第106話 敗戦の報


     /色葉


 慶長十年八月二日。


 広島を正則らに護衛されつつ出立したわたしたちは、途中、播磨で姫路城主・池田輝政とも合流し、一路大坂を目指してこの日に大坂城に無事帰還した。


「お帰りなさい! 姉様!」


 帰るなり乙葉が抱き着いてきたが、これも昔を思い出して何だか懐かしい。


「ん、長らく留守して悪かった」


 とりあえずは、なされるがままになっておく。


 ざっと三ヶ月以上は大坂城を離れていたわけで、我ながら気ままをさせてもらった自覚はあるから、ある程度は乙葉の好きにさせるつもりだった。


「って、こら」


 と思っていたら、上背の無いわたしは乙葉に軽々と抱き上げられてしまう。

 そのまま大切に運搬される最中、さすがにわたしは声をかける。


「どこへ連れて行くつもりだ?」

「もちろん、妾の寝所へ。えへへ」


 えへへ、じゃない。


「淀殿としての威厳が剥がれているぞ?」


 満面の笑みを浮かべている乙葉は、どう見ても大坂城の主というよりは、朝倉家にいた頃の乙葉に戻ってしまっている。

 人前ではちょっと困るぞというくらいの、変貌ぶりだ。


「誰も見ていないし」

「朱葉が睨んでいる」

「朱葉は旅の間、ずっと姉様を独り占めしてたんだし、文句は言わせないもの」


 確かにここはわたしの部屋で、朱葉くらいしか傍にはいない。

 千代保は先に休ませてやったしな。


「秀頼にもまだ挨拶していないぞ?」

「明日でいいから。旅の疲れ、妾がゆっくり癒してあげるから……ね?」


 とんでもなく妖艶な微笑を拵えて、乙葉が迫って来る。

 というか、すでに腕の中に囚われているんだけど。


「だからそういう趣味は無いんだが」

「妾はあるからいいの」

「そういうものか」

「そういうもの」


 やれやれ。

 これはかなり欲求不満が溜まっていたと見える。


 仕方がないな。

 ここは好きにさせておくか。


 と、寛大な心でそう思ったのだが、


「――乙葉、主様がその気で無いのに無理強いをしないで下さい」


 やはりというか、朱葉の待ったがかかってしまった。


「なによ。あなたの許可なんていらないでしょ?」

「私は主様の乳母ですから」

「それを言うなら姉様の娘でしょ? この間までちんちくりんだったくせに、偉そうに」

「ならば主様の娘として命じます。馬鹿をしないで下さい」

「馬鹿って何よ!」


 早速始まった口喧嘩に、わたしはやれやれとため息をついた。


 朱葉にしても、乙葉にしても、雪葉にしても――みんな我が強い。

 放っておくと、すぐ喧嘩を始めてしまう。


 お互いに認め合っているはずなのにこうなのだから、まあ性のようなものだろう。


「あ」


 乙葉の意識が朱葉に向いたことで、当然ながら隙が生まれた。

 わたしはその隙を狙い、その腕からするりと抜けだして、床に足をつける。


「喧嘩するな。二人とも、口を利いてやらなくなるぞ?」

「ね、姉様……」

「主様……」


 愕然となる二人に、わたしは苦笑しつつ、それぞれに視線を向けて諭してやる。


「朱葉。今の大坂城の主は乙葉だ。それを差し置いて、わたしは自由気ままなことをさせてもらったんだから、ある程度の代償を提供することにはやぶさかじゃない。朱葉のことも可愛いが、乙葉もわたしの可愛い妹だからな」

「……はい」

「か、可愛い……」


 わたしの言葉に朱葉はしゅん、となる一方で、乙葉は何やら目を輝かせてしまう。


「姉様が妾のこと可愛いって言ってくれた!」

「何を今さら。昔からお前は可愛いぞ?」

「姉様ー!」


 再び抱き着いてきた乙葉を、今度はうまくすり抜ける。


「あと乙葉。気持ちは分かるし応えてもやるが、朱葉の前で露骨なことはするな。多少は慮ってやれ」

「……えっと、要するに朱葉もまとめて可愛がってあげればいいってことでしょ?」


 何でそうなる。


「それも愉しそうかも」


 何を想像したのやら、舌なめずりをする乙葉を見て、朱葉が無言で一歩引いてしまっていた。

 まあ気持ちは分かる。


「……今夜は添い寝してやるから、それで妥協しろ。あと秀頼にも一応挨拶しておく。明日は明日でやることが多いからな」


 一応、わたしは軍勢と共に帰還したのだ。

 大坂城内外は、かなり物々しい。

 のんびりゆっくりと、というわけにもいかないのである。


「うん……わかった。でも姉様って、相変わらず真面目。雪葉がいないからって、姉様が雪葉の代わりをすることもないのに」


 雪葉の前だとついだらけたくなるというのに、乙葉の前だと真面目ぶってしまうのは、確かに不思議だ。


 本当、なぜなのだろうな。


     ◇


 翌日、秀頼に挨拶をすませた福島正則や池田輝政は、軍勢を率いて京へと向かった。

 そして八月四日には、伊達政宗らを始めとする四国勢も、上洛を果たしている。


 このように続々と西国の諸大名の軍勢が京に集結する中、大坂城に急報がもたらされたのは、八月六日のことであった。


「なんだと!」


 思わぬ報せに、わたしは大声を上げてしまっていた。


「ご心中はお察しいたします。詳細は未だ不明ではありますが、江戸からの報せである以上、間違いはないかと」


 そう答えるのは、豊臣家臣である速水守久。


 元は近江浅井家の家臣であったが、浅井家滅亡後は浅井長政の長女である茶々に仕え、その流れで秀吉の家臣となり、頭角を現して活躍した人物である。


 秀吉死後は秀頼に仕え、今では千姫の教育係としてわたしにつけられていた。

 わたしに直接仕えている景成や直隆らとは違うが、豊臣家中においてはその立場上、わたしに最も近い豊臣家臣ともいえるだろう。


「…………」


 知らずその場に立ち上がっていたわたしは、眉間に皺を寄せて小さく唸ると、再びその場に座り込んだ。


 少女の見せる姿としてはかけ離れた所作ではあったものの、わたしの性格などすでに大坂城では知らぬ者などいないし、守久がさほど驚いた様子を見せなかったことからも、それは分かるというものである。


「……江戸から、と言ったな?」

「はい」

「直接、大坂に?」

「……いえ。正確には清洲からですな」


 やはりか、と思う。


「幕府が大敗した事実をいち早く大坂に知らせるなど、不自然だからな」


 そう。

 わたしが驚愕したのはまさにそのことであった。


 奥州征伐に向かった幕府軍が、那須の地にて鎮守府軍と決戦に及び、大敗したというものである。

 分かっているのはそれだけで、詳しいことは分からない。


 徳川と豊臣は親戚同士ではあるが、決して良好な関係とも言えない。

 そんな豊臣家にいち早くこんな情報が流れてきたのは、清州にいる忠吉叔父の配慮だろう。


 あれはなかなかできた人物で、わたしのことも気にしてくれていたはず。

 まったく、忠吉にしても秀康にしても、我が父の兄弟は実に優秀だ。

 秀忠が劣等感を抱くのも、無理からぬことではある。


 いや、今はそんなことはどうでもいい。


「しかし、幕府が負けた、だと……?」


 改めてその言葉の意味を噛み締める。


 現在、世間が物々しいのはなべて幕府が発動した奥州征伐に起因する。

 西国の大名たちも予備兵力として動員して、続々と上洛を果たしているのが現状だ。


 もっとも主力となる東国や北陸の部隊はすでに結集し、戦線が開かれてる。


 北陸勢などは秀康叔父に率いられて越後を攻めているはずで、また本陣である幕府の中核軍は秀忠や家康に率いられて、一路会津を目指したはず。


 そして那須の地で、早速決戦に及び、大敗したという。


 下野国那須は、なるほど陸奥との国境付近だ。

 そこで両軍がぶつかったことは、まあ自然ななりゆきだろう。


 だが兵力では幕府軍が上回っていたのだから、よほどまずい戦でもしない限り、数で圧倒できたはずなのだ。


 それが、負けた。

 しかも大敗とは、穏やかではない。


「……父上は無事なのか?」

「分かりませぬ」


 その返答に、わたしは思わず自身の拳を、近くにあった脇息に打ち付けてしまっていた。


 あっさりと打ち砕かれた脇息の有様に、守久は目を見張りつつ、すぐにも周囲へと気を配る。


「姫様。お姿が」

「うるさい。どうにもならない」


 小娘の細腕ごときの一撃で、調度品がバラバラになるなどあり得ない。

 でも今のわたしは、すでにその姿を変じてしまっている。


 狐憑きの姿に戻ってしまったのは、わたしがわたし自身を抑えられていない証左だ。


 何とか我慢はしているが、妖気を抑え込むのでやっとである。

 それくらい、動揺していたといっていい。


 ちなみに守久は、この姿のわたしを知っている豊臣家臣の一人だ。


「……くそ」


 不穏に揺らめく自身の尻尾を掴みとり、それで顔を隠す。


「……家、いや、お爺様も指揮を執っていたんだろう? それなのに負けたのか」

「恐らくは」


 詳細が不明である以上、守久とて答えようのないことは分かっている。

 それでも聞かずにはおれない。


「このことは、もうみんな知ってるのか」

「評議の最中に報せが参り、まさに今、議題となっているところかと」


 乙葉や治長が真っ先にわたしの元に来なかったのは、そういうことか。

 わたしは基本、大坂の政治には関与していない。

 秀頼は当然出席しているが、その補佐として乙葉も出ている。

 だから評議の内容は、後からいくらでも聞くことはできた。


「それがしは中座して、姫様に」

「そうか」


 乙葉あたりの配慮だろう。

 少しでも早く、と。


「まずは正確な情報が欲しい。かといって露骨な動きはするな。大坂は監視されているし、京には軍勢が集まっている」


 豊臣家中には、幕府に対して快く思わない者もいる。

 というかむしろ、そういった輩の方が多い。


 今回の鎮守府軍の勝利に便乗し、倒幕を考え出す者もいるかもしれない。

 いや、その可能性は十分にあるだろう。


「……誤報の可能性もある。わざと大坂に虚報を流し、様子を見て、不穏とみれば上洛軍で一気に討ち滅ぼしにかかる策かもしれない」


 ずいぶん強引で、可能性としては低いとは思うが、無いとも言い切れないだろう。


「即座に江戸に使者を」

「いや。それよりもまず、京だ。上洛軍は一応は幕府麾下の軍勢であるし、より正確な情報もそちらに流れている可能性は高い」

「では、福島殿や池田殿に使者を」

「……ん、それでいい」


 福島正則や池田輝政は西国の大名の中では大身である上に、豊臣恩顧の大名でもある。


 幕府に忠誠は誓っているものの、大坂に対しても無下にはしないだろう。

 情報を掴んでいれば、ある程度のことは教えてくれるはず。


「守久、お前は早く評議に戻ってそのことを提案しろ。あと、しばらく誰もわたしの部屋に近づけさせるな」

「……かしこまりました」


 自分自身、落ち着くまでしばらく時が必要だ。

 でないと冷静に考えもできない。


「……くそ。この身の丈になってから、以前よりも感情的になった気がする。こういう時はやりにくいな……」

「姫様?」

「何でもない。早く行け」


 わたしの独り言を聞きつけた守久を追っ払うと、改めて一人になった部屋で大の字になってひっくり返る。


 幕府軍が負けた。

 数で勝る幕府方が敗北したことは、やや奇妙ではあるけれど、詳細が分からない以上、今は考えてしも仕方がない。

 問題は、秀忠が無事かどうか、という一点だ。


 あれでもわたしの父親である。

 何かあってはわたしも思うところはあるし、何より雪葉が悲しむ。


 ああ見えて雪葉は、かなり秀忠に対して情を持っている。

 しかも相手は上杉。


 秀忠に何かあれば、雪葉がどんな感情を抱くか、想像に難くない。

 そういうことを考え出すと、あとはもうぐるぐるだ。


 落ち着け。

 落ち着け。


 まだ何も分かってはいないのだから。


 それでも現実は、容赦なく押し寄せてくるのだった。

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