にも関わらず、雪葉は何の気の迷いか、その助命を色葉に願ってしまったのだ。
結果的に、色葉はそれを認めてくれた。
それどころか自身が骨を折って、その母親である華渓まで引き込んでくれたのだ。
だからこそ雪葉は、その二人を任されたことにより、照虎と華渓を厳しく育て、指導したのである。
このように、あの二人は意外に身内に甘いのだ。
自分は色葉のような、戦略眼は持ち合わせていない。
考えも及ばない。
だからこそ、身内の情にすがって何かしら判断を誤らせてしまうことは、雪葉にしてみれば嫌だったのである。
「や、やはり嫌か?」
押し黙ってしまった雪葉へと、秀忠が困ったように両手をおろおろとさせた。
一方で雪葉は、自分で自分の顔を見ることはできないものの、ずいぶんな仏頂面になっていたことだろうと、そんな秀忠の顔を見て思う。
「……いえ」
「むむ? まことか?」
「乙葉姉様にお願いしてみます」
「おお! さようか!」
膝を打って喜色を表す秀忠に、雪葉としては複雑な心境であったと言わざるを得ない。
「使者として、天海様をと思うのですが」
「うむ。構わんぞ。かの御仁は大坂の淀殿とも面識があると聞いておる」
「ありがとうございます」
雪葉にしてみれば、実のところ直接乙葉や色葉に幕府への助力や、もしくは上杉家への助力をせぬよう、要請するつもりはなかった。
あくまで幕府としての意思を伝えるのみで、判断自体は色葉に委ねるつもりだったのである。
しかしそれが雪葉から、となれば、当然こちらの意思を忖度してくることだろう。
それくらいには、あの姉たちは雪葉に優しい。
それが、心苦しい。
でも一方で、別の感情もある。
上杉家への怨恨だ。
当事者である色葉はさほど頓着していないようであったが、雪葉は違う。
どうにも上杉が恨めしい。
何のしがらみもなければ、今回の幕府による上杉征伐に対し、諸手を挙げて賛同したことだろう。
そして色葉や乙葉は、雪葉の上杉への恨みを知っている。
だからこそ、またため息が出るのだ。
自分はこういうのはどうにも苦手である。
あとはもう、あの色葉の信頼著しい天海こと大日方貞宗に委ねる他ないだろう。
しかし、どうしてこうなったのだろうか。
この徳川家など、最初から利用するつもりでいたし、場合によっては使い捨てるのもやぶさかではなかったはずだ。
何よりの存在である色葉がすでに豊臣家に移った以上、徳川家はむしろ邪魔になりかねず、早々に見捨てても良かったはずである。
雪葉自身、共に大坂に行きたかったことも否定できない。
それでも残ってしまったし、徳川家を無下にできない感情も、確かに存在するのだ。
それはきっと、目の前にいる凡庸な男のせいなのだろう。
ままならない感情に、雪葉はため息を重ねるしかなかったのである。
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