吾妻争乱編

第90話 鎮守府大将軍


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 慶長十年五月十日。

 上杉景勝が鎮守府大将軍を自称する。


 鎮守府将軍といえば、かつては陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官を指すものであったが、時代を下り、平安時代では一種の栄誉職のようなものとなっていた。


 それは武家における最高職でもあったが、鎌倉幕府の成立と、源頼朝の征夷大将軍の任官により、取って代われられた職である。


 鎌倉時代が終わり、南北朝時代に南朝方の将・北畠顕家らが任官されたのを最後に、今に至るまで途絶えている。


 これに目をつけたのが、景勝の正室であった紅葉だった。


 景勝が鎮守府大将軍を自称する少し前、五月一日に徳川秀忠が征夷大将軍に任官されて、江戸幕府における徳川家による世襲が確定する。


 これを快く思わなかった紅葉は、養父である直江兼続や、その他重臣を巻き込んで、景勝を説得。


 しかしかつて父・上杉謙信が得ていた室町幕府の関東管領職を、敢えて世襲しなかった景勝である。


 紅葉らの要請に、当然ながら難色を示した。

 が、最終的には押し切られる結果となる。


 景勝は会津に鎮守府を開設。

 これによりこの日ノ本に新たな軍政体が生まれ、これは江戸幕府を強烈に意識したものであったといっていいだろう。


 当然ながら幕府との関係は、これまで以上に悪化することになる。


 その会津鎮守府の本拠地となったのが、新たに完成した会津神指城であった。

 それまでの本拠地であり、神指城のすぐ近くにあった若松城は紅葉に与えられ、この両城をもって会津平の象徴として、その発展に寄与していくことになる。


「ほう。また来たのか。ご苦労なことじゃのう」


 慶長十年五月二十七日。

 会津若松城。


 紅葉は側近たる最上義康の報告を受け、その唇をちろりと舐めていた。

 その様子に、義康は漠然とした予感を覚えていたといっていい。


 すなわち、戦が近い。


 紅葉がご機嫌な時は、ろくでもないことが起こる兆候であると、義康はすでに承知していたのである。


 義康はかつて上杉家が降した最上義光の長男であったが、家臣の讒言により父子の関係が不仲になったことで、誅殺されるところを紅葉に助けられ、そのまま拾われたという経緯があった。


 これは実のところ偶然でも何でも無く、優秀であった義康を手に入れるために、紅葉が行った謀略の結果である。


 慶長出羽合戦の経緯もあって、さほど最上家を信用していなかった紅葉による一手であったともいえる。


 あの慶長出羽合戦を経て、奥州の諸大名は基本的に全て、上杉家に臣従を余儀無くされた。

 その後紅葉はそれら奥羽の諸大名から人質として、その子息を近臣に侍らせ、これを手足とすべく養育もしていたのである。


 その筆頭が最上義康であり、他に戸沢政盛、津軽信枚らを直臣とし、南部政直や秋田季次といった幼少の者は小姓として侍らせ、忠臣に仕立て上げていたのだった。


「文句を言ってきたのか?」

「偽称は殿、ひいては上杉家のためならず。即刻撤回して詫びを入れよ、と」

「詫びろとな。くく、ならば槍をもってなせば良いじゃろうに」

「……そのような脅迫めいた言葉もあったと、聞き及んでおります」

「ほう」


 紅葉は笑う。


「それは良い。良いのう」

「……戦になりますぞ」

「望むところよ」


 幕府がわざわざ使者を送ってくるのは、色々理由があったのだろうが、まずは本当に鎮守府大将軍に任官されるのを阻止するためでもあった。


 現状、仰々しい名を名乗りはしたが、自称でしかない。

 権威が伴わないのだ。


 そんなことは紅葉ももちろん承知している。

 そのため正式な官職として任官されるべく、朝廷に対して働きかけていたことは、当然の流れであった。


 すでに莫大な献金を行っており、豊臣家を通じてその関係も深めている。

 幕府の存在に不満を覚える公家も少なからずいたことから、幕府としても楽観視できる状況ではなかったといっていい。


「しかし鎮守府将軍とは……あまり縁起がよろしくないのでは」


 そう言うのは、戸沢政盛である。


「ほう。なぜじゃ?」


「しからば、かつてこの奥州の地には藤原氏が鎮守府大将軍の地位を得てこれを支配し、繁栄を極めていたとされています。されどそれも、鎌倉幕府によって滅ぼされました」

「なればこそ、意趣返しにちょうど良いではないか」


 政盛の言をさほど意に介すこともなく、紅葉は先を続ける。


「幕府を開いた頼朝は、そんな鎮守府大将軍を放置することができなかったのであろ? 当然、徳川の者どもも同じであろうの。将軍など二人もあってはならぬ。であればこそ、良いのではないか」

「……奥方様なりの、挑発というわけですか」

「ふむ。そんなところかのう」


 悪びれることもなく首肯する紅葉に、義康はやや呆れたように息を吐き出した。


「なるほど。直江様のご苦労、今ならばよく分かります」

「我が父はちょっと、真面目が過ぎるのじゃ。我が殿も同じ。これでは話が進まん。そこでわらわの出番よ」


 どうじゃ、偉いであろ? とばかりに胸を張る紅葉に、義康や政盛は曖昧に頷くしかない。


「はあ」

「気の無い返事じゃのう。……父上などは分かっておろうが、そなたらも戦準備をしておけ。どうせすぐに、必要になる」

「……国許にも、ということでしょうか」

「大動員となるは目に見えておる。準備は早い方が良いからの」


 さても楽しみである、と紅葉は少女のように笑い、胸を躍らせていた。

 こうして上杉家では、にわかに慌ただしくなったのである。

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