第105話 那須の戦い
◇
慶長十年七月二十四日に常陸水戸城にて戦闘が開始されたのを皮切りに、各地で続々と開戦となっていった。
翌日の二十五日には、すでに越後春日山城を包囲していた越後方面軍が、城攻めを開始。
攻め手の大将は松平秀康で、春日山城を守るは斎藤景信である。
越後守備勢は、上杉照虎を大将とする総勢一万一千の兵力であり、三万近くの幕府軍の対し、まともに戦うことは最初から難しかったと言っていい。
後詰として直江兼続率いる別動隊七千五百が会津より越後を目指していたものの、この時点では到着しておらず、そもそもにして春日山城を目指していたわけでもなかった。
景信は寡兵ではあったものの、武勇抜群で知られる秀康率いる大軍を前に、実に奮戦したといっていい。
しかし城を守る手勢は僅か三千。
勝敗は最初から見えていたといえる。
「春日山城も落ちるか」
難攻不落で知られる春日山城ではあったが、その命運は風前の灯であった。
かの上杉謙信が居城とした春日山を前に、それを攻め落とすことに秀康は感慨深くもあったが、気を緩めるわけにもいかなかったのである。
すぐ近くの福島城には上杉照虎が入っており、この動きが不気味であったからだ。
福島城は、山城である春日山城に代わる新たな城として、堀氏が越後に入っている際に普請が始められており、未だ完成をみていない。
結局秀康は軍勢を二つに分け、春日山城と共に福島城も包囲させ、同時攻略に踏み切った。
そのため圧力が減じたことにより、両城はこれに耐え、八月六日まで籠城戦は継続されることになる。
◇
一方常陸国において、七月二十六日にも水戸城に対し、本格的な攻撃が行われていた。
幕府軍一万五千に対し、城を守る佐竹勢は一万。
籠城戦ということもあり、佐竹勢は互角以上の戦いを演じていたと言っていい。
しかし翌二十七日。
土井利勝率いる一万の増援が到着し、にわかに雲行きが怪しくなった。
倍以上の戦力を相手に、佐竹義宣は苦戦を強いられることになる。
そして同日。
越後国においても動きがあった。
増援隊として越後に向かっていた直江兼続率いる部隊が、坂戸城を強襲したのである。
坂戸城は関ヶ原の折、越後侵攻を果たした上杉勢が制圧できなかった城であり、兼続はまずこの坂戸城の奪還を目指したのだった。
坂戸城は、景勝のかつての居城であり、兼続にとっても勝手知ったる城である。
土地鑑がある上に奇襲が成功し、兼続は僅か三日で坂戸城を陥落させることに成功した。
その上で、上野方面より北進してくる幕府軍を迎え撃つ態勢を整えたのであった。
◇
慶長十年七月二十八日。
幕府軍四万と、鎮守府軍二万は、下野国那須の地にて睨み合っていた。
常陸に向けた増援隊に引き寄せられるように、鎮守府軍は一万五千の兵を援軍として派遣。
それを知った幕府方では、にわかに決戦論が強まることになる。
「一万五千もの兵力が消えたとなれば、これぞまさに好機。一気に決戦に持ち込むべし」
このような主戦論が強まったのは、逆に時をかければ、常陸での戦線が危うくなると危惧する声もあったからである。
現状、常陸にある幕府軍の戦力は二万五千。
対する鎮守府軍も、援軍を含めて二万五千。
全くの互角である。
本陣を手薄にしてまで一万五千もの援軍を送った景勝に、家康は感心すると同時に、あまり時はかけられないとも考えるようになっていった。
万が一、常陸戦線が崩れるような事態になれば、下野戦線にも影響を与えてしまう。
景勝は決戦を望むかに見せて、まずは佐竹に対して義理を通し、なおかつ幕府軍を打ち破ることで、士気を上げようとしているのだろう。
となると、幕府軍主力四万がここで何もしないのは、むしろ敵の術中にはまっているように思ってしまう。
ところが景勝は意外な行動に出た。
三万の軍勢をもってついに下野国を侵し、那須へと侵攻したのである。
これについて、
「景勝は猪武者ではないか」
幕府方ではそのような声も上がったのは事実である。
ともあれ大田原城目指して進軍する鎮守府軍に対し、幕府軍も座視しているわけにもいかず、軍勢を動かさざるを得なかった。
そうしている間に決戦論は強まり、秀忠なども今こそ雌雄を決する時であると、その意気込みや盛んになっていく。
家康としては一抹の不安を覚えずにはおれなかったが、それも那須の地について吹き飛んでしまうことになる。
「申し上げます! 敵勢約二万! 陣を構えて我らを待ち構えております!」
伝令の報告に、家康を初めとする諸将は顔を見合わせた。
「二万とな? 三万ではないのか」
「疑い無しとのこと!」
「これはしたり! 勝ったぞ!」
諸将の誰かの言葉に、家康もまた同感であったことは、むしろ後の不幸となる。
「三万でも我らに劣るというに、二万とは。景勝め、出し惜しみするとは片腹致し! 所詮は示威行動であったのだろうが、迂闊としか言いようがあるまい。父上、これぞ攻め時ですぞ!」
これぞ天の与えたもうた僥倖であると秀忠などは小躍りし、にわかに戦機は熟すこととなった。
世にいう、那須の戦いである。
◇
那須での戦いは、降雨の中始まった。
まずは幕府方より水野勝成隊が、鎮守府方の本庄繁長隊に打ち掛かったことで、開戦の火蓋は切って落とされることになる。
本庄隊の頑強さを見て取った家康は、即座に藤堂隊を投入。
景勝はこれを見ても兵を送らず、やがて本庄隊は崩れ出し、敗走。
これを機に、幕府方は一気に駒を進めることになる。
鎮守府方の各将も、時には踏みとどまって応戦し、激戦となったものの、じわじわと押され、後退を余儀なくされていった。
戦闘の序盤は幕府軍にとってまずまずの展開であり、力押しにて十分な戦果を上げつつあったと言っていい。
「正純よ。勝ってはいるが、敵数の割には時間をかけすぎではないか」
「敵も必死。となれば、こちらの思惑通りばかりには、事は進みますまい」
本多正純の言に頷きつつも、家康もこの時はまだ、楽観視していた。
「上様より、我らも前進すべきではないかと、使者が参っております!」
伝令の報告に、家康は渋い顔をする。
「本陣を動かして何とするか」
「とはいえ大御所様。敵が後退を繰り返しているため、戦列が伸び切っておるのも確かです。先陣の水野殿や藤堂殿らが突出し過ぎているような気もいたしますし、多少陣を進めるのもよろしいかと」
「ふむ……。しかし下手に前進を許せば、秀忠は勇んで進み過ぎぬか心配だ」
「勢いで押し切るのも、一つの手でしょう」
結局家康は、この時全軍に前進を命じてしまうことになる。
一方の景勝は、正純が口にしたように、必死の戦いを強いられていた。
家康のように後方の本陣でゆるりとする余裕も無く、鉄砲玉や矢の飛び交う戦場を、まさに槍を振るいながらの馬上にあったのである。
「これ以上は危のうございます! 殿、お下がりを!」
「敵は引き付けたか」
主君を守るべく傍にあって奮戦する山岸尚家に諭されながらも、景勝は冷静に戦況を確認していた。
「十二分にござりまする! さっ、お早く!」
「兵に無駄死にはさせるな。首尾よく撤退に及べ。じきに風向きが変わる」
「お任せ下され!」
幕府軍四万、鎮守府軍二万という劣勢にあって、景勝はむしろ最前線近くで戦い、その勇猛ぶりというよりは蛮勇振りを敵に見せつけ、前進を誘うことに苦心していたと言っていい。
事実、景勝の馬印を見つけ、殺到した幕府軍は少なくなかった。
しかし景勝がこのような危険な役を買って出たのには、当然思惑があってのことである。
「されど殿自ら囮になるなどと、策とはいえ、奥方様は何をお考えなのか」
「言うな。勝利さえできれば、それで良い」
◇
敗色の色濃い戦場を景勝らが後退する中、主戦場の遥か先において、その様子を舌なめずりして見守っていた者もいた。
紅葉である。
「家康本陣が動きましたぞ!」
「かかったのう」
津軽信枚の報告に、紅葉は真っ赤な舌で唇を舐めつつ、くく、と笑う。
「信枚よ、そなたの父や兄殿の首尾はどうか?」
「すでに戦場に向けて進軍しているはずなれば」
「よし、よし」
ほくそ笑む紅葉は振り返り、おもむろに告げた。
「では出陣じゃ。早うせねば、我が愛する夫殿が死んでしまうでな?」
「……なれば、殿を囮にする策など口になされなければよろしかったではありませぬか」
とは、戸沢政盛。
「何を言う。我が夫殿であるからこそ、家康めも釣れたのじゃ。まことに善き哉」
「……なにゆえ殿は、このような奥方に一目惚れされたのやら」
「そんなもの、わらわが美しく聡明であるからに決まっておろう。実に見る目のある夫殿よ」
「ご自分で言いなさいますか」
「誰も言ってくれぬからのう」
ひとしきり戯言を口にしていた紅葉であったが、すでに戦準備は整っている。
「家康などとっとと片付けて、水戸に向かわねばならんからな。やれやれ、忙しいことよ」
水戸城に向かったはずの、一万五千の援軍。
しかし実際には途中で引き返し、時機を見計らって、那須を目指していたのである。
これはそもそもにして、紅葉に援軍の意思が無かったことによる。
いったんは景勝の命に従ったようにみせ、実際に兵を率いて水戸へと向かうに見せた紅葉であったが、その裏では佐竹からの使者である和田昭為や梅津憲忠を説得し、決戦の必要性を説いたのであった。
その事実を景勝は事前に知り得ていたわけではなく、全て紅葉の独断専行である。
だがそうでもせねば景勝の意思を変えることは難しかったのも事実であり、その辺りを弁えていた紅葉の判断に関しても、兼続や義光への根回しを彼女が事前に行っていたことも功を奏して、景勝もこの策に乗らざるを得なかった、というわけであった。
首尾よく幕府軍を決戦に引きずり出したものの、鎮守府方とてかなり危ない橋を渡っていることには違いない。
まずは常陸の佐竹が窮地にあること。
そして総大将である景勝自身が囮となり、死地にあるということである。
とにもかくにもこれは賭けであったのだ。
そして紅葉は、この賭けに勝つことになる。
序盤は数の優位により、優勢を演出していた幕府方であったが、陣が伸び切ったところを横手から一万五千もの鎮守府軍別動隊に急襲されたことで、戦局は一変した。
「ほれ、敵は慄いておるぞ! 案山子を討つなど児戯にも等しいではないか!」
その戦場をまさしく鬼の如き有様で蹂躙した紅葉により、幕府方はついに支えきれずに総崩れとなる。
結果、壊滅的な被害を受けた幕府軍は潰走し、敗残兵は命辛々にして宇都宮城へと撤退したのであった。
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